無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10429日

 わしは昭和47年に、上野動物園に初めてやって来たパンダのカンカン、ランランを、公開初日に見に行ったことがある。正面ではない、特設のパンダ専用入り口に朝から並んで、先頭近くの好位置をキープしていた。最近気が付いたんだが、案外これは貴重な経験といえるのかもしれんな。開園後3列か4列になってぞろぞろとパンダ舎の前まで案内された。わしは3列目くらいだったので、前の人が邪魔になり、立ち止まることもできないので、パンダがどこにいるのか探しているうちに押しだされしまった。

 当時わしは、川崎にあった日立造船神奈川工場に入渠中の練習船北斗丸に、10月の末頃から実習生として乗船していた。それで日曜日にパンダ初公開があることを知り、友人のN君と一緒に東神奈川から上野まで出かけて行ったということだ。東京へ遊びに行ったのは、この時が生まれて初めてだったので、人も多いし、ちょっと緊張したように覚えている。パンダを見た後、N君とボウリングをやろうということになり、上野あたりをあちこち歩いたが、ボウリング場が見つからなかった。

 さて、どうしようかと相談した結果、以前から東京に行くことがあったら是非行ってみたいと思っていた、靖国神社に行こうということになった。しかもだ、まさにここは上野駅、あの歌、「九段の母」のように歩いて行ってみようと話はまとまった。いささか変わった若者ではあったようだ。

上野駅から九段まで、勝手知らないじれったさ 杖を頼りに一日かがり せがれ来たぞや会いに来た。」

 途中で道を尋ねたら、歩いて行くのかと驚かれたが、「九段の母」の話をするともっと驚いていた。戦後27年目だったから、40歳以上の人ならたいてい知っている歌だった。あちこちで目印を教えてもらったりしながら、ようやく着いたのは、遊就館が閉まる1時間くらい前だった。年寄りが杖を頼りに歩いたら、本当に一日かかるだろう。さすがにへとへとだったな。

 遊就館では、戦死者の写真が並んでいたので、伯父のもあるのかなと探してみたが、数が多すぎて全部を見ないうちに閉館時間になってしまった。この後参拝して靖国神社を後にした。覚えているのはここまでで、どうやって帰ったかということは全く覚えていない。

 思えばこの頃から翌年の9月までが人生のピークだったような気もする。4年半の座学から解放されて、やっと航海実習が始まり、まさに前途洋々のように感じられた。何をしても楽しく、悩むことなど何もない、まことに清々しい気持ちだった。しかし、21歳が人生のピークというのも困ったもので、それから45年、あの頃のような清々しさを感じたことは一度もない。

 言い方を変えれば、そこからがわしにとっての真の人生の始まりでもあり、生きる価値の再発見への道程の始まりでもあった。そして、そのことに気が付いた以上、もうあの頃の自分にもどることはできなかった。その後歩んだ45年はそれなりに満足はしている。それでもたまには、全てを忘れて、一瞬でもいいから、N君と無邪気にパンダを見に行った、あの頃に帰ってみたいような気がするのも事実だ。