無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10508日

 今日、国保の保険料が決定したという通知が市役所から届いたが、その額がなんと去年の協会けんぽの1/4になっていた。去年の4月以降全く仕事をしてないので、安くなることはわかっていたが、こんなに安くなるとは思わなかった。今の社会、貧乏人は貧乏人なりに、何とか暮らせるシステムになっているようだ。それでも去年は1月から3月までは仕事をしていたが、今年は1月から無職なので、来年度の保険料はもっと安くなるということなんだろうか。楽しみにしておこう。

 金は持っていても荷物にならないので、あるならあったほうがいいと思うが、金は天から降ってくるものではない。金を持つということは、それなりに努力もいるし、持続する強い意志も必要だろう。一時清貧という言葉がはやったことがあった。どうやら、田舎に住んで晴耕雨読の貧乏暮らしをすることだと勘違いした年寄りがいたようだが、清貧生活をすることと、実際に金がある無しは関係ないことだ。つまり、清貧は経済的な貧だけを指すものではないということだろう。

 わしの場合は、清かどうかはわからんが、経済的な貧だけは間違いない。3人の子供の教育費はずっしりと重かった。家庭内資産のほとんどを子供のために使い果たしたともいえるだろう。しかし、そこに徒労感はまったくない。それどころか、逆にこのことは、わしら夫婦の人生に一種の充実感を与えてくれているのも事実だ。その充実感の前では、経済的な貧など何の影響力もない。

 論語にもでてくる位だから、昔から言われていたんだろう。経済的な貧であることは決して自慢できることではないが、卑下することでもない。そもそも、経済的な貧というものは、人の人生の本質とは何の関係も無いと思う。その本質を狂わすものは、経済的な貧ではなく、それが呼び寄せる精神的な貧ではないだろうか。