無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10478日

 最近結婚しない若者が増えているらしいが、わしも20代の頃は、結婚したいとは思わなかった。自分のことだけで精一杯で、人の事まで考える余裕が無かったし、更に給料が安いという事もあって、家族を養う自信も無かった。東京にいたということもあるが、土地を買って家を建てることなど夢のまた夢であり、そんなことよりも、自分は如何に生きて行くべきか、生まれて来た意味は何だろう、これから何処に行くんだろう、次から次へと押し寄せて来る、絶対解決できない疑問に疲れ果てていた。

 本を読んでいても、誰かと話していても、映画を見ていても、寝ているときですら、常に醒めた眼でみつめて、「お前は、こんなことをしていていいのか?」と問いかけてくる自分がいる。常に後ろから追いかけられているようで、落ち着かない、不安定な精神状態だった。その当時、嫌な夢を見る事が多かったので、それをノートに書きとったことがあった。常にノートと鉛筆を枕元に置いて、夢で眼が覚めるとその内容を書くんだが、人には言えない様な凄惨な内容に、気が狂ったんじゃないかと思った事もあった。

 ちょうどその頃、田舎に帰ってこちらで働かんかと、親父が転職の話を持ってきた。今から思えばそれが1つの転換点になったのかもしれない。何かを求めるから疲れるので、どこへ行くのか知らないが、大きな流れがあるなら、それに身を任せてしまおうと思うようになった。

 人智を越えた大きな力があるのかどうか、それはわからない。わからないことは、わからないままでほうっておこう、とにかく、此の世に生を受けた以上、普通に、やるべきことをひとつひとつやっていこうと決めた。結婚もその中の1つだった。結婚して子供を作るという事は、或る一定の年齢でしかできないことだ。子供の成長をみながら、家族とともに過ごせることが、これほど楽しいものだとは思わなかった。知らないだけで、人生の中にはこんな素晴らしいことが、他にも一杯つまっているんではないだろうか。それを逃すのはもったいない。

 案外、田舎へ帰るというのも、自分で決めたというよりも、何か大きな力に、後ろから押されたような気もする。わしはその流れに乗ったことによって、次の地平が開けてきたともいえる。大きな力によって導かれている、今の自分を否定せず、いつも良い方向に向かっているんだと、信ずることができれば、死ぬとき後悔することなく、充実した死を迎えることができるのではないかと考えている。