無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10475日

 最近、女房が早く帰ってくるので、晩飯の支度をしなくてもいい日が続いている。別にやってもいいんだが、作ってくれと、言われることもないので、それに甘えている。ということはやはり、飯炊きはできればしたくない、というのが本音だったんだろうかな。しかし、やらないからといって、その時間を他に有効に使っているかというと、そんなことはない。実際はその逆だ。晩飯の準備をする時間は、結構充実していて、やったという達成感があった。この達成感というものは潤滑油みたいなもので、特に、今のわしのように、平板な生活を続けている者にとって、必要欠くべからざるものであるということが、わかってきた。

 朝起きて布団をあげて、掃除機をかけて、雑巾で床を拭く、ベランダで太陽参拝、神前で祝詞奏上、仏壇に線香、歩行5000歩、古事記音読、これらはいつの間にか、一連の流れ作業のように、滞り無く行われているが、去年はそうではなかった。いろいろ試行錯誤を繰り返しながら、ひとつひとつを意識して、もう少し丁寧にやっていたようにも思う。時々、気が付いてネジを巻いてはいるが、やはり、楽な方へ流されているという感じはしている。なんとか食うには困らないんだから、それならそれでいいだろうという考え方もあるが、それを言ってしまうと、極端な話、生きていても仕方がないだろうということにもなりかねない。今、わしが毎日やっていることを、死ぬまで続けても、恐らく何も達成することはないだろう。周りから見れば、あと10475日、ただ淡々と生きたという事実が残るだけだ。それでも良いと思ってはいるが、時々ぐらつくこともある。

 そんな状況の中で、大きな達成感を得るのが困難なら、日々小さな達成感を得ることで、心の安定に繫がる事もあるのではないかと、考えるようになった。飯を作るという作業は、外部世界とほとんど交渉のない、今のわしの生活の中で、唯一、直截的に人と関わり、人の役に立つ作業であり、且つ人から評価される作業でもある。おいしいと言われれば嬉しいし、そうでなくても、結果にとらわれず、作り終えた時の達成感はたしかに残る。これは小さな、生命の潤滑油として、単調な生活の中で、1つの救いになっているような気がする。

 更に言えば、この飯炊きで感じる小さな達成感が、朝起きてから寝るまで、何をしていても、生きているということ全てに対して、感じることができるようになったら、どんなに素晴らしいことだろうか。それだけで生まれて来た甲斐があったというものだ。