無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10350日

 毎年今頃になると、長女の嫁ぎ先から貰った渋柿の皮をむいて、軒先に吊るす作業が始まる。今年も100個近くの柿を貰ったので、気温も下がった今朝から皮むき、紐かけ、煮沸消毒後、軒先に吊るして作業は1時間くらいで完了した。わしは子供の頃から柿は好きなんだが、うちで干し柿を作ったという記憶も、買って食べたという記憶もない。甘柿ならよく食べていたから、案外干し柿は、おふくろが嫌いだったのかもしれない。

 この間の法事で、兄が干し柿が好きだということを初めて知った。そこで去年の残りが10個ほどあったので、夕食後それを出すと、あっという間に食べてしまった。兄が好きだったとは寡聞にして知らなかったが、子供の時は食べなかったはずだから、高校卒業後、家を出てから食べだしたんだろう。わしがそう言うと、「そんなことはない、子供の頃から好きだった。」と反論していたが、このおっさんの記憶があてにならないことは既に実証済みだ。そんなに好きなら送ってあげようということで、今年のが出来上がったら送ってあげることにした。兄嫁は嫌いで、食べたことが無いといっていたから、送ってあげなければ、一生、干し柿が兄の口に入ることはないだろう。

 わしらの小さい頃は、冬のおやつといえば、あられ、かき餅、水餅なんかだった。12月28日の御用納めの日に、夕方親父が帰って来ると、物置から臼を取り出して餅つきが始まった。あられ、かき餅なんかも作るので、6臼か7臼くらいついていたはずだ。わしらはまだ小さいので、杵を持つことはできない。親父とおふくろの作業を、たまに飛んでくるもち米の粒を探しながら、兄と二人で見ているだけだった。

 あん餅、雑煮用の餅、水餅はきちんと丸めるが、あられやかき餅はそのまま「むろぶた」と呼んでいた、古びた木製の箱に詰め込んでいた。正月も過ぎて、乾燥して少し硬くなると、それを包丁で薄く切り出すんだが、これはかなり重労働だった。厚さ約3mm、7cm角くらいに切り出したものを、網の袋に入れて軒先に吊るしておくと、何日かで乾燥してカチカチになる。それを火鉢の上で、火箸で押さえながら焼くと、薄く広がってパリパリに焼ける。これは旨かった。

 「水餅を取り落としたり奈落まで」これは30年も前に、わしも参加していた俳句結社「渋柿」で選者をしていた、野口里井というお医者さんの作った俳句だが、この感覚がわかる人はもうほとんどいないだろう。この句を句会で聞いたとき、今でも覚えているくらい衝撃を受けた。水が一杯入った大きな甕の中に餅をいれて、昔は保存食として利用していた。わしは小学校2年までは、昼は家に帰って食べていたので、1月から3月くらいまでは、いつもこの水餅だった。おふくろに取って来るように言われて、吹きっさらしの中で甕のふたを開け、腕まくりをして冷たい水の中に手を突っ込んで取り出す時に、もう少しのところで、手からこぼれ落ちた一個がゆらゆらと暗い底まで落ちていく。ほんと奈落の底だ。寒いのに勘弁してくれよという感じだった。

 餅なんかは今ではいつでもあるし、季節感も無くなったが、わしらの年代は生活の一部として記憶されているので、その季節になると様々な情景と共に思い出される。物は無くても豊かに生きるとは案外こういうことかもしれんな。

 

あと10351日

 東名高速で死亡事故があってから、危険運転で逮捕という事件が多くなった。煽り運転なんてものは別に最近始まったものでもなく、以前からあったんだが、検挙数が増えたということは警察が本腰を入れだしたということかな。それなら結構なことだ。ドライブレコーダーの普及で、警察も取り締まりがしやすくなったというのも、あるのかもしれんな。

 わしもアマゾンで、ユピテルDRY-ST3000Pというやつを、10980円で購入して自分で取り付けた。10月21日に注文して届いたのが11月8日だったから、相当品薄になっているようだ。画像はかなりきれいで、信号の色もナンバーも読めるので、性能的には十分だ。なんと今見たら12980円になっている。これで煽り運転を抑制する効果があれば、安い買い物だ。

 わしも若い頃に一度だけ、割り込んできた前の車を煽った経験がある。ドライバーは50歳くらいの小柄な人だったが、危ないよというくらいの軽い気持ちで、何回かクラクションを鳴らしてやったら、次の信号で止まった時に、その人が車から降りてこちらへやってきた。わしも車から降りて向かい合ったら、相手の身長がわしの肩までしかない。しかも20歳くらい年長だ。見上げながら、なんか用があるのかと噛みついてきた。

 向こうからやってくるという状況は想定外だった。確かに殴り飛ばすか、首でも絞めるか、蹴りでも一発入れたら吹っ飛ぶだろう。しかしそれをやったら傷害罪で、下手をしたら仕事も失うかもしれないと妙に冷静になった。車にいた当時3歳の長男は、喧嘩したらいかんと言うし、この時わしは進退窮まった感じがした。信号が変わったので、その人は言いたいことだけ言うと、なんか捨て台詞を残して去っていった。

 この人はわしを見て、こいつはDQNではないと判断して攻勢に出たとしたら、鋭い判断力の持ち主だし、小さな体でなかなか度胸もある人であった。わしはというと、大東亜戦争時の日本と同じで、終戦に至るグランドデザインを持ってなかった。やみくもに攻撃開始したが、思わぬ反撃になすすべがなかったというところだ。わしはこの時以来、考え方を改めた。

 相手に腹が立った時に、それを相手に知らせるべきかどうか、知らせるとしたら一体相手に何を求めているのか、謝罪か、じゃあ相手が非を認めない時どうする、そこでやめるか、暴力に訴えてでも認めさせるか。これは怒りを終息させるためのグランドデザインと言えるもので、ここまでやる意思がないのなら、初めから自分自身で解決して、人に対して怒りを向けないのがベストだということだろう。

 車を運転していると煽ってくる奴もいるし、強引な割り込み、車線変更等腹が立つことも多い。この地方では「伊予の早曲がり」なんていう、とんでもないものもある。わしは運転しながらブツブツと怒りの言葉を言うので女房は批判的だが、これは言ってみれば安全弁で、窓を開けて大声で言ったら、東名高速の事故のようになるが、車内でブツブツ言う分には誰にも害を与えない。同乗者は多少うるさいかもしれないが、これで怒りがコントロールできるなら、結構なことだ。

 わしも歳をとるにつれて、人に迷惑をかけることも多くなるだろうし、怒りの対象になることがあるかもしれないので、常にS(慎重)H(控えめ)運転を心がけている。

あと10352日

 昨日、娘からぎっくり腰になって動けないというメールがあったので、今朝早くから、家にあったコルセットやロキソプロフェンテープを持って行ってきた。洗濯物を干そうとして、ちょっとうつむいた時にギクッときたらしい。たいして重いものを持ち上げているわけではないが、子供を抱くときにやはり負担がかかるようだ。朝行ったときは、だいぶん回復して、少しなら歩けるようになっていたので、一安心というところだ。

 わしがぎっくり腰を初めて経験したのは、中学一年生の時だった。人より早い方だと思う。ある土曜日、授業終了後校内の清掃をしている時、草刈り用の釜をとろうとしてうつむいたとき、突然ギクッときて、ひざまずいてしまった。わしの中学校は、校庭に400mトラックがひけるほど広かった。その隅っこの方で一人で草刈りをしていたので、誰も気が付かない。みんな時間が来たら引きあげてしまって、結局、声をあげることもできず、脂汗を流しながらうずくまっているわし一人だけが、丈の高い草むらの中に残されてしまった。

 何分ぐらいうずくまっていたのかわからないが、少し痛みの和らいできたので、ゆっくり起き上がり、一歩一歩広い校庭を横切って教室へ向かった。長い時間をかけて教室に着いてみると、みんな弁当も食べ終わって、帰る準備をしていた。昔の中学校は縛りも緩やかで、土曜日だから4時間目が終わると、担任の話があって、掃除、弁当、解散になっていたので、わしがいなくてもそれほど気にならなかったようだ。まあ、単に影が薄かっただけかもしれんが。

 学校から家まで2kmほどあったので、自転車通学をしていた。歩くのがやっとのぎっくり腰で、自転車に乗って家まで帰ることができるかどうか不安だったので、一緒に通学していたH君には先に帰ってもらった。今なら親に連絡してタクシーを呼んでもらって帰るんだろうが、昭和39年当時の子供はそうはいかない。当時は身長が150cmなかったようなちびだったが、自転車だけは一人前に大人用の26インチに乗っていたので、サドルにまたがると足が地面につかないという情けない状態だった。

 このぎっくり腰の状態で、どうやってサドルにまたがったのか覚えていないが、普段なら15分程しかかからないのに、この日はその何倍も時間をかけてゆっくり家に帰った。そして家に着いて、玄関わきの四間に上がったとたん、動けなくなってしまった。家に帰ってほっとしたんだろう。これ以後は腰痛はそれほど珍しいことでもなくなったが、この第一回目の時だけは、何の病気かと思って肝を冷やした。親父もおふくろも「どうぜんき」だろうからほっとけば治るというので、そのまま一晩寝たらほんとうに治ってしまった。

 わしはあれ以来、ぎっくり腰のことを「どうぜんき」というのかとずっと思っていたのだが、他の誰も知らないから、どうも一般的ではなかったようだ。この地方の独特の方言かとも思ったが、親父と同世代の人からも聞いたことがない。どなたか「どうぜんき」を知っていたら教えてほしい。

あと10353日

 わしら兄弟は、近所にあったキリスト教の幼稚園に通っていた。当時幼稚園といってもその数も少なく、行ってない子のほうが多かったみたいだ。兄貴は2年行ったが、わしはなぜか1年しか行ってないので、2歳違いだから2人がダブルことはなかった。一度おふくろに、なぜ、わしだけが1年だったのか聞いたことがあるが、明確な返事は無かったな。いつも一緒に遊んでいた、同い年のK君もH君も2年行っているんだから、なぜ自分だけ行かないのか不思議に思ったはずだが、全く覚えていない。たぶん経済的な問題もあったんだろう。

 わしが晴れて幼稚園児になるまでの1年間は、K君もH君もいないんだから、1人で遊んでいたはずだ。よくおふくろと2人だけで、動物園や公園に遊びに行った記憶があるのは、おそらくこの頃の事ではないかと思っている。昭和32年当時は、うちから市内電車一本で、乗り換えなしに動物園に行くことができた。園内にはいろいろな乗り物があって、わしは飛行機に乗るのが好きだった。高さ5mくらいに所をくるくる回るだけの単調なものだったが、よくそれに乗せてくれた。飛行機が回って来る度に、下から手を振りながら見上げているおふくろに「かあちゃんかあちゃん」と呼びかけていた。この頃は保護者同伴でなくても、幼児だけで乗せてくれたんだな。

 この動物園は、最後の二ホンカワウソが飼育されていたことで有名で、わしもそれを見た記憶がある。当時はまだ絶滅していたわけではないのと、人々がまだまだ食べていくのに一生懸命だったから、二ホンカワウソの保護どころではなかったんだろう。数匹のカワウソが、3m四方くらいの、吹きっさらしの金網の中に作られた、コンクリート製のトンネルや水路を走り回っているだけの、お粗末な環境だったように覚えている。予算的にもあれで精一杯だったのかもしれない。それから7年後に天然記念物に指定されたようだが、時すでに遅しといういうことだろう。

 このような断片的に記憶に残っていることを話しても、楽しかった日々を共有して、一緒に笑いあえる人は誰もいなくなってしまった。親を無くすことは過去を無くすことだと言われるが、ほんとその通りだ。もちろん、亡くなる10年以上前から、あまり覚えてはなかったようだが、それでも、ああそういうこともあったかなあ、お前はよく覚えとるなと、わしの話に調子を合わせてくれたもんだ。

 何の役にも立たない過去のことは忘れて、リセットしようとしても、ことあるごとに浮かび上がってくる。さらにその中では、既に亡くなった人たちも生き生きと話しかけてくることもある。これはある面、楽しみでもある。自分の家族もできて、仕事も忙しくなると親と話すのも面倒くさくなり、一緒に住んでいても話す機会はあまり無かった。これが遠く離れて住んでいたら、なおさらのことだろう。子供の小さい頃のことは親しか知らないだから、もっと昔話をしとけばよかったと、今になって後悔している。

あと10354日

 近頃は公務員人気なんかで、公務員になるのも難しいようだが、わしの小さい頃はそうでもなかった。特に市町村職員なんかはほとんどがコネ採用だったように思う。少なくともわしの周辺ではそうだった。また、今では偉そうに国立大学法人職員採用試験なんてやっているが、大学職員なんかも昔はみんなコネだったと聞いている。おそらく60歳以上の人は、ほとんどがそうだろう。まあ、誰も競争してまでなりたいと思わないんだから、それだけ公務員の社会的地位が低かったということだろうな。

 わしが小学生の頃に、2階にSSさんという学生が下宿していたことがあった。みんなからSちゃんとファーストネームで呼ばれていたから良い人だったんだろう。リアルタイムではよく覚えてないが、親のアルバムに貼ってあった、城をバックに、トレンチコートを着て微笑んでいるSさんは、エキゾチックな感じのなかなかの男前で、女性にもさぞやモテたことだろう。

 そのSさんが卒業後、市内の大きなホテルに就職したらしい。男前だったこともあったのかどうかしらないが、仕事もできたんだろう、そのホテルのオーナーの娘と結婚することになった。オーナーのMさんは有力な市会議員で、言ってみればそこらあたりの顔役なわけだ。そのうちに、うちの両親も、Sさんを通してそのM氏と知り合うことになった。

 さて話は長くなったが、わしが船乗りを辞めたいと思うようになった、昭和49年か50年頃のことだ。なぜか親がしきりに市職員を勧めてくる。わしは市の職員なんかはまったく興味なかったが、今更事務系は嫌だが、電気関係ならやってもいいかななどと話したことがあった。別に本当にやりたかったわけではないが、面倒だからそう答えただけだった。職員採用試験を受けるには、すでに日も過ぎているので無理だろうと考えていた。

 そこに登場したのが先のSさんとM市議だった。どうやら親父がM市議に頼みに行ったらしい。関係者みんな亡くなったし、こういう裏話ももう時効だからいいだろう。M市議は話を聞いて、「わかった、履歴書を書いて本人に持ってくるように伝えてくれ。」と言ったらしい。親父には、旨く行きそうだから、とにかく履歴書を持ってM議員を尋ねるように勧められたが、わしは、コネなんかで入りたくないからときっぱり断った。誰でも若いときは純粋なんだろうな。

 親父もがっかりしていた。しかし、もしもう一度同じ状況になったとしたら、今なら一も二もなく、履歴書持ってすっ飛んで行っただろう。もし、親父の立場に立ったとしたら、当然自分の子供にも勧めるだろう。これが40年生きてきて、世の中を知ったということなんだろうか、或いは利口になったということなんだろうか。功利的に生きることは決して悪いことだとは思わないが、ちょっと寂しいような気もする。しかし、矛盾するようだが、子供らには堂々と利口に生きてほしいと願っている。これが親心というもので、親父もきっと同じ気持ちだったんだろう。

 

あと10355日

 長男が購入した古家の、前の持ち主だったOさんが残していった物を処分するために、朝から出かけていった。掛け軸とか書道の作品で、引っ越しするときに処分するというのを、わしも作品を見てみたいので置いていくようにお願いしていたものだ。その中に昭和2年のOさんの書道作品があったが、まだ子供のはずだが、見事なものだった。芸術の世界では、生まれもった才能というのはやはり必要なんだろうな。

 置いて行ってはもらったが、しまっておくところもないし、親のものまでほとんど処分してしまったのに、今更他人のものをため込むのも道理にあわない。表装してあるものだけを残して、他は全部紙ごみで処分することにした。夕方までかかって、紙代、墨代等かなりお金がかかっているんだろうなと思いながら、折りたたんで紐で縛っていった。夕方になると冷えてきたのか、また咽喉が痛くなってきた。困ったもんだ。

 ところで、今朝、その古家に行ってみると、整地してある庭に、左官道具を積んだ軽トラックが一台とめてある。誰の車かわからないが、もう一台とめるスペースはあるので、そこに自分の車をとめて、荷物の運び出しをやっていると、50前後の、その軽トラの持ち主がやって来た。わしがいるのに気がついても何も言わないので、「どちらの車ですか?」と尋ねると、さも意外そうな顔をして「えっ、停めてはいけないんですか?」と答えた。さすがにこれにはちょっと驚いた。「そりゃあなた、ここは人の土地なんだから、勝手に停めてはいかんでしょう。」と言うと、「大工の棟梁にここに停めていいと言われているんですが。」と、しきりに首を捻りながら、聞いてくると言って向こうへ歩いて行った。

 1分ほどして帰って来ると、棟梁に指示されたんだろう、黙って車を動かそうとしている。わしは別に移動しろというつもりはないので、「仕事中なら、今日一日車をとめてもかまわんよ。」と言ったんだが、そのまま出て行ってしまった。ちぐはぐな感じで、何か気に障るようなことを言ったのかなと、しばらく悩んでしまった。わしも女房からよくコミュ障だと言われることがあるし、自分でもそう思っている。今日の職人さんもコミュニケーションは得意ではないようだった。そういう二人の突然の会話だったから、かみ合わなかったのかもしれない。

 おそらくコミュニケーション能力の長けた者同士の会話なら、以下のようになったのではないだろうか。

「これあなたの車ですか?」「はい、そうです。地主の方ですか?棟梁の指示でとめさせていただいています。お邪魔ならすぐに移動します。」「いえ、移動していただかなくても結構ですよ。もう一度棟梁にご確認願えますか?」.....確認に行く.....「申し訳ありません。棟梁に移動するようにいわれましたので、すぐ移動します。」「いえいえ移動することはありません、今日一日で終わるようでしたら、夕方までとめていただいて結構ですよ。」「そうですか、それは助かります。それでは遠慮なく今日一日置かせていただきます。」

 こういう風にスムーズに話せると、わしも悩まなくてもいいんだが、無いものねだりをしてもしようがない。自分にはストレスがたまっても、人を傷つけないように気を付けてさえいれば、大きな嵐に巻き込まれることはないだろう。

あと10356日

 咳もほとんどおさまり、夜もゆっくり寝られるようになったので、体がだいぶ楽になってきた。少しずつ散歩もできるし、咳き込まずに祝詞をあげることができるようになったのが、なにより有り難い。咳で腹筋を使い過ぎたのか、昔、腹膜炎をおこしかけた時の、腹の手術痕がきりきりと痛み出して辛かったが、何とか終息に向かっているようだ。まさかこれほどのダメージを受けるとは思ってもいなかったが、これが歳をとるということなのかもしれんな。

 古傷が痛んだせいで、忘れていた30年以上も前のことを思い出してしまった。わしが救急車で防衛医大病院に担ぎ込まれた時、ショック状態で血圧が低下し、手術ができず、血圧を上げるために、ひとまず一般病室に入院した。血圧が40くらいだったから、ただ、ぼーっとして寝ているだけしかできずにいたが、外科病棟というのはおかしなところで、手術前の人、手術直後の人、手術後時間が経過した人、この3種類の人が混在しているということに気が付いた。つまり、わしのように、わけのわからない原因不明の病人の居場所ではないということだ。

 基本的に手術後時間が経過した人は既に病人ではない。みんな元気で、病室内で暇を持て余している。手術前の人も、ほとんどが切れば治る人たちなので、わりあい元気だった中で、唯一病人らしいのは手術直後の人だけだった。わしが病室に運ばれた時、8人ほどいたと思うが、みんな元気そうで楽しく話をしていた。ひとりの若いきれいな女性、A子さんがその中心で、外出時に買ってきたみたらし団子をみんなに配っていた。そのうちにわしの存在に気付いたそのA子さんは、2本を皿に入れて持って来てくれた。

 そんなに重病人には見えなかったんだろう。手術後の人だと思ったのかもしれない。こちらは腹も痛いし、熱でしんどくてそれどころではない上に、生死の間を彷徨っている状態なのに、いろいろ話しかけてくる。すぐに看護師が来てとめてくれたが、元気でいいなあと思ったのだけは覚えている。結局そのみたらし団子は、2日後、危篤と伝えられて、飯も咽喉を通らない状態で飛んできた、おふくろの胃袋に入った。

 それから2日ほどして、廊下を歩いているA子さんを見かけたが、点滴をゴロゴロ押しながら、尾羽打ち枯らしたような憔悴した姿だった。これを見てわしは、まさに、これが手術直後の人かと、あの2日前のはつらつとしたA子さんとの落差に驚いたが、既に回復に向かっている姿が羨ましくもあった。

 手術後の入院中にわしは珍しい経験をした。同室だった腸閉塞のおじさんと親しくなり、いろいろと話をするようになった。そしてある日、その人の家族が見舞いにやってきた。娘と息子がいるということは聞いていたので、どんな人なのか、わしも楽しみにしていた。ある日の午後、やってきた娘さんは、夏だったので半袖のワンピースを着ていたように覚えている。わしはその姿を見て、あっと声をあげそうになった。

 絶世の美女という言葉さえ霞んでしまうほどの美しさで、あれから30年以上たつが、現実社会でも、映画の中にでも、未だにあの人より美しい女性に、会ったことがない。言葉で表現するのは難しいが、父親のお見舞いに持ってきた、梅が丸ごと入った和菓子を一つ持って来てくれて、「梅の種が入っているので、気を付けて召し上がってください。」と手渡ししてくれた時は、わしは天にも舞い上ったような気持ちで、緊張してろくにお礼も言えなかったし、まともに顔を見ることもできなかった。こういう経験は以後二度となかった。

 いや、つまらんことを思い出してしまった。