無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10345日

 古事記神代巻100回音読も一応達成したこともあり、また先日の咳喘息のこともあり、ここらで、このブログも含めて、一度生活を見直してみるのもいいのではないかと思っている。

 無駄に生きるとはどういうことかというテーマで、ほぼ休むことなく558回書いてきたが、毎日書くということは、思った以上に大変だということがだんだんわかってきた。一番の問題点は、時間の使い方が細切れになるということだ。書くという作業は嫌ではないんだが、朝起きて掃除して祝詞奏上と続く一連の流れの中で、ブログを書くということが、その流れを遮断しているような気がしてならない。そのことが、せっかく、時間を思う通りに使える身になりながら、それを有効に利用してないように感じる原因となっているようにも思える。

 つまり、1日が24時間ではなく、48時間や72時間として利用できる幸せを阻害している原因が、毎日書くという作業ではないかと思うようになった。今のわしにとっては24時間にこだわる必要は何もない。初期の頃はブログを書くことが、毎日のリズムになっていたが、時間の使い方に慣れてきて、もう少し長いスパンで生活をしたいと思うようになってくると、そのリズムが邪魔になってくる。

 勝手に書いているんだから、別に毎日書く必要もないだろうと言われればその通りなんだが、これも自分との約束だと思うと、なかなかそうもいかない。しかし今回は思い切って更新回数を減らすことに決めた。1週間に1回とか2週間に1回とか、不定期になると同時に、もう少し時間をかけて楽しく書きたいと思っている。

 そんなわけで、更新が遅れると思います。また、ゆっくりとみなさんのブログも訪問して、楽しませていただくつもりです。ブログはまだまだ続きますので、たまには覗きに来てください。haruさん、毎日読んでいただいてありがとうございました。時々は更新しますので、またよろしくお願いします。

 

 昨日の記事に書いた、寄り引け取引はロジックに間違いがありましたので、消去しております。過疎ブログでよかった。

あと10346日

 どうのこうの言ったところで、人間というものは、いくつになっても欲を捨てることはできないと思っている。或いは、欲があるから生きていける、と言ったほうがいいのかもしれない。中でもお金に対する欲求は特別で、誰にとっても、お金というものが、生きていく上での重要なバロメーターとなっていることは間違いないだろう。

 今は株はほとんど持ってないので、損をする心配はないが、儲けることも無い。ほとんどを手放した頃は、これで損する心配はなくなったと安心していたが、売った株が上がっていくのをみていると、別に損をしたわけでもないのに、なぜか損をしたような気がしてくる。ここであわてて手を出すと高値掴みをしてしまうので、それもできない。これは結構ストレスになると、最近気が付いた。

 売れば上がる、買えば下がるという感覚は、株式投資の経験者ならみんな感じていることだろう。それでも余裕資金で現物株を持っているということは、心の余裕にも繋がっていく。下がっても、売らない限りは含み損で、その間配当ももらえて利益は積みあがっていく。10年、20年持っていれば、つぶれない限りは必ず上がってくる。儲けようと思ったら、現物株の長期保有に限るということはわかってはいるんだが、ちょっと刺激もほしいと思うこともある。

 今年の6月から始めたのが、日経225miniの寄り引け取引というやつだ。売りか買いかしかないんだから、大雑把なところで確率5割といえるだろう。朝の寄りで、売りか買いのポジションを持ち、その日の引けで決済するので、夜まで引きずることがない。負けても損害はそんなに大きくならないし、これならストレスも少ないだろうと始めてみると、なかなかどうして、勝てば極楽負ければ地獄、毎日がこれの繰り返しだ。しかも年間勝率5割以上に持っていこうと思ったら、一日も休めない。

 

 起きて半畳寝て一畳天下とっても2合半、これだけあれば生きていけるとはいうが、お金というものは、あって邪魔になるものではない。誰でもお金がかかってくると真剣になるし、いい加減な気持ちではやれない。こんなことで、たまには人生真剣勝負という気持ちを思い出すのもいいのではないのかな。もちろん余裕資金で、ほどほどにやっとればの話だが。

あと10347日 古事記神代巻音読100回達成

 11月23日夜、去年の4月1日から始めた古事記神代巻100回音読が完了した。当初は、去年の11月までに終わる予定だったが、それはちょっと甘い考えだった。結局11月までには27回しか読めなかった。それから1年かかって73回読んだことになる。読み始めて602日目、途中、旅行と病気で読めなかった6日を除いた596日間、時間が無い時も、眠たい時も毎日机の前に座って読み続けた。やったから何がわかるとか、何か得るものがあるとか、そんなことは初めから期待していない。小さなことかもしれないが、誰に話すこともなく、毎日毎日596日間積み上げてきたことに対して、自分なりに満足している。

 この596日間で、全く何も得るものが無かったかといえば、それはそうではない。今回読み始めるまで、古事記はわしにとって遠い存在だった。子供の頃に絵本でみた、国生みの話や海幸彦山幸彦の話を断片的に覚えていたくらいで、そもそもこれらの話が古事記の話だということさえ知らなかった。そんなわしを古事記の言霊の世界に導いてくれたのが、相曾誠治氏だった。残念ながら相曾誠治氏は1999年12月31日に亡くなられているので、直接お会いしたことは無い。「言霊と太陽信仰の神髄」「サニワと大祓詞の神髄」という、氏が唯一出版したこの2冊の本との出会いがそのきっかけだった。

 100回読んでみてもわからないことが多い。わからないならわからないままで読み進めばいいんだろうと考えて読んできたんだが、結果的にはそれでよかったと思っている。わからないというのは意味が分からないのではない。最近現代語訳というのがあって、これを読むと、何か通り一遍な意味が書いてあるらしいが、それを知ったからと言って何の意味もない。わからないのはそんなことではない。わかろうとして、古事記の中に出てくる話を、自分の知識の枠のなかで解釈することのばかばかしさを、なんとなく理解できるようになった。

 相曾誠治氏の言うように、古事記から言霊を感じる読み方とは、目でストーリーを追うのではなく、正しく書かれた古事記を、ただ声を出して読み続けることしかないと考えている。結局死ぬ日まで毎日1行でも2行でも読み続けていけば、わかる日もくるかもしれない。

あと10348日 がん家系

 このブログを始めるきっかけにもなった、わしらの一族は癌で死ななければ94歳まで生きる、という話をわしに教えてくれたのは、親父の妹に当たるM叔母さんだった。

このブログの第一回あと10918日に書いたように、この時M叔母さんは88歳だったので、わしが「そしたら叔母さん、あと6年しかないがな。」と言ったら、ちょっとムッとしていた。

あれから後も、他の人からそんな話をい聞いたことがないので、M叔母さんだけが気にしているのかもしれないが、たとえ自分が言い出しっぺだとしても、寿命があと2000日ほどだと、他の人から指摘されるとあまりいい気はしなかったんだろう。

 この間のおふくろ13回忌の法事の時、わしは離れていたので気が付かなかったんだが、M叔母さんが隣に座っていた女房に、親父が何歳で死んだのかを確認したらしい。

女房が94歳だと答えると、「やっぱり94じゃったかな。」と深くうなずいて、またあの話を始めたそうな。確かに94歳で死んだ人は何人もいるので、全く間違っているともいえない。

今年はM叔母さんも90なので、これが正しいとするとあと4年ということになってしまう。当たることなくいつまでも元気でいてほしいものだ。幸いなことに、今回は近くで「そしたら叔母さん、あと4年しかないがな。」などと軽口を叩くものもいなかったので、気分を害することは無かったようだ。

昔のことを知っているのは、もうこのM叔母さんしかいないので、わしらの間では生き字引のような人だ。一日でも長生きしてほしいとみんな願っている。

 実は、わしもまだこのM叔母さんの94歳老衰死説は半信半疑なんだが、万が一本当にM叔母さんが94歳で老衰死をしたら、それは信じてしまうだろうし、当然自分のカウントダウンにも力が籠って来ることだろう。とはいえ、家系的には癌家系なので、癌になって早く死ぬ可能性が高いというのも事実だ。親父の兄弟6人のうち3人が癌で亡くなっているし、いとこも一人、40歳代でスキルス胃がんであっという間に亡くなった。祖父も肺がんだから、これはもう立派な癌家系だといえるだろう。

 わしは30年ほど前に、エドガーケイシーを知った。この人の予言に関してはあまり当たってないようだが、病気に関するリーディングにはなかなか面白いことが書かれている。最近はネット上でもブームになっているみたいだから、まんざら嘘でもないんだろう。わしはおふくろの肺がん治療に、医者の了解を得て丸山ワクチンエドガーケイシーのひまし油シップを行った。抗がん剤治療はしなかったので、この二つだけが唯一の医療行為となった。

 結果3月までと言われながら11月まで生きて、死亡時、左の肺は真っ黒だったが右肺は全く正常で酸素は足りていた。血液検査もすべて正常値、他に転移もなかったので、なんで死んだのかわからなかった。生き物は、生きたいという気持ちがあってこそ、生きることができるとしたら、生きる気力がなくなった時、或いは死を受け入れた時、死ぬということなんだろうか。

 ところで、エドガーケイシーのリーディングの一節に、1日1粒の生アーモンドを食べていれば癌にならないと書いてあるのを見つけて、それ以来10年近く食べ続けている。もしわしが94まで生きることができたら、生アーモンドの効用も立証されるということになるだろう。 

あと10349日

 最近やっと、新聞テレビ等メディアのデタラメさが俎上に上がってきたが、インターネット初期から、ネット情報に接してきた人たちにとっては、やっと追いついてきたかという感じだろう。佐藤栄作首相が辞めるときに、新聞記者は会見場から出て行け、国民に直接話したい、テレビカメラは前に来いと言って、新聞記者を追い出したことがあった。在任中、嘘を書かれ続けて頭にきていたんだろう。新聞記者が誰もいない会場で一人テレビカメラに向かって話していた。当時はこれが異様な光景だと言われたが、今から思えば、また違った意味で異様な光景だった。

 編集権は我々にあると豪語しているテレビを、あまりに無邪気に信用している総理大臣、それをわしらはどのようにとらえたらいいのか、ほんとうに異様な光景だ。今でこそ、ネットで暴かれるから、やらせが国民にもわかるようになったが、当時はまだばれてなかったんだろう。もし今、佐藤総理が生きていたら、画像の切り貼り、テロップの捏造、何でもありのテレビを信用しているなどと、恥ずかしくて言えないだろうな。わしもたまには見ることもあるが、初めからやらせとして見ているし、出演者が変なことを言い始めると、ほらほらまた始まったぞと、消すようにしている。なくても全く困らない。

 新聞をとらなくなって8か月になる。たまに緩衝材として、紙が欲しいときはあるが、中身が読みたいと思ったことは一度もない。拡販員というのか、新聞社とは別の集団が一回やってきて、新聞くらい読みなさいよと偉そうに言うので、丁寧に御引取願ったら、それ以来こなくなった。この拡販員というのが昔から曲者で、今はどうか知らないが、ゴロツキやチンピラのようなのがいて、女性1人で住んでいる部屋を回って契約をとって問題になったこともあった。

 わしも経験があるが、当時は29歳独り者で、怖いものなしだったから、丁寧に御引取願ったが、勝手にドアを開けて、中まで入って来て大声をあげられたら、女性1人なら怖くて契約するだろう。また、「テンプラ」という業界用語を覚えたのもこの頃だった。当時は拡販競争が激しかったようで、朝日と読売がよく来たが、読売の態度が特に悪かった。ある晩やってきた読売の拡販員が、捨て台詞を残して帰った次の朝から、読売新聞が配られてきた。何かの間違いだろうと2~3日ほうっておいたが、いつまでも続くので、ある晩、普段使っている印鑑をもって、読売の販売店を尋ねた。

 住所氏名を言って用件を伝えて、契約書を見せて貰った。やはり、知らない三文判を押してあったので、自分の印鑑を見せて、明日から入れないようにお願いした。店主は謝罪した後、こういうやり方で契約を偽造する方法をテンプラというんですよと教えてくれた。他にも苦情が入っていたらしいが、偽造した本人はもういないし、販売店も困っているようだった。いい加減なやつが多かったんだろう。あれから37年、アカが書きヤクザが売って馬鹿が読む、などと揶揄されている新聞社もあるようだが、この業界の役割は既に終わっているような気がする。

あと10350日

 毎年今頃になると、長女の嫁ぎ先から貰った渋柿の皮をむいて、軒先に吊るす作業が始まる。今年も100個近くの柿を貰ったので、気温も下がった今朝から皮むき、紐かけ、煮沸消毒後、軒先に吊るして作業は1時間くらいで完了した。わしは子供の頃から柿は好きなんだが、うちで干し柿を作ったという記憶も、買って食べたという記憶もない。甘柿ならよく食べていたから、案外干し柿は、おふくろが嫌いだったのかもしれない。

 この間の法事で、兄が干し柿が好きだということを初めて知った。そこで去年の残りが10個ほどあったので、夕食後それを出すと、あっという間に食べてしまった。兄が好きだったとは寡聞にして知らなかったが、子供の時は食べなかったはずだから、高校卒業後、家を出てから食べだしたんだろう。わしがそう言うと、「そんなことはない、子供の頃から好きだった。」と反論していたが、このおっさんの記憶があてにならないことは既に実証済みだ。そんなに好きなら送ってあげようということで、今年のが出来上がったら送ってあげることにした。兄嫁は嫌いで、食べたことが無いといっていたから、送ってあげなければ、一生、干し柿が兄の口に入ることはないだろう。

 わしらの小さい頃は、冬のおやつといえば、あられ、かき餅、水餅なんかだった。12月28日の御用納めの日に、夕方親父が帰って来ると、物置から臼を取り出して餅つきが始まった。あられ、かき餅なんかも作るので、6臼か7臼くらいついていたはずだ。わしらはまだ小さいので、杵を持つことはできない。親父とおふくろの作業を、たまに飛んでくるもち米の粒を探しながら、兄と二人で見ているだけだった。

 あん餅、雑煮用の餅、水餅はきちんと丸めるが、あられやかき餅はそのまま「むろぶた」と呼んでいた、古びた木製の箱に詰め込んでいた。正月も過ぎて、乾燥して少し硬くなると、それを包丁で薄く切り出すんだが、これはかなり重労働だった。厚さ約3mm、7cm角くらいに切り出したものを、網の袋に入れて軒先に吊るしておくと、何日かで乾燥してカチカチになる。それを火鉢の上で、火箸で押さえながら焼くと、薄く広がってパリパリに焼ける。これは旨かった。

 「水餅を取り落としたり奈落まで」これは30年も前に、わしも参加していた俳句結社「渋柿」で選者をしていた、野口里井というお医者さんの作った俳句だが、この感覚がわかる人はもうほとんどいないだろう。この句を句会で聞いたとき、今でも覚えているくらい衝撃を受けた。水が一杯入った大きな甕の中に餅をいれて、昔は保存食として利用していた。わしは小学校2年までは、昼は家に帰って食べていたので、1月から3月くらいまでは、いつもこの水餅だった。おふくろに取って来るように言われて、吹きっさらしの中で甕のふたを開け、腕まくりをして冷たい水の中に手を突っ込んで取り出す時に、もう少しのところで、手からこぼれ落ちた一個がゆらゆらと暗い底まで落ちていく。ほんと奈落の底だ。寒いのに勘弁してくれよという感じだった。

 餅なんかは今ではいつでもあるし、季節感も無くなったが、わしらの年代は生活の一部として記憶されているので、その季節になると様々な情景と共に思い出される。物は無くても豊かに生きるとは案外こういうことかもしれんな。

 

あと10351日

 東名高速で死亡事故があってから、危険運転で逮捕という事件が多くなった。煽り運転なんてものは別に最近始まったものでもなく、以前からあったんだが、検挙数が増えたということは警察が本腰を入れだしたということかな。それなら結構なことだ。ドライブレコーダーの普及で、警察も取り締まりがしやすくなったというのも、あるのかもしれんな。

 わしもアマゾンで、ユピテルDRY-ST3000Pというやつを、10980円で購入して自分で取り付けた。10月21日に注文して届いたのが11月8日だったから、相当品薄になっているようだ。画像はかなりきれいで、信号の色もナンバーも読めるので、性能的には十分だ。なんと今見たら12980円になっている。これで煽り運転を抑制する効果があれば、安い買い物だ。

 わしも若い頃に一度だけ、割り込んできた前の車を煽った経験がある。ドライバーは50歳くらいの小柄な人だったが、危ないよというくらいの軽い気持ちで、何回かクラクションを鳴らしてやったら、次の信号で止まった時に、その人が車から降りてこちらへやってきた。わしも車から降りて向かい合ったら、相手の身長がわしの肩までしかない。しかも20歳くらい年長だ。見上げながら、なんか用があるのかと噛みついてきた。

 向こうからやってくるという状況は想定外だった。確かに殴り飛ばすか、首でも絞めるか、蹴りでも一発入れたら吹っ飛ぶだろう。しかしそれをやったら傷害罪で、下手をしたら仕事も失うかもしれないと妙に冷静になった。車にいた当時3歳の長男は、喧嘩したらいかんと言うし、この時わしは進退窮まった感じがした。信号が変わったので、その人は言いたいことだけ言うと、なんか捨て台詞を残して去っていった。

 この人はわしを見て、こいつはDQNではないと判断して攻勢に出たとしたら、鋭い判断力の持ち主だし、小さな体でなかなか度胸もある人であった。わしはというと、大東亜戦争時の日本と同じで、終戦に至るグランドデザインを持ってなかった。やみくもに攻撃開始したが、思わぬ反撃になすすべがなかったというところだ。わしはこの時以来、考え方を改めた。

 相手に腹が立った時に、それを相手に知らせるべきかどうか、知らせるとしたら一体相手に何を求めているのか、謝罪か、じゃあ相手が非を認めない時どうする、そこでやめるか、暴力に訴えてでも認めさせるか。これは怒りを終息させるためのグランドデザインと言えるもので、ここまでやる意思がないのなら、初めから自分自身で解決して、人に対して怒りを向けないのがベストだということだろう。

 車を運転していると煽ってくる奴もいるし、強引な割り込み、車線変更等腹が立つことも多い。この地方では「伊予の早曲がり」なんていう、とんでもないものもある。わしは運転しながらブツブツと怒りの言葉を言うので女房は批判的だが、これは言ってみれば安全弁で、窓を開けて大声で言ったら、東名高速の事故のようになるが、車内でブツブツ言う分には誰にも害を与えない。同乗者は多少うるさいかもしれないが、これで怒りがコントロールできるなら、結構なことだ。

 わしも歳をとるにつれて、人に迷惑をかけることも多くなるだろうし、怒りの対象になることがあるかもしれないので、常にS(慎重)H(控えめ)運転を心がけている。