無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10406日

 明日は1人で1歳の孫の守をすることになった。あまり人見知りはしない子なので、大丈夫だとは思うが、こんな小さな子を1人で見るのは何十年ぶりかで、ちょっと不安もある。長女夫婦は、向こうの両親の隣に家を建てて住んでいるので、普段は義母に見てもらっているんだが、明日は仕事が入っていて休めないということらしい。女房もどうしても休めないというし、長女の亭主も休めない、結局消去法で、1日家にいるわしに白羽の矢が立ったということだ。

 長女も、上の子を連れ幼稚園に出かけている間の2時間くらいのことなので、それぐらいのことはできるだろうと簡単に言うが、意思の疎通どころか、オムツもとれてない子供と二人だけで過ごしたという経験は、わしにとっては遠い過去の話で、既に忘却の彼方に消え去っている。おしっこは紙おむつでいいとしても、うんちはどうするか、一応手順は聞いているが、手早くできるかどうか、心配の種は尽きない。じつはわしは子供の世話はほとんど女房に任せっきりで、あまりやったことがなかった。その付けがこういう形で回ってきたということかな。

 機関車トーマスプラレールが好きだというので、うちにあるFireTVを持っていってそれらを見せていれば、1時間くらいは持つだろう。おやつは卵ボーロが好きなので、それを2袋とアンパンマンのおやさいせんべいを1袋用意しといた。この2つで機嫌をとっていれば2時間ぐらいはすぐだと女房は簡単に言うんだが、ほんとにそうかな。たくさん与え過ぎると長女に怒られるし、加減が難しい。それに明日は雨らしいから、外に連れ出すことができないかもしれない。

 また、雨が降ったら長女と上の子を幼稚園まで車で送っていくように頼まれているんだが、幼稚園で、2人が降りて車の中に残された時に、大泣きするのではないかと、これも不安の種だ。家で泣かれるのは何とかなるが、車の中で泣かれたらどうしようもない。少々の雨なら自転車で行くと言っているから、長女もそこらあたりはちょっと気にはなっているんだろう。

 まあ、考えてもきりが無いし、いくらなんでも赤ちゃんの面倒くらい見れると思うんだが。案ずるより産むが易しということで、これ以上考えないことにしよう。どうなることやら。

あと10407日

 この世の中は、自分とはまったく関係なしに、どんどんながれていく。自分がここに居ようが居まいが、知っていようが知るまいが、賛成だろうが反対だろうが、そこには何の容赦もない。むしろこれは当然のこととして、自分の内面で引っかかることは何も無い。ところが例えば職場や学校ような限られた場所においてはそう簡単ではない。たとえそのことが自分とは全く関係なかったとしても、そこで知らない人たちが集まって楽しそうに会話をしているのを見ただけで、疎外感を感じて、世の中がつまらないもののように感じてしまうのはどうしてなんだろう。

 もし、その中に好きな女性がいたとして、その女性が自分に気がついて、手を振ってくれたとしたら、今まで感じていた疎外感は雲散霧消して、そこには光輝く世界が出現しているに違いない。このように自分が第三者として存在し、動かされることがない現実と、当事者として巻き込まれてしまう現実、世の中にはこの2つの現実が存在している。そしてこの2つ現実の間を繋いでいるのは、自分だということではないのだろうか。

 実際には現象としての現実は1つで、しかもそれはすべて連続したものであり、個人の感情で左右されるはずがない。しかし、自分の意識を介してそれを眺めた時、まるで自分がこの現実の中の唯一絶対の存在のように、自由に自分の意識を反映させ、二つの現実に切り分けてしまうのではないのだろうか。その一方には何の力もない自分がいて、一方にはすべて中心に自分がいる。

 最近、わしがいつも感じているもどかしさというのが、まさにそれではないかということに気が付いた。何かをしていてもいつも心が揺らぎ、時々これでいいのかという不安も頭をもたげてくる。そのくせ、何か良いことがあれば、そんなこともすぐに忘れてしまう。結局いつになっても自分が作り出して、主人公になっている現実からのがれることはできない。或いは、ひょっとすると自分が第三者として存在して、動かされることがない現実に巻き込まれることによって、何の力もない自分に気が付くのを、心のどこかで恐れて、逃げているのかもしれない。

 

あと10408日

 去年7月にハローワークで失業保険の申請をしたとき、わしの場合は自己都合退職になるので、支給開始までに3か月間の待機期間があり、しかもその待期期間の間は、年金支給が止まると告げられた。ただ、待機期間中の年金は一旦止まるが、失業手当支給期間が終われば返してもらえると教えてくれた。3月31日に支給期間が終わったので、それが返ってくるのを楽しみにして待っているが、半年たっても一向にその気配がない。女房にはせっつかれるし、わしも早くけりをつけたいので、電話で聞いてみることにした。

 年金停止は電光石火の早業だったが、取りすぎたものを返すのはゆっくりというのもおかしな事で、同じスピードでやってほしいものだ。昼休みが終わった頃を見計らって電話をかけてみた。わしは電話恐怖症とでもいったらいいのか、かかってきた電話に出るのはそうでもないが、昔から電話かけるのは、かなりなストレスになっていた。姿なく声だけで話をするのが不安だったんだろう。ところが毎日誰とも会わずに、1人で家にいるということも関係しているのかもしれんが、近頃は以前ほどストレスを感じなくなってきた。

 電話にでてきたのは、えらく早口の女性で、わしが、あ~とか、う~とか、言いながら1分かかる内容の話を、ほんの10秒ほどで済ましてしまいそうだ。そうなると同じ1分でも、わしの6倍の情報量を持っているということになるのかな。それなら効率的だが、意味のない、単なる6倍の量の言葉の羅列を、立て板に水の如くに並べられたら、それは堪らんな。電話口の女性は、まだハローワークからの連絡が来てないので、雇用保険受給資格者証のコピーを郵送してもらえれば、処理が早くなるということをわかりやすく教えてくれた。

 とにかく年金に関することはわかりにくい。最近、配偶者の加算分が加算されてなかったというようなことがニュースになっていたが、言われるままで、まともに計算している人はほとんどいないだろうから、こんなことがなければ一生知らないままだろう。わしらも、あなたの年金はこれだけですと文書で連絡がくると、そのまま信じて疑うことはない。今日は午前中、去年送られてきた資料を確認していて、今年になって年金支給額が減っているということに初めて気が付いた。減ることはあっても増えることはないだろうから、厳しいことは厳しいが、知人と話していても、こういう話になると必ず最後は、「贅沢を言ってはいけない、若者はもっと少なくなる可能性もあるんだから、あるだけで有り難いと思わないとな。」という決まり文句で締めくくることが常となっている。

あと10409日

 今朝10時頃、サイレンを鳴らした消防車が3台、5軒ほど離れた学生マンションにやってきた。火事かなと思って外へ出てみたがそれらしき煙も見えない。そのうちに救急車とパトカーがやって来て、学生風な若者がストレッチャーに乗せられていたから、火事ではあったんだろうが、よくわからんままに終わってしまった。最近は学生マンションがあちこち建って、どんな人たちが住んでいるのかもよくわからんし、あまり気持ちのいいものでもない。

 15年ほど前に100mほど離れた学生マンションで殺人事件があったし、7~8年ほど前には、すぐ近くの学生マンションで腐乱死体が見つかったこともあった。下の階の人が異臭に気が付いたらしいから、状態はかなりひどかったんだろう。学生は一応身元はしっかりしているから、治安面ではそれほど悪くはないんだが、騒がれるとうるさい。うちの隣は今は駐車場になっているが、以前は古い家があって学生のたまり場のようになっていた。そこで夜中まで麻雀をするので両親が寝られないことがあった。

 その当時はわしらは別の家に住んでいたので知らなかったんだが、ある晩、わしに来てくれというので行ったら、麻雀の音がかなりひどい。すぐに注意しに行ったところ、これが話のわかる学生ばかりで、拍子抜けしたことがあった。麻雀もするなとは言わんが、夜10時まで、毎晩はしないよう頼んだら、だいたい守ってくれたみたいだ。暫くして引っ越していったようだが、まあ、普通の人間なら話せばわかってもらえるものだ。しかし、年寄りが頼んでも改めなかったのに、わしがお願いに行くとすぐにやめたのはどうしてなんだろうな。

 遊ぶことに関しては昔の学生のほうがすごかったような気がしている。まだ赤線があった当時はそちらの方面にもよく出かけていたらしい。うちの2階にはわしが小学校の頃まで学生がいたので、4回生が卒業するときは卒業祝いをやっていた。残っている集合写真には、親父やおふくろ、親父や学生の膝に抱かれたわしや兄貴、うちの学生、1升瓶を抱えた近所の食堂のおじさん、酒屋のおじさん、近所の下宿屋の学生、女性も何人か一緒に写っているから、かなり派手にやっていたようだ。

 わしらが今の学生をみても、幼く感じることが多いが、その写真に写っている学生達は妙に大人びてみえるのはどうしてなんだろう。一緒に写っているのも同年代の女性で、学生のガールフレンドか、ひょっとすると数少ない女子学生かもしれない。みんなきれいで品がある。絹目印画紙にプリントされた白黒写真がそういった雰囲気を醸し出しているのだろうか。

あと10410日

 思えばたった半世紀前のことだが、若い頃を過ごした島の風景も、島の人たちの日常も学校も寮生活も何もかもすっかり変わってしまって、今では隔世の感がある。わしらが入学して住み始めた、木造モルタル造りの古い学生寮は10人部屋で、寝るスペースとして畳1畳分が割り当てられていた。飯場のタコ部屋みたいなものだな。元々この寮は1部屋4人だったんだが、入学定員が40人から44人になった関係で、4人が住めなくなった。そこで学校が考えたのが、並びの1部屋を学習室として10の机を並べ、隣を寝室として10人分の2段ベッドを置いて、これを2セット作るという方法だった。こうすれば確かに4部屋分のスペースに計算上は20人住むことができる。

 24人が6つの4人部屋に入り、20人が10人部屋に入ることになった。わしはこの20人の中に入ったということだ。さすがにわしも入寮したときは驚いたが、これが住んでみるとなかなかいいもんだった。まず孤立することがない。勉強するのも、遊ぶのも10人でするので楽しい。秋になると日曜日にはみんなでよくハイキングに行った。時々農家の人からみかんを貰って食べたり、山には野イチゴとかアケビとかいろいろ旨いものがあった。

 冬になると、部屋には約70cm角の鉄製の火鉢が配られて、それに入れる灰を作るために、晴れた日の夕方、校庭にうずたかく積まれてた藁を燃やす作業が始まる。キャンプファイヤーみたいなものだ。1年半の乗船実習から帰って来ていた専攻科の学生も加わり、歌をうたったものだ。歌と言ってもそれは猥歌というやつだが、わしもそこで教えてもらった猥歌は今でも歌うことができる。清廉しか認めない、今の建前社会ではちょっと許されないだろうな。窮屈な世の中になったもんだ。燃え尽きた頃に倉庫から重い火鉢を持って来てその中に灰を入れて、それを部屋に持って帰る。その後、炭の配給を受けてその冬初めて火鉢に火が入るが、炭は1週間に1俵と決まっているから、うまく加減して燃やさないと寒い週末を過ごすことになった。

 消火訓練もあった。島内には本職の消防は無かったので、地区の消防団が活躍していた。学内にも大八車に積まれた2台の消防ポンプがあり、これも重要な設備だった。この2台の大八車を全速力で押して校庭を横切り、貯水池まで行って放水するんだが、2台で速さを競っていて、結構熱くなっていた。

 わしらが一番楽しみにしていたのはやっぱり家族や友人からの手紙で、用務員さんが毎朝自転車で郵便局まで取りに行って、1時間目が終わる前に用務員室の前に並べてくれていた。したがってこの休み時間は、240人の生徒全員が自分の手紙が届いてないか確認に来るので、いつもごった返していた。

 こんな生活も入学して2年で終わってしまった。3年目から学校も寮も鉄筋コンクリート4階建てとなり、集中暖房となって火鉢の出番もなくなった。近代的な、どこにでもある普通の学校になってしまったということだろう。この当時はすべてが新しくなり便利になってよかったと喜んでいたが、その3年目以降のことは今ではほとんど記憶に残ってない。いつも浮かんでくるのは木造の寮や校舎で過ごした2年間のことだけだ。この頃に高度成長の波が、瀬戸内の島にも及んできたのだと思うが、案外わしの純粋な子供の時代もこの2年間で終わったのかもしれんな。

あと10411日

 お彼岸なので今朝は10時ごろに、雨の中、墓掃除に行ってきた。墓石も雨で洗われて汚れも落ちていたので、今回はすぐに終わってしまった。車で30分くらいで行けるるんだから、もっと頻繁にお参りに行ったほうがいいのかなと思う時もあるが、そんなこと普段は忘れている。毎日毎日先祖の事を考えて生活している人はいないだろう。お彼岸になったら思い出すというくらいで、いいのではないのかな。

 墓地の周辺の田んぼは稲刈り前で、黄金色の稲穂が風に揺れていた。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」稲穂を見るといつもこのことわざを思い出す。学校で稲穂のようになりなさいと言われたことがあったような、なかったような、はっきりとは覚えてないが、このことわざは小さい頃から知っていたから、おそらく学校で教えてもらったんだろう。

 歴史上ではこういう立派な人もたくさんいたようだが、現実の社会では、わしはあまり見かけたことがない。多くの人たちが経験してきているだろうが、まず今の社会で出世する奴には碌なやつがいないということだ。いないことはないにしても、上昇志向の強い性格の者たちが頭を垂れるのを見たことがない。

 本当にできた人が出世して、世の中のために働いてくれたら、それは素晴らしい社会ができるだろうが、得てしてそういう人は埋もれてしまっていることが多い。そういう人を見つけ出し、引き上げるためには、それだけの見識のある人が上にいなければできないんだが、東芝やシャープの役員連中、貧困調査の文科省前次官などをみていると、上の人材もすでに枯渇しているようだ。このような、たいした能力も気概もないのに、経済成長の波に乗せてもらっているうちに、優秀だと勘違いした所謂団塊世代が、若者の夢も未来も食いつぶして来たということだろう。

 まあ、そんなことはさておいて、今日も以前来たことのある、あの「さくらの湯」に寄って、ひと風呂浴びてきた。湯上りにロビーでマッサージ機を使った後の、冷えたノンアルビール、キリンのゼロイチは最高だったな。わしなんかは初めから能力も気概もないことはわかっていたし、争いも競争も嫌だった。すると、もって生まれた運もあるんだろう、それなりの職場が向こうからやってきた。可もなく不可もなく、家族5人が食べていけて、多少の貯金もできた。時には争ったり、逆らったりすることをやめて、流れに身を任せながら、素の自分を見つめなおすということも大切なことだと思う。

あと10412日

 さすがに、同年代の友達も多くが仕事をやめているようだ。船乗りを続けた連中も、船会社で出世した者もいれば、ずっと船に乗り続けた者もいる。わしらが学生の頃は、ずっと乗り続けて、船長や機関長になるのがあたり前のように思っていたが、この40年間の世界の急激な変化は、それも許されなかったようだ。

 わしなんかは早くやめて陸の仕事についたから高みの見物だったが、最近友人たちに会ってその話を聞くと、外航船の船員減らしはかなり悲惨なものだったらしい。プラザ合意のおかげで、1年ちょっとで1ドルが240円から120円になったんだから、外国相手に仕事している海運業界はたまったものではない。

 同期生のM君は、N汽船という中堅どころの会社に就職して10年過ぎた頃、肩たたきにあって1000万円の退職金をもらって退職したらしい。わしらはそれを聞いて、「ほう、10年で1000万はすごいな。」とからかっていたら、ていの良い首切りだから金は弾んだんだろうと笑っていた。その後30年、地元の土木会社に勤めたM君はめでたく定年をむかえたんだが、もらった退職金がなんと、たった100万円だったそうな。

 先輩のHさんは大手船会社の陸勤をしていた時、人事で船員の首切りをやらされて、まさに、M君とは逆の立場になってしまった。被害者であるM君は、辞めても家族以外には誰にも迷惑はかけないが、Hさんの立場は人に恨まれる。昨日までの仲間の首を切るんだから余計に恨まれるだろう。そうこうしているうちに、突然風呂で大声で怒鳴ったり、歌を歌ったり、会社へ行かなくなったりして、Hさんの言動がおかしくなってきた。ここは、異変を感じた奥さんが早めに退職させて、事なきを得た。

 同期のO君は準大手の会社に入って機関長までなったが、陸上勤務で子会社に役員として送られて、経理とか全く違う仕事をやらされた。もともと頭のいい男だし、簿記2級をとったり努力はしていたとはいえ、単身赴任だったので、家に帰っても誰もいない生活を続けるうちに、だんだんとうつ状態になって会社へ行くのがつらくなってきた。しかしこのO君は、ある日突然それを克服できたらしい。

 雨上がりのその朝、電車を降りて会社へ向かうO君は、いつものように、所々水たまりのある、舗装された道をうつむき加減で歩いていると、ふと目の前の水たまりに、先にある東京タワーが、青空バックにして逆さまに映っているのに気が付いた。「こんなきれいな景色があるのか」とO君は顔を上げて東京タワーを見上げた。いつも見ている景色だがこの朝は違った。青空をバックにしてすっくと立っている東京タワーがとてつもなく大きく感じたその瞬間、なにかが吹っ切れた。気が付いたら胸を張って歩いていた。

 人生悲喜こもごもとは言え、人が100人いれば100の人生があり、その人生は生きて経験することに意味がある。一人に一つしか与えられない、たった数十年の人生、この世に生を受けた者にしか与えられないこの人生に、間違ったものなど1つもあろうはずがない。すべて正しい、すべてOKだと受け入れることさえできれば、生まれてきた目的はほぼ達成できたとわしは思う。