無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10554日

 昭和50年の2月頃、わしはニューヨークで、3国間輸送のタンカーを下船して、日本へ帰ってきた。次の寄港先がロッテルダムのユーロポートということを知っていたら、もう一航海したんだが、この会社は出港直前になるまで何処に行くかわからなかった。極端な場合、○○方面としてひとまず出港し、航海中に行き先が確定することもあったくらいだ。わしの経験の範囲でも、ニューヨークからアフリカのガボンのケープロペへ向けて出港したのに、途中でバハマのフリーポートに変更になり、進路を大きく変えたことがあったが、こんなことは日本船では考えられなかった。

 さすが今でもスーパーメジャーとして石油マーケットを支配している会社だけあって、原油をとにかく安い所で積んで、高い所で売ることに徹底していた。実際に見た訳ではないが、サンフランシスコの本社の一室には、全支配船舶の現在地と、各地の原油の値段が一目で分かるボードがあり、そこで1セントでも安い売り手があれば、そこに一番近い空船を向かわせ、1セントでも高い買手があれば、そこに一番近くにいる満載した船を向かわせるというようなことをやっていたらしい。こんなこと今では当たり前かもしれないが、44年前に聞いた時は信じられなかった。

 福利厚生も進んでいて、業務用大型洗濯機、乾燥機、アイスキューバー、映写室、35mm映画フィルム、シャワートイレ付きの部屋等、わしの知っている日本の貨物船では考えられなかった。また、毎朝のミルクは絶対切らしてはならないということで、会社から厳しくチェックされていた。コスト意識もしっかりしていて、乗組員は全員日本人だったが、もともとは勿論アメリカ人で、その人件費が高くなると、北欧人に代わり、さらにイタリア人ときて次が日本人だった。日本人の人件費が高くなると、つぎは韓国人に代わったらしい。給料がドルでもらえるから、1ドル360円だったころは、夢の様な高給取りだった。昭和44年頃といえば、大卒初任給は3万くらいだったようだが、当時22歳の先輩が手取り15万もらっていた。今の値打ちで言えば100万越えだろうな。わしなんかもドルをもらって喜んでいたんだから、為替レートからみると、まだまだ敗戦国民だったようだ。今でこそ日本も偉そうに言っているが、当時は見る事聞くこと、とにかくアメリカはスケールが大きかったな。

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あと10555日

 定年で仕事を辞めたら、犬の花子を連れて車中泊をしながら旅をしようと考えていた。小太郎は女房に依存していて、女房がいないと生きて行けないので、これは初めからあきらめていた。そこで、それまで13年乗ったプレマシーを買い替える時に、車中泊にも使える車を探すことにした。いろいろ調べてみると、軽のバンが比較的安く、床もフラットになるらしいので、これにしようとほとんど決めていたんだが、やっぱり5人乗れたほうがいいと、女房が言うし、3速オートマいうのも、長い距離を走るのにはしんどいかなと考えて、軽はあきらめた。3列シートならすべての条件はクリアできるが、でかい車を買う気はなかったし、車に金をかけたくもなかった。

 条件としては、1000ccから1500ccの中古の小型車で、後ろのシートを倒したら170cm以上のスペースが確保できて、更に床がほぼフラットになるということになるが、この条件を満たす車はそれほど多くはない。トヨタヴィッツファンカーゴ、ホンダフィット、スズキソリオ、マツダデミオを調べて回ったが、ファンカーゴとフィット以外はフラットにならないことがわかった。ファンカーゴは既に製造が終わっていたので、フィットを探す事にした。

  フィットの荷室も完全フラットではないが、すのこを敷いて上にマットを置けばほぼフラットになるし、わしの身長なら、少し斜めに寝ると足を伸ばす事ができることがわかった。アルミ発砲エチレン断熱シートで窓の覆いを作り、夜間用のLEDランタンやインバーター、寝袋等必要と思われるものをだいたい揃えたので、暑くならないうちに、まずは家から3時間位で行ける道の駅に1泊してみる事にした。

 そのことを女房に話すと、実際に行く前に一度ぐらい車庫内の車で寝て、試してみといたほうがいいんじゃないのかと言い出した。確かに言われてみればその通りなので、その晩、花子と一緒に車中泊することにした。ところが、犬の習性からか、車の中をくんくん匂いを嗅いで回るし、ドアを開けろといってガリガリ引っ掻くし、家の前を人が歩く度にわんわん吠えるし、狭い車内を休みなく動き回るので、わしも寝る事ができない。結局2時間位で諦めて、車中泊は中止になった。

 たまには女房の言う事もきいてみるもので、ほんとうに出かける前に試してみといてよかった。あのまま出かけたら、睡眠不足で大変な事になるところだった。これで花子も無理だとわかったが、かといって1人で行く気にもならず、ぐずぐずしているうちに、いつのまにか熱も冷めてしまった。

あと10556日

 昭和48年10月に卒業後、家で1ヶ月試験勉強をして、甲種1等機関士と機関長の筆記試験を受けるために広島に渡った。試験期間は5日間だったが、無謀にも、前もって宿もとらないで出かけて行ったように記憶している。友人もたくさん来るので、なんとかなるだろうと気にもかけていなかった。この時、当時花形だった水中翼船に初めて乗ったが、思った以上のピッチの早い揺れで、音戸のあたりで船酔いしてしまった。これから船乗りの国家試験を受けにいくのに、船酔いするとは縁起でもないと、なんか嫌な予感がしたな。

 海運局の前で集合して話を聞いた後、明日からの試験に備えて宿へ散らばるんだが、さあどうしようかと思案していたら、Y君が1人増えても大丈夫だからと誘ってくれた。ついていくと、そこは宇品港近くのラブホテル街にある木賃宿で、総勢8人が3つの6畳間に泊まる事になった。部屋は古く、汚かったが、2食付きでとにかく安かった。部屋に入ってテレビをつけたら、ちょうど「サインはV」をやっていたな。今から思えば、この木賃宿で過ごした数日が、同じ目的を持った気の合った者同士で、何のわだかまりも無く和気あいあいと過ごした、青春の最後の日々だったといえるのかもしれんな。ただ、隣の連れ込み旅館から、時々聞こえて来る喘ぎ声には参った。

 翌日から2日間続いた甲種一等機関士の試験が終わり、わしは結構手応えがあったし、もう1人、Y君も自信があったようだったが、残り6人は、不合格間違いないと言って、機関長は受けずに、さっさと家に帰ってしまった。にぎやかだった宿も、わしとY君だけになって、急に火が消えたように静かになってしまった。人が減って行くというのはいやなもんだ。さて、わしはこの時、甲種1等機関士は合格して採用となり、11月24日に名古屋港から乗船することになった。落ちた6人は来年2月の試験に再挑戦することになった。

 たったこれだけのことだが、この頃までは時間がゆっくり、穏やかに流れていた。しかしその後、押し寄せて来た奔流に、なす術も無く流されていったその後のわし自身の生き様を考えてみる時、それは無知故に、そう感じていただけなのかもしれないが、実に幸せな事で、もはやその頃の時間の流れを懐かしんでも、残念ながらその欠片さえも感ずることができなくなってしまったということに、気づかざるを得ない。他の7人はどうだったんだろうな。

 

あと10557日

 わしは16歳で全寮制の学校にいって、それから5年と半年、団体生活を経験したが、同じ事を子供にやってほしいとは思わなかった。全寮制での生活は、これを実現したいという強い欲求がなければ、勤まる物ではない。今そういう状況で全寮制の学校といえば、防衛大学校とか海上保安大学校とか、将来団体で仕事をしなければならない特殊な学校が多いが、そういう学校を目指す学生は、全寮制も当然経験しなくてはならない通過儀礼ということで、耐える事はできるかもしれない。

 しかし、大学生ならともかく、わしの学校のように、15歳くらいで、年も若く意志がまだそれほど明確でない者は、目的意識が萎えてくると、寮生活に耐えられなくなり、生活が乱れて性格も荒んで来る。わしの周囲でも目的を失ったものは、暴力をふるったり、公然と煙草をすったり、酒をのんだりするようになった。それが見つかって家庭謹慎3週間。この間、学校の指導は無しで、ほったらかしだ。要するに、全寮を強制しておきながら、ルールを破った時は寮には置いとけないから、家でちゃんと教育しろということなんだろう。帰ってきても、つまらないから同じ事を繰り返す。そして2回目の家庭謹慎3週間、そして3回目で退学だった。

 退学にならなくても、3週間の家庭謹慎が3学期の学年末試験にかかると、全科目0点になるので、赤点が3科目以上となり、落第が確定する。通常落第して下の学年にいくと、もっと荒れて多くがやめていった。高校生の年代はまだ子供だ。試験だけでも受けさせてやればいいのに、こういう状況を自己責任として事務的に処理していった学校に、今も疑問を持っている。これらの学生もこの学校に来ないで、親元から普通の学校に通っていれば、或は全寮でなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。ルールを破ったから親元で教育し直せというのではなく、若いんだから進路変更も含めて、柔軟な指導をすることが教師の責任だった思う。学校を退学になって、親と一緒に寮から出て行く仲間を見るのもつらかったが、本人はもっとつらかっただろう。

 ちなみにわしの二男は高校生のときに、煙草所持で警察に補導され、1週間の停学になった。わしら夫婦も校長に謝罪しに行ったが、停学とはいっても、授業こそ受けられないが、毎日登校して先生とも話して、反省文を書き続けた。学校は卒業まできちんと対応してくれた。わしは今でもこの二男の行った高校には感謝している。

あと10558日

  わしは小さい頃からカメラに興味があって、うちにあった、ヤシカの2眼レフカメラのファインダーをのぞくと、不思議な世界を見ている様な気がして、わくわくしていたのを覚えている。初めて自分のカメラを持ったのは中学生のときだった。1000円以下で買えるカメラがあれば買ってもいいよと言われていたので、町を歩いていても、よくカメラ屋の店先をのぞいていた。当時、安いのでも数千円はしていたから、おふくろも1000円で売っているカメラなんかあるわけないと思っていたんだろう。

 ところが、ある日の夕方、市内の繁華街にある、とあるバス停の横にカメラ屋ができているのに気が付いた。バスが来るまでまだ時間もあるし、ひょっとしたら1000円カメラがあるかもしれないと思って、ちょっとのぞいてみた。三畳分くらいの小さな店で、ガラスの陳列台の中に何台かカメラを展示していた。そして、その隅っこの方に置かれている小さなカメラに、500円の値札がついているのに気が付いた。当時既に旧式になっていた、蛇腹式のカメラで、売っているのが不思議な感じだった。

 これなら買えるぞと、わしは店の主人に、今はもってないが、これから家に帰って500円持ってくるから、売らないでとって置いてほしいと頼んだ。すると意外にもそのおやじが、子供には売らない、親と一緒に来たら売ってあげると言い出した。わしにはその意味がよくわからなかったが、とにかく親を連れて来たら売ってくれるのかと聞くと、そうだという。そこで、父親が仕事から帰ったら一緒に来るから、カメラは取っておいてくれと頼んで、急いで店を出た。

 それから2時間ほどして親父と一緒に店を尋ねて、父親を連れて来たからカメラを売ってくれというと、ちょっと意外な顔をして親父の方を見た。まさか本当に連れてくるとは思ってなかったようだ。店の主人としても、親が来たんだから500円で売らないと言うわけにはいかんだろう。親父と一言二言何かを話したあと、売ってくれたが、あの時の店の主人は、本当に売る気があったのか、或は売りたく無かったのか、今だによくわからない。

そのカメラというのは、昭和30年代初期に、安くて良く写ると評判になった『さくらKonilette』皮ケース付だ。

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あと10559日

昨日女房と娘がショッピングモールに行きたいと言うんで、雨の中連れて行った。行ってもわしは用がないので、椅子に座って終わるのを待つだけなんだが、スマホがあるんで暇つぶしにはなる。しかし、最近スマホの見過ぎかどうか知らんが、首を後ろに傾けると左腕がしびれるようになった。これで一番困るのが、大陽拝の時に、太陽を見上げて八咫鏡の印を結ぶということができないということだ。10秒位でしびれてくる。仕方が無いので、細切れにしてやっているが、なんか落ち着かない。

 人には話してないが、実はこのしびれの原因は、去年買ったあの「ぶら下がり健康器」のやり過ぎではないかという気もしている。2月に片手懸垂をやって肋骨が痛くなっので、3週間ほど休んで、再開したんだが、その遅れを取り戻そうと腕立てや懸垂の時間、回数を大幅に増やした。しびれが出だしたのがその直後だから、やっぱりこれが原因かもしれんとは思うが、人に話すとそれ見たことか、年寄りの冷や水だ、言わんこっちゃないだろうと、笑われるのは眼に見えているので、誰にも話さないようにしている。

 買った孫達の服とか、米とかの食料品等を、車に積んでいる時、女房が、わしの時計が文字盤を下にして、コンクリートの床の上に落ちているのに気が付いた。落ちた事に全く気が付かなかったが、これは腕のしびれとは関係ないはずだ。あわてて拾い上げてみるとガラスがキズだらけで、一部が割れて穴があいていた。ただ落としただけでなく、落としたあとで、ご丁寧に上から踏んで捻ったような、みごとな円形のキズができていた。3人の立ち位置からみて、恐らくわしが自分で踏んだんだろう。以前、鉄の手すりに思い切りぶつけた時も、割れなかったガラスだが、案外脆かった。

 セイコーファイブの逆輸入品で、高い物ではない。しかし、長男が最初の給料で、わしらに小遣いをくれたときに、記念に買ったものなので、できれば修理したいと考えている。

あと10560日

 二男が以前から転職を考えて、いろいろ面接に行っていたようだが、やっと内定が貰えたと連絡して来た。まあ一安心というところだ。わしらの時代感覚からすると、一度入ったら定年まで勤めるというのが常識だった。転職を繰り返すと社会の信用をなくすと言われた事もあった。わしが会社を変った時には、転職先の会社が、前の会社に、やめた理由とか、勤務状態の問い合わせをしていた。何か良からぬ事をしでかしたんじゃないかと、疑ったようだが、こんなことが許されるなら、円満退社以外は再就職もできなくなってしまう。まあ、それほど転職は普通ではなかったということかもしれない。しかし、勝手に個人情報を問い合わせたり、漏らしたりして、それを合否判断に利用する事は、今では許されないんじゃないかな。

 二男の会社は一応一部上場企業で、そこそこの規模なんだが、話を聞いているとサービス残業が多い。もちろんサービス残業も程度によるとは思うが、程度を越えると働く意欲も失われる。ただ働きさせて全体の人件費を減らすというのは、倫理的にも法律的にもまともな企業のすることじゃないだろう。みんな生活のために働いているんだから、他のどこを削っても、労働対価はきちんと支払う努力をするのが、すじだと思うが。

 昔わしが船会社を変ったのは、収入の違いに気が付いたからだった。学生の頃はそれほど気にならなかったが、実社会では、船という同じ職場で、同じ労働をしているのに、入った会社によって収入に何倍もの差が出る。わしの最初に入った会社では超勤も厳しく押さえられていたので、外航船の船員では最安の部類だっただろう。そして思い切って会社を変ったら、航路はつまらなかったが、収入は一気に3倍になり、給与振振込先の銀行員が驚くほどの高給取りになった。これはうれしかった。

 しかし、結局わしの場合、その高給をもらっても、こんな生活をしていると、一生を棒に振ると感じて船をやめて、元の貧乏生活に返ったんだから、人生金だけではないというのが結論になるんだろう。だが、人間の煩悩は尽きない物で、そうは言っても、ちょっと金も欲しいかな、などと考えることもよくある。だいたいわしらのような凡人は、こんなことを繰り返して一生終わるんだろうな。