無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10359日

 来年の今頃は10000日を切って、9000日代にはいっているはずだが、夜中に咳き込んでいると、例えガンにならなくても、そのカウンターを全部使い切ることはないのかなと、感じたことがあった。ある晩、咳き込んで痰を吐きながら、正岡子規もこんなに苦しんだのかと、ふと子規の俳句が頭に浮かんできた時のことだ。

糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな

痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず

また、子規は病気が病気だから、その苦しさはわしなんかとは比べ物にならないはずだ。案外、死んで悲しいと言うより、やっと楽になったという表現の方が正しいのではないかと思ったりしながら、7~8年前に訪れた、根岸の子規庵の風景が頭の中を巡っていた時のことだ。

 カウンターを使い切るかどうか関しては、目標にしているとはいえ、実際わし自身半信半疑なので、別にいいんだが、今回は気持ちの衰え以上に体力的な衰えを感じたことがショックだった。考えてみれば、この、気力は十分だが体力が心配という今の状態は、わしの子供の頃と同じだ。

 小学校中学校時代は、青い顔をして、よく学校も休んでいたような虚弱児だった。山に行っても、なかなか皆についていけないとか、そもそもみんなに労わられること自体が、わしにとっての大きなコンプレックスだった。そして、力も喧嘩も弱いくせに人に突っかかっていく、こんな自分自身も嫌だった。これはその後、小児喘息から解放されるまで続いた。14~5歳で小児喘息から解放されるとすぐに猛ダッシュが始まった。ちょうど体も大きくなる頃だったし、運動にも励んで体力面では、すぐに追いつき追い越した。体力も気力も十分で、もう喘息にとりつかれることはないだろうと安心していた。

  そして時代が動いて、人生双六の第4コーナーを回った今、引いた札には「振り出しへ戻る」と書いてあった。さらに喘息というおまけまで付きだ。喘息が極端に体力を奪うということは既に十分わかっていても、さすがに、ポカリのキャップを開けることができなくなるとは、考えたことも無かった。勿論今では回復しているとはいえ、体力面での不安は大きく影を落としている。

 子供の頃は、いろんな夢や未来がそこにあったから、それが支えになって病気にも耐えることができたが、今、あの時の状態になって耐えることかできるかと聞かれたら、さあ何と答えようか。少なくとも、薬の無い状態で耐えるしかなかった、あの時代を再現する気力は無いということは間違いない。既に生きるという気力の面では60年前の自分自身に負けている。このように生きる気力体力ともに減少していく中で、いつまでカウンターに付き合っていけるのか、楽しみだ。