無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10051日

 先日中学校の同窓会があり、幼馴染だった友人と二人で参加した。卒業してすでに50年を過ぎて、クラス担任はみんな死んでしまった。同窓会というのも、やはり自分の担任が元気でいてくれた頃のほうが、昔話で盛り上がったものだ。特にわしは中学3年間同じ担任だった関係で、他の先生が参加していてもあまり話すこともなく、たまに話しても、向こうもあまり覚えてないようで、おかしな時間が流れることがよくあった。

 わしの担任はY先生という人で、今上天皇(当時の皇太子殿下)と同い年だった。たしか天皇陛下より数日早く生まれていたはずだ。こんなことを覚えているのも、入学式の後、教室で自分の名前の由来を懇切丁寧に教えてくれたからで、わしはそのときの情景をつい昨日のことのように覚えている。Y先生もまだ20歳代後半だったはずだ。

 卒業して25年たった40歳の時に最初の同窓会があった。その時に先生の年齢の話になり、わしが天皇陛下と同い年だったはずだから○○歳だとみんなに教えてやった。これにはY先生も驚いていた。本人はそんな話をしたことはすっかり忘れていたようで、先生の欣二という名前の講釈を、今度はわしが先生に代わってみんなにすることになった。

 皇后陛下と同じ頃に身ごもったY先生のお母さんは、こんな有り難いことはない、どうせなら皇后陛下と同じ日に産みたいと願った。わが子がこの世に生まれてくることは自分たちにとっては大きな欣びであることは当然だが、同じ頃に生まれる予定の天皇陛下の子供は国民や国家にとって大きな欣びでもある。その両方を祝うという意味を込めて「二つの欣び」すなわち「欣二」と名付けた。しかし残念ながらお母さんの辛抱がたらなかったのか自分が気が早かったのか、数日早くに生まれてしまったので、同じ誕生日とはならなかったという話だ。

 中学一年で聞いた時は、単なる笑い話のようでみんなが腹を抱えて笑っただけだった。二つの欣びという意味を真剣にとらえることはなく、ドタバタ喜劇をみるような感覚でストーリーを捉えていた。この話の持つ意味が何となく分かってきたのはずっと大きくなってからのことだった。

 敗戦によって、戦前は暗黒時代として封印され、アメリカによってもたらされた戦後の輝かしい民主主義とやらが幅をきかせてきた。しかし、明治大正生まれのわしらの親や祖父母の世代から直接聞いてきた歴史は決して暗黒ではない。今より貧しかった故の苦労はあったが、みんな一生懸命働き、家庭を大切にして質素な生活を楽しんでいた。これは今と同じだ。そこには時代の断絶など存在しない。

 天皇陛下に子供が生まれるということと、わが子の出産を「二つの欣び」として何の疑いもなく祝福できるという親の純粋で素朴な気持ちは、戦後教育を受けた者にはなかなか理解しがたいことかもしれない。もちろん批判するのは簡単だ。しかしわしは今、この話を思い出すときに、子供の時のような笑いではなく、いつも心の底から羨ましいと感じてしまう。そしてそう感じるようになった今の自分に満足している。