無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10484日

 来年3月から、長男がうちの近所に異動することが決まったので、子供の幼稚園をこちらで探す事になった。わしらの頃は幼稚園といえば、先生が本を読んでくれたり、絵を描いたり工作をしたりして、別に何か特別な目的を持って行く様なところではなかったような気がするが、最近は違うんだな。近頃、あの将棋の天才、藤井君が習ったと言うモンテッソーリ教育とかいうのが、もてはやされているらしい。まあ、モンテッソーリ教育経験者の中で、藤井君クラスの天才が、各分野に何十人もでているのならともかく、藤井君の例だけで、『藤井君は将棋の天才』『彼はモンテッソーリ教育を受けていた』『モンテッソーリ教育は天才を育てる』とはならないだろうが、良い宣伝にはなったようだな。

 昨日今日と、長男の嫁が3つの幼稚園を見学に行ったが、そのうちの1つ、S幼稚園がモンテッソーリだった。包丁やまな板、洗濯板、アイロンなんかを使って遊ぶ部屋があって、子供等は楽しそうに遊んでいたけど、実験室みたいな感じで、あまり良い印象は無かったようだった。午後から行ったW幼稚園は、冷房もないし、庭に出て、やりたい事をやって思い切り遊ばせるのが特徴で、子供等は元気いっぱいだったが、一時間見学しているうちに、暑さで嫁の方がめまいがしてきたらしい。口コミによると、W幼稚園の子供は、自由すぎて小学校に上がってから、規則に馴染めないことがあると書かれていたから、自由に遊ばせるといっても程度の問題だろうな。

 こんなことを言っても、誰からも賛同を得られないのはいつもの事で、昨日も晩飯の時に、冷たくあしらわれたが、わしは幼児それぞれの個性を伸ばす教育とか、やりたいことを自由にやらせるとかいう教育は間違いだと考えている。わしは自分が子供のときの感覚を、人以上に覚えているので、その記憶から、『幼児は大人の縮小版ではない。全く別の世界に生きているもので、その行動も衝動によって動かされているのであって、それは大人の世界でいうところの個性なんかではない。』ということを知っている。これは理屈ではない。個性として確立する過程にある幼児の教育とは、その意識を人の社会で生きて行くための、最低限の智慧の鋳型にはめていく作業だと信じている。