無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10355日

 長男が購入した古家の、前の持ち主だったOさんが残していった物を処分するために、朝から出かけていった。掛け軸とか書道の作品で、引っ越しするときに処分するというのを、わしも作品を見てみたいので置いていくようにお願いしていたものだ。その中に昭和2年のOさんの書道作品があったが、まだ子供のはずだが、見事なものだった。芸術の世界では、生まれもった才能というのはやはり必要なんだろうな。

 置いて行ってはもらったが、しまっておくところもないし、親のものまでほとんど処分してしまったのに、今更他人のものをため込むのも道理にあわない。表装してあるものだけを残して、他は全部紙ごみで処分することにした。夕方までかかって、紙代、墨代等かなりお金がかかっているんだろうなと思いながら、折りたたんで紐で縛っていった。夕方になると冷えてきたのか、また咽喉が痛くなってきた。困ったもんだ。

 ところで、今朝、その古家に行ってみると、整地してある庭に、左官道具を積んだ軽トラックが一台とめてある。誰の車かわからないが、もう一台とめるスペースはあるので、そこに自分の車をとめて、荷物の運び出しをやっていると、50前後の、その軽トラの持ち主がやって来た。わしがいるのに気がついても何も言わないので、「どちらの車ですか?」と尋ねると、さも意外そうな顔をして「えっ、停めてはいけないんですか?」と答えた。さすがにこれにはちょっと驚いた。「そりゃあなた、ここは人の土地なんだから、勝手に停めてはいかんでしょう。」と言うと、「大工の棟梁にここに停めていいと言われているんですが。」と、しきりに首を捻りながら、聞いてくると言って向こうへ歩いて行った。

 1分ほどして帰って来ると、棟梁に指示されたんだろう、黙って車を動かそうとしている。わしは別に移動しろというつもりはないので、「仕事中なら、今日一日車をとめてもかまわんよ。」と言ったんだが、そのまま出て行ってしまった。ちぐはぐな感じで、何か気に障るようなことを言ったのかなと、しばらく悩んでしまった。わしも女房からよくコミュ障だと言われることがあるし、自分でもそう思っている。今日の職人さんもコミュニケーションは得意ではないようだった。そういう二人の突然の会話だったから、かみ合わなかったのかもしれない。

 おそらくコミュニケーション能力の長けた者同士の会話なら、以下のようになったのではないだろうか。

「これあなたの車ですか?」「はい、そうです。地主の方ですか?棟梁の指示でとめさせていただいています。お邪魔ならすぐに移動します。」「いえ、移動していただかなくても結構ですよ。もう一度棟梁にご確認願えますか?」.....確認に行く.....「申し訳ありません。棟梁に移動するようにいわれましたので、すぐ移動します。」「いえいえ移動することはありません、今日一日で終わるようでしたら、夕方までとめていただいて結構ですよ。」「そうですか、それは助かります。それでは遠慮なく今日一日置かせていただきます。」

 こういう風にスムーズに話せると、わしも悩まなくてもいいんだが、無いものねだりをしてもしようがない。自分にはストレスがたまっても、人を傷つけないように気を付けてさえいれば、大きな嵐に巻き込まれることはないだろう。

あと10356日

 咳もほとんどおさまり、夜もゆっくり寝られるようになったので、体がだいぶ楽になってきた。少しずつ散歩もできるし、咳き込まずに祝詞をあげることができるようになったのが、なにより有り難い。咳で腹筋を使い過ぎたのか、昔、腹膜炎をおこしかけた時の、腹の手術痕がきりきりと痛み出して辛かったが、何とか終息に向かっているようだ。まさかこれほどのダメージを受けるとは思ってもいなかったが、これが歳をとるということなのかもしれんな。

 古傷が痛んだせいで、忘れていた30年以上も前のことを思い出してしまった。わしが救急車で防衛医大病院に担ぎ込まれた時、ショック状態で血圧が低下し、手術ができず、血圧を上げるために、ひとまず一般病室に入院した。血圧が40くらいだったから、ただ、ぼーっとして寝ているだけしかできずにいたが、外科病棟というのはおかしなところで、手術前の人、手術直後の人、手術後時間が経過した人、この3種類の人が混在しているということに気が付いた。つまり、わしのように、わけのわからない原因不明の病人の居場所ではないということだ。

 基本的に手術後時間が経過した人は既に病人ではない。みんな元気で、病室内で暇を持て余している。手術前の人も、ほとんどが切れば治る人たちなので、わりあい元気だった中で、唯一病人らしいのは手術直後の人だけだった。わしが病室に運ばれた時、8人ほどいたと思うが、みんな元気そうで楽しく話をしていた。ひとりの若いきれいな女性、A子さんがその中心で、外出時に買ってきたみたらし団子をみんなに配っていた。そのうちにわしの存在に気付いたそのA子さんは、2本を皿に入れて持って来てくれた。

 そんなに重病人には見えなかったんだろう。手術後の人だと思ったのかもしれない。こちらは腹も痛いし、熱でしんどくてそれどころではない上に、生死の間を彷徨っている状態なのに、いろいろ話しかけてくる。すぐに看護師が来てとめてくれたが、元気でいいなあと思ったのだけは覚えている。結局そのみたらし団子は、2日後、危篤と伝えられて、飯も咽喉を通らない状態で飛んできた、おふくろの胃袋に入った。

 それから2日ほどして、廊下を歩いているA子さんを見かけたが、点滴をゴロゴロ押しながら、尾羽打ち枯らしたような憔悴した姿だった。これを見てわしは、まさに、これが手術直後の人かと、あの2日前のはつらつとしたA子さんとの落差に驚いたが、既に回復に向かっている姿が羨ましくもあった。

 手術後の入院中にわしは珍しい経験をした。同室だった腸閉塞のおじさんと親しくなり、いろいろと話をするようになった。そしてある日、その人の家族が見舞いにやってきた。娘と息子がいるということは聞いていたので、どんな人なのか、わしも楽しみにしていた。ある日の午後、やってきた娘さんは、夏だったので半袖のワンピースを着ていたように覚えている。わしはその姿を見て、あっと声をあげそうになった。

 絶世の美女という言葉さえ霞んでしまうほどの美しさで、あれから30年以上たつが、現実社会でも、映画の中にでも、未だにあの人より美しい女性に、会ったことがない。言葉で表現するのは難しいが、父親のお見舞いに持ってきた、梅が丸ごと入った和菓子を一つ持って来てくれて、「梅の種が入っているので、気を付けて召し上がってください。」と手渡ししてくれた時は、わしは天にも舞い上ったような気持ちで、緊張してろくにお礼も言えなかったし、まともに顔を見ることもできなかった。こういう経験は以後二度となかった。

 いや、つまらんことを思い出してしまった。

あと10357日

 9月位から、ADSLが遅くて途中で止まるので、動画が満足に見えない状態が続いていた。そこで、今日の昼からいろいろやってみたが、モデムから下流には問題が見つからない。これ以上こちらではどうしようもないので、ニフティに電話をかけて聞いてみることにした。結果分かったことは以下の3点だった。

1)回線のノイズが激しい時があり、それを避けるためにNTTのほうで速度を落としているようだ。2)ノイズの原因として考えられるのは、大きな建築工事とか鉄道工事とかだろう。3)速度調整して早くすることはできるが、あまり早くすると回線が切れることがあるので、バランスの問題だ。

.....で、速度調整をやりますかと聞かれたが、「100Kや200Kのスピードでは、ウォーキングデッドも見ることができないんだから、やってもらうしか方法は無いでしょう。お願いします。」と答えておいた。今晩から速度調整をはじめて、明日の夕方くらいまでかかるらしい。2M位出れば十分なんだが、果たしてどうなるか、金曜日にその結果をニフティに連絡することになった。

 最近全国ニュースで流されているあの暴走車だが、どうやらうちの近くの国道で2回目の事故を起こしていたようだ。たまたまニュースで見た時、またどこかの馬鹿が大変なことをしでかしたのかと思ったら、なんと地元の話でびっくりした。映像で流されている場所も、当たり前のことだが、よく知っているところばかりで、こういう経験は初めての事だった。死者がでなかったからよかったとはいえ、けが人はいるし、どうやら危険運転致傷罪を適用するつもりのようだから、何年間かは刑務所にはいることになるんだろう。もったいないことだ。

 これが終わったと思ったら、今度は相撲取りが相撲取りをビール瓶で殴ったというのがあった。これを聞いてわしが一番最初に驚いたのは相撲取りの頑丈さだった。ビール瓶で頭を思い切りたたかれたら、ふつう死ぬだろう。翌日の巡業にも出たというから、常人では考えられない頑健な体だ。

 しかしこれが本当だとしたら、一般社会なら、今頃殴った本人は傷害罪で逮捕されているだろう。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の例えどおりの行動をしてくれるあたりが、相撲協会らしいといえばいえるのかもしれない。あの時の反省はどこに行ったことやら。できもしないのに暴力追放など約束せずとも、いっそのこと開き直って、チョンマゲを結った恐怖の大男集団あらわる!!などと大騒ぎして、平和ボケした今の日本人にカツをいれるのも面白いのではないのかな。

あと10358日

 長いこと忘れていたが、病気で寝ていると、寝るのは飽きたが、かといって何かをする気にはならないという、中途半端な時間帯があることに、改めて気が付いた。昔はこの時間帯をどのように過ごしていたのかは思い出せないが、おそらく今回と同じようにテレビを見ていたんだろう。わしは普段テレビはほとんと見ないし、まったく興味は無かったにも関わらず、今回は非常に御世話になった。

 こんなに長時間テレビを見たというのは何十年ぶりかという感じだが、黙って見ているだけで、自分で何かを積極的に求めなくても、様々な情報を一方的に流し込んでくれるので、退屈する暇がない。しかも内容なんかすぐ忘れてしまう。「暴れん坊将軍」「相棒」2時間ドラマなんかを続けてみていたらあっという間に一日が終わってしまった。理屈抜きで、1人でこれだけ楽しく遊ばせてくれる道具は他には思いつかない。それは単なる刹那的な遊びにすぎないことはわかっていても、何もしないでいることが耐えられない人達にとっては、或いは時間の流れを早くしたいと望んでいる人たちとっては、必要欠くべからざるものであると言えるのかもしれない。

 学生の頃、近所の本屋で本の配達のアルバイトをしていた時があった。これは楽勝と思って始めたバイトではあったが、東久留米市も外れのほうになると、畑の中が虫食いに開発されて家が建っていたので、範囲も広くて探すのが結構大変だった。東西南北自転車でかなりの距離を走り回ったはずだ。やっと見つけても留守の家も多く途方にくれたことも何回もあった。そんな中に、毎週一回、「週刊テレビ」とかなんとかいった、テレビ番組の雑誌を届ける家があった。

 そこは都営住宅の庭先に、増築されたような形で建てられたプレハブの家で、おばあさんが一人で住んでいた。家の中は雑然としていて、いつもテレビの音が大音量で流れていた。わしは、新聞をみたらわかるテレビ番組表を、なぜこのおばあさんは金を出してまで買うのか、また、なぜそこまでしてテレビを見たいのかが理解できなかった。それでも、いつ行ってもテレビの前に座っているので、不在ということがないし、常に釣銭のいらないように払ってくれるので良いお客さんだった。

 この間、ぼーっとテレビを見ていて、ふと、あの時のおばあさんは、こういう状態だったのかと、気が付いたことがあった。あのおばあさんは、テレビが一番の楽しみだったんだろうし、どんど流されてくる情報を何の疑問もなく、ただ受け流していたんだろう。一日テレビの前に座っているだけで、退屈することなく遊ばせてもらえて、更に積極的に「週刊テレビ」という情報誌を読むことによって、もっと楽しもうとしていたのかもしれない。

 当時から40年以上たち、その時のおばあさんの年齢に近づいたわけだが、決してそのおばあさんが不幸だったとは思わない。できる範囲で十分に人生を楽しんでいたんだろう。何も小難しいこと考えなくても、一度の人生なんだから、生きることを楽しむことができなければ、生まれてきた甲斐がない。規制や規律だけではなく、時には刹那的に生きることもまた人生の醍醐味といえるのかもしれない。

 まあ、いろいろと考えてみると、こうあるべきだということに、あまりこだわらない方がいいのかもしれないとも思う。なにごともさじ加減だとは思うが、66年たってもまだ揺れ動いている。

あと10359日

 来年の今頃は10000日を切って、9000日代にはいっているはずだが、夜中に咳き込んでいると、例えガンにならなくても、そのカウンターを全部使い切ることはないのかなと、感じたことがあった。ある晩、咳き込んで痰を吐きながら、正岡子規もこんなに苦しんだのかと、ふと子規の俳句が頭に浮かんできた時のことだ。

糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな

痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず

また、子規は病気が病気だから、その苦しさはわしなんかとは比べ物にならないはずだ。案外、死んで悲しいと言うより、やっと楽になったという表現の方が正しいのではないかと思ったりしながら、7~8年前に訪れた、根岸の子規庵の風景が頭の中を巡っていた時のことだ。

 カウンターを使い切るかどうか関しては、目標にしているとはいえ、実際わし自身半信半疑なので、別にいいんだが、今回は気持ちの衰え以上に体力的な衰えを感じたことがショックだった。考えてみれば、この、気力は十分だが体力が心配という今の状態は、わしの子供の頃と同じだ。

 小学校中学校時代は、青い顔をして、よく学校も休んでいたような虚弱児だった。山に行っても、なかなか皆についていけないとか、そもそもみんなに労わられること自体が、わしにとっての大きなコンプレックスだった。そして、力も喧嘩も弱いくせに人に突っかかっていく、こんな自分自身も嫌だった。これはその後、小児喘息から解放されるまで続いた。14~5歳で小児喘息から解放されるとすぐに猛ダッシュが始まった。ちょうど体も大きくなる頃だったし、運動にも励んで体力面では、すぐに追いつき追い越した。体力も気力も十分で、もう喘息にとりつかれることはないだろうと安心していた。

  そして時代が動いて、人生双六の第4コーナーを回った今、引いた札には「振り出しへ戻る」と書いてあった。さらに喘息というおまけまで付きだ。喘息が極端に体力を奪うということは既に十分わかっていても、さすがに、ポカリのキャップを開けることができなくなるとは、考えたことも無かった。勿論今では回復しているとはいえ、体力面での不安は大きく影を落としている。

 子供の頃は、いろんな夢や未来がそこにあったから、それが支えになって病気にも耐えることができたが、今、あの時の状態になって耐えることかできるかと聞かれたら、さあ何と答えようか。少なくとも、薬の無い状態で耐えるしかなかった、あの時代を再現する気力は無いということは間違いない。既に生きるという気力の面では60年前の自分自身に負けている。このように生きる気力体力ともに減少していく中で、いつまでカウンターに付き合っていけるのか、楽しみだ。

あと10360日

 あと10365日、あと10364日、あと10363日、あと10362日、あと10361日、この空白の時間ができてしまった。6日夜から高熱、咳、痰に苦しめられ、7日~9日までは死んだようになっていた。7日の昼頃咽喉が乾いたので、女房が仕事に行くときに枕元に置いて行ったポカリを飲もうと、辛うじて寝返りして手に取って、キャップを回そうとしたらこれができない。全身の力が抜けたようで、最初の封を切ることができない。手元に飲み物があるのに飲めないというのは、本当に情けなかったし、キャップを少し緩めておいてくれよと、女房を恨めしく思ったものだ。病気はこれほど体力を奪うということを改めて実感した。

 初めに38度の高熱がでたので、インフルエンザかもしれないと思い、アセトアミノフェン入りの薬を薬局で買ってきた飲んでいたが、これが全く効かない。わしには若い頃から、同じアセトアミノフェンが主成分だったノーシンが効かなかったので、結果はわかってはいたが、それでもインフルエンザ脳症なんかになるよりはましだ。静かに家で寝ていればそのうちに自然治癒するんだから、薬なんか飲む必要ないという人もいるが、そんなことが言えるのも若い、体力がある間で、子供や年寄りは薬でなんとかしてくれと思うのが人情だろう。

 10日になって少し体が動くようになったので、病院に行ってみることにした。病院嫌いなどと言っている場合ではない。そこは女房がよくかかっているクリニックで、まずインフルエンザの検査で陰性、検査と言えばこれだけで、お決まりの血液検査もなくて、診察代も安く、今時こんな病院があるのかと驚いた。インフルエンザでないとわかったので、家に帰ってすぐにロキソプロフェンを飲むと、熱も体の痛みもすぐに引いていった。最近の薬はよく効く。

 10日の夜も咳は続いて、11日の夜になってやっとまともに寝れるようになった。今日も時々せき込んではいるが、症状は快方に向かっている。わしも、まさかこんなにひどいことになるとは、思ってもいなかった。寝ている間にいろいろ考えたが、何を考えたかほとんど覚えていない。半分死んだような状態でだったから、どうせまともなことは考えていないんだろう。これからは、一度かかったら長引いて、症状もひどくなるということを肝に銘じて、まずは予防をしっかりするということと、おかしいと思ったらすぐに病院にかかること、この2点を守ることに決めた。

 

.....こんなことでやっと生還できました。ひとつだけおぼえていることに、ブログの形式変更ということがあり、これは近いうちに実行するつもりです。また宜しくお願いします。

あと10366日

 先週から少し風邪気味だったので、法事が終わるまではひどくならないように気を付けていたが、終わって気が抜けたのか、昨晩あたりからのどの痛み、咳、痰、鼻水が急にひどくなった。朝方は調子が良くて、天気もいいので布団を干したりしたが、昼頃になると頭がふらふらしてきた。鼻水が落ちてくるのをティッシュで拭いていると鼻の周りが赤くなってくるので、春先に風邪をひいたとき、まとめて買った鼻セレブというのを使っている。以前職場の女性が、鼻をかみ過ぎて、赤くなっているわしの鼻を見て、気の毒に思ったんだろう、自分が使っている鼻セレブを分けてくれたのが始まりで、それ以来風邪をひいたときには非常に助かっている。

 少し前に薬局で買ってきた風邪薬を飲んだが、ちょっと遅すぎたかもしれない。今晩一晩ゆっくり寝ておさまればいいんだが。のどが痛いので、マスクをして寝ていると、夜中に息ができない夢を見て、無意識のうちにマスクを外していることが時々ある。起きている時はマスクをしていても苦しいとは思わないが、夢の中では死を連想させる。あの世から帰ってきた人が誰もいないからわからないが、寝るということは案外死ぬこととよく似ていて、潜在意識はそのことを知っているからこそ、余計に敏感になり、死の恐怖から逃れようとするのかもしれない。

 わしも今すぐ死ぬとは思ってないし、まだ何の準備もできてない。まあ、完璧な準備なんかは、いつまでたってもできないんだろうとは思うが、たぶん他の人よりはそのことを意識して生きていると思っている。しかし、それが良いとか悪いとかということではない。わしが今の生活が気に入っているように、そんなこと意識する暇もないほど、いろんなことに熱中できる人にとっては、そういう生活のほうが気に入っているんだろう。それはそれで何の問題もない。

 それでも、意識しなければならない日は必ず、例外なくやって来る。寄り道をせず、残された時間の多くをそれに注ぎたいと考え、それを実行できるということは、一番恵まれた人生だといえるのかもしれない。