無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10045日

 「駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人」これは誰でも知っているだろうが、自分も含めて本当に理解しているかどうかは怪しいいものだ。わしなんかも67年生きてきたにもかかわらず、今頃になってしみじみとその意味するところを実感する機会が多くなったような気がしている。

 というのも、今回初めての町内会長になったのははいいんだが、ちょうどうちの町内会が夏祭り秋祭りの当番町内会になっていて、その段取りをしなくてはならなくなったからだ。今まで何となく見過ごしていたいろんな出来事が、実はわしらの知らないところで誰かが段取りをしてくれて、わしらはそれに乗っかっていただけだったということを思い知らされている。夏祭りはなんとか終わったが、秋祭りの子供神輿巡行は一筋縄ではいかない。

 ここの子供神輿は、わしが小学校2年生だった昭和34年からの伝統があるが、一時は子供の数が減ったこともあった。昭和50年代あたりから宅地化が進んできたこともあり、今では子供も60人以上集まるようになっている。

 昭和30年当時、隣町には立派な子供神輿があったが、わしらの町内には無かった。そこで当時の町内会の人たちが、隣町の神輿を見ているだけでは子供らがかわいそうだということになって、募金を集めて作ってくれた。わしの親父なんかも、安月給のなかから結構多額の募金をしていたようだ。出来上がった神輿を近所の家まで見に行った時のことはよく覚えている。

 その家の座敷に、神輿はピカピカに光って鎮座していた。その出来上がったばかりの神輿を「触ってはいかん。」と言われながら遠巻きにして眺めていたのは、ほとんどがわしより上の年代の人達だったが、高度経済成長の波に乗ってその多くが県外に出てしまい、神輿の伝統は残った少数の人に受け継がれてきたというのが現実だ。

 当時は子供の数が圧倒的に多くて、神輿の出発地点のあたりは子供で埋め尽くされていた。わしなんかは最年少の部類だったので、当然かかせてもらえず、おふくろに買ってもらった提灯を持って後ろのほうからついて歩くだけだったが、それでもわくわくして楽しかった。なにより最後にパンをもらえるのが一番うれしかった。

 今思うに、このパンにしても今のようにどこにでも売っているわけではない。誰かがこの数を決めて、パン屋に注文をしていたはずだし、誰かが休憩場所も確保していたはずだし、誰かが宮入の支度もしたはずだし、法被の世話も、神輿組み立ても、紙垂を作って注連縄張りも、道路使用許可願提出も、誰かがやってくれていたということだろう。おそらく初期の世話役だった、醤油屋のNおいちゃんとか、竹屋のSさんとか、市役所のKさんとか、親父より年上の世代の人たちが段取りをつけてくれたんだろう。

 あれから60年たち、わしがその役をすることになってつくづく思うことは、あの頃の人たちはとてもかなわないということだ。みんなが貧乏だった時代、自分の生活もままならない時代に、地域の子供たちのために面倒なことを引き受けて、一生懸命やってくれた。今のわしにあれだけのことができるかどうか、その自信はない。

 しかし、そうも言っていられないので、年長者に教えてもらいながらコツコツとやっているが、10月7日までは気は抜けない。たかが子供神輿とはいえ、中心になって運営するのは結構気疲れするものだ。

 

 

 

あと10051日

 先日中学校の同窓会があり、幼馴染だった友人と二人で参加した。卒業してすでに50年を過ぎて、クラス担任はみんな死んでしまった。同窓会というのも、やはり自分の担任が元気でいてくれた頃のほうが、昔話で盛り上がったものだ。特にわしは中学3年間同じ担任だった関係で、他の先生が参加していてもあまり話すこともなく、たまに話しても、向こうもあまり覚えてないようで、おかしな時間が流れることがよくあった。

 わしの担任はY先生という人で、今上天皇(当時の皇太子殿下)と同い年だった。たしか天皇陛下より数日早く生まれていたはずだ。こんなことを覚えているのも、入学式の後、教室で自分の名前の由来を懇切丁寧に教えてくれたからで、わしはそのときの情景をつい昨日のことのように覚えている。Y先生もまだ20歳代後半だったはずだ。

 卒業して25年たった40歳の時に最初の同窓会があった。その時に先生の年齢の話になり、わしが天皇陛下と同い年だったはずだから○○歳だとみんなに教えてやった。これにはY先生も驚いていた。本人はそんな話をしたことはすっかり忘れていたようで、先生の欣二という名前の講釈を、今度はわしが先生に代わってみんなにすることになった。

 皇后陛下と同じ頃に身ごもったY先生のお母さんは、こんな有り難いことはない、どうせなら皇后陛下と同じ日に産みたいと願った。わが子がこの世に生まれてくることは自分たちにとっては大きな欣びであることは当然だが、同じ頃に生まれる予定の天皇陛下の子供は国民や国家にとって大きな欣びでもある。その両方を祝うという意味を込めて「二つの欣び」すなわち「欣二」と名付けた。しかし残念ながらお母さんの辛抱がたらなかったのか自分が気が早かったのか、数日早くに生まれてしまったので、同じ誕生日とはならなかったという話だ。

 中学一年で聞いた時は、単なる笑い話のようでみんなが腹を抱えて笑っただけだった。二つの欣びという意味を真剣にとらえることはなく、ドタバタ喜劇をみるような感覚でストーリーを捉えていた。この話の持つ意味が何となく分かってきたのはずっと大きくなってからのことだった。

 敗戦によって、戦前は暗黒時代として封印され、アメリカによってもたらされた戦後の輝かしい民主主義とやらが幅をきかせてきた。しかし、明治大正生まれのわしらの親や祖父母の世代から直接聞いてきた歴史は決して暗黒ではない。今より貧しかった故の苦労はあったが、みんな一生懸命働き、家庭を大切にして質素な生活を楽しんでいた。これは今と同じだ。そこには時代の断絶など存在しない。

 天皇陛下に子供が生まれるということと、わが子の出産を「二つの欣び」として何の疑いもなく祝福できるという親の純粋で素朴な気持ちは、戦後教育を受けた者にはなかなか理解しがたいことかもしれない。もちろん批判するのは簡単だ。しかしわしは今、この話を思い出すときに、子供の時のような笑いではなく、いつも心の底から羨ましいと感じてしまう。そしてそう感じるようになった今の自分に満足している。

あと10054日

 94歳まで生きるとしても、あと27年しかないということになるが、これが長いと感じるか、短いと感じるか、人それぞれだろうし、感じ方も一定ではないと思っている。現にわし自身もその時その時で違っていて、そんなに生きるのはちょっとしんどいかなと感じることも多々ある。

 すべては気持ちの持ちようで、この間IPOが当選した時なんかには、よし、この調子なら100迄生きるかもしれんなと有頂天になっていた。それらを客観的に見ているわし自身は、人は揺れ動く不確かな存在であるということはよくわかっている。感情の赴くままに、それを適度にコントロールしながら、周りと折り合いをつけているにすぎない。

 今まで多くの人を見てきたが、まったく揺らぎのない人に出会ったことはない。表現されるすべては、その人のある一面にすぎない。本人自身も知らない一面というものは無限にある。何かに遭遇した時、予期しなかった行動をとり、後になって自分にもあんな一面があったのかと驚いた経験はないだろうか。

 そういう風に考えることができれば、侮辱されたように感じたり、疎外されたように感じたりして、弱い自分に我慢がならなくなるというようなストレスに対し、ストレスを感じている今の自分も、自分の一面だと認めることができるようになるのではないだろうか。

 さらに言えば、怒りを感じている今の自分も自分であり、人と穏やかに話しているのも自分であり、子供を叱っているのも自分であり、お金がほしいと思うのも自分であり、自分とは正も負もすべて併せ持つ不完全なものであり、かつ完全なものであるともいえる。そこには変えなければいけないものは一つとして存在しない。人は生まれながらにして完全なものであるというのはそういうことではないだろうか。

 様々な一面を持つ人間に、常に一つの面だけ見せて生活しなさいということは、その人を殺すことと同じだと思っている。こうありたいと思う自分、こうあるべきだと思う自分、いろいろ思うことはあるかもしれないが、そう思っている自分さえもが自身の一つの面だと考えることもできる。

 人は生まれながらにして完全な存在だということは、すべてを認めることによって完結されるのではないだろうか。すべてOKだと認めることができさえすれば、いつまで生きるか、いかに生きるかなどということも大した問題ではなくなるんだろうが、これはなかなか困難なことだ。

あと10058日

 8月半ば頃からパソコンの調子がおかしくなり、だましだまし使ってきたが、一週間ほど前になってとうとうフォルダーやエクスプローラーが開かなくなった。本体は使えることは使えるのだが、以前作ったファイルが読めないので仕事にならない。ネット上でいろいろ原因を探してみたが、わからないのでリカバリーディスクで初期化することにした。

 特に、これから始まる秋祭りのために作った総会資料など、すべて町内会というフォルダーにしまっておいたが、これが読めないのには一瞬青ざめた。バックアップはとってあっても、エクスプローラーが開かないのでそれも読めない。初期状態に戻す前に、とにかくデスクトップにあったフォルダー類を30時間ほどかけてgoogleドライブに保存した。

 初期化してまず立ち上がりの速さに驚いた。もう一つ驚いたのが、自分で購入したものだと信じ込んでいたCANVASというソフトが、実はそうではなかったということだった。初期化後、さて、インストールし直すかと、ディスクを探したがどこにも見当たらない。わしは10年以上、資料作成にはこのCANVASを使っており、結構精通していて重宝してきた。ワープロイラストレーター、フォトショップを兼ね備えていて、比較的安価で非常に使いやすい。しかし、初期の頃にはバグが多く、Macがよくフリーズしたので、わしの周辺ではみんな使うのをやめてしまった。

 そのCANVASのインストールディスクを探したがどこにもない。町内会資料もすべてこのCANVASで作っていたので、これは大変だと30分ほど探し回った挙句にようやく思い出した。昔、職場のパソコンが不調の時に、このパソコンを持って行って使ったことがあり、当然その時に職場のソフトをインストールして使ったはずだ。それを削除せずにそのまま家に持って帰っていたのかもしれない。仕事に行っている間は家のパソコンを使うこともほとんどなかったので、そんなことはすっかり忘れて、いつの間にか自分で買ったように思い込んでしまったんだろう。

 結果的には不正コピーという不法状態が解消されたので、そういう意味では何の問題もないんだが、町内会資料を作成するためだけにCANVASを購入する気もないので、とりあえず30日間のCANVAS試用版をダウンロードして、今までのファイルをPDFにして保存しておいた。これからはオフィスを使って作るしかないのかな。次期町内会長に残すのにはそのほうが都合がいいんだが、実はわしは昔からワープロはMacWORD、プレゼン用ソフトといえばアルダスpersuationから始まったMac派なので、パワーポイントやワードにはちょっと引っかかるものがある。

 

 

あと10064日

 昨日久しぶりに近所のブックオフをのぞいてみたが、客も少なくなっているし、本の売り場そのものが縮小されていた。そろそろ古本で出ているかもしれないと思い、とある本を探しに行ったんだが、残念ながらその本は無かった。しかし同じコーナーに「KOKODA」というハードカバーの分厚い本が鎮座していた。ココダという、なんか懐かしい響きに引き寄せられ、思わず手に取ってしまった。

 ココダというのは、昭和17年6月に「リ号研究作戦」として始まった、オーレンスタンレー山脈を越えて、陸路ポートモレスビーを目指すという、まるで第二次ポエニ戦争ハンニバルを彷彿させるような、遠大な作戦に出てくる東部ニューギニアの寒村だ。この辺りが帝国陸軍が部隊として行動した、地球上最南端の場所ではないだろうか。

 値段が2800円していたので、買おうとは思わなかったが、気になるところだけ30分ほど立ち読みをした。それは最前線で、オーストラリア軍と死闘を繰り広げている部下を捨てて、人事異動で内地へ帰った小林、堀江、二人の大隊長のことがどのように記されているかということだった。しかも堀江少佐は陸大受験のためという理由だった。

 読んだ限りでは小林少佐についての記述はなかったが、やはり堀江少佐については怒りの記述があった。悪路の中、トラック輸送を担当していた輜重兵の少尉が堀江少佐に呼び止められて、大本営からの命令で内地へ行くから乗せていけと言われた。少尉は不思議に思い、そっと当番兵に聞いてみると、陸大受験のためということだった。部下が次々と死んでいく中、受験といういわば私用のために、戦場から逃げ出す行為に怒りを感じたというようなことが書かれていた。人事においても平時と戦時の切り替えができてなかったということだ。アメリカでは、ニミッツ少将が28人抜きで中将を飛ばして大将に昇進して、太平洋艦隊司令長官に抜擢されたいた。

 戦後、オーストラリアは白豪主義などといって有色人種への偏見が強く残っていた。民間人を殺した卑劣なダーウィン無差別爆撃とか言って、今でも被害者ぶっているが、一時的にせよ、日本軍に追い詰められたのがよっぽど悔しかったんだろう。彼らは焼夷弾によって、2時間で10万人が焼き殺された東京大空襲は何と表現するんだろうな。また、ニューギニアやソロモンの戦争では、日本人捕虜の数が驚くほど少ないのは、捕虜にせずに皆殺しにしたからだ。連合軍の捕虜になるのも難しかった。日本人のしゃれこうべを土産に持って帰り、置物にしていたくらいだから、人間とは思ってなかったんだろう。まあ、そんな話は無かったことになっているようだが。

 勝てば官軍とはよく言ったもので、あの戦争での一番の教訓は何かと言えば、負ける戦だけは絶対にしてはいけないということになるのかな。戦争へのハードルが今よりはるかに低かったあの時代、戦ったことが悪かったのではなく、負けたことが悪かったんだから、その点に関しては東京裁判のような茶番が終わった後、日本人自らがきちんと総括するべきだったのかもしれない。

 こうして今夜も「ココダ」という地名から、いろんなことが取り留めもなく湧いてくるが、もうこんなことも忘れてしまったほうが楽になるんだろうな。一日が終われば寝て、朝日と共に新しい一日が始まるという単純な生活を望みながら既に3年目たってしまった。この調子では何時になっても、心の動きをコントロールして、シンプルに生きるということはわしには無理かもしれんな。

あと10072日

 昭和48年の4月のある日、21歳だったわしは浜松町で山手線を降りて、大きな荷物を担いで徒歩で竹芝桟橋へ向かった。3か月の日立造船向島工場での実習を終えて、やっと船に乗れる嬉しさに、高揚した気分で竹芝桟橋に到着した。向かい側には晴海埠頭があり、その沖に停泊している純白の練習船青雲丸がまぶしく見えた。

 しばらく待っていると、船から迎えの交通艇が、軽やかなエンジン音を響かせてこちらへやって来た。4月の柔らかい日差しを背に受けて、白い波を蹴立てて走るその船を見ながら、7月からの遠洋航海に思いを馳せていた。バルボア、リオデジャネイロ、ポートオブスペイン、アカプルコ、ホノルル、これから訪れることになる外国とはいかなる所なのか、胸を躍らせ、児戯にも等しい妄想にふけっていた。

 その頃のわしは、子供の頃からの夢を実現できたという満足感と、一人前になったというような思いあがった気持ちが相まって、親の恩なんかも忘れてしまい、周りの大人や社会を甘く見る傾向があった。屁理屈を言って相手をやり込めていい気になっていたあの頃の姿は、今思いだしても恥ずかしいことだ。さぞかし生意気な若造だったことだろう。

 数日停泊している間に、わしは当時文通していた、SHさんという2歳年下の女性に手紙を書いた。「小春日和というのは冬の言葉ですが、日が照って暖かくなった甲板の上に寝転んで空を眺めていると、季節に関係なく、今のこの瞬間こそ、小春日和という言葉が最もふさわしい瞬間ではないかと感じています。」というような内容で書き始めたのを覚えている。この文通も1年くらい続いたが、いつの間にか終わってしまった。

 その後、船は東京を出て房総半島最南端の野島崎を回り、北海道の小樽へ向かった。途中、三陸沖辺りから猛烈な低気圧に巻き込まれ、ひどい船酔いに悩まされながら3日後にやっと小樽に入港した。今と違って、国内旅行さえしたことのなかったわしらのような田舎者にとっては、小樽といえども外国のようなものだった。

 「小樽には船乗りの嫁さんが多いので、飲み屋に行くと旦那の留守に一人で遊んでいる嫁さんがたくさんいる。君らも物欲しそうな顔をしていると、ひょっとすると声をかけられるかもしれないから、気を付けるように。素人はやめとけよ。するときには必ずサックを使うように。」冗談か本気か知らないが、これは上陸前に聞いた教官の言葉だ。おおらかな時代だったと言えばいいのか、今では公務員がこんなことを言えば、売春を勧めるのかなどと、ある種の団体が騒ぎだして、懲戒処分を受ける羽目になるんじゃなかろうかな。

 友達のM君が、秋田のきりたんぽを食べさせてくれる店があるというので、雪がまだ残っている道を歩いて、3~4人でその店に入った。すると奥のテーブルに数名の制服を着た自衛官の先客がいた。隣の桟橋に護衛艦が一隻入港したから、おそらくそれの乗組員だろうと思いながら、わしらも隣のテーブルに座った。わしはきりたんぽというものがどんなものか、この時初めて知った。

 そこまでは良かったんだが、この後、隣の自衛官の人達に大変失礼なことを言ってしまった。困ったような表情で黙って聞いていたが、本当ははらわたが煮えくり返っていたのかもしれない。あれからもう45年もたち、当時の皆さんも全員退官されているはずだ。暇に任せて、ひょっとしてこのブログを読むことがあるかもしれないので、まずは、お詫びをしておきたい。

 「昭和48年4月、小樽のきりたんぽの店での一件について、あの時の生意気な若造が、この場を借りてお詫びを申し上げます。申し訳ございませんでした。」

以上

あと10072日、反省の旅はまだまだ続きそうだ。

 

あと10075日

 普通の大人なら、脅されたり、カツアゲされたりしたら、間違いなく警察に被害届をだすだろう。今なら携帯電話でその場でパトカー出動を要請することもできる。良い世の中になったもんだ。昔住んでいた多摩地区には、一階が交番になっている賃貸ビルがあった。オーナーが自費で交番スペースを設けたらしいから、かなりの出費になったはずだが、安全性が高まることを考慮すれば得だと思ったんだろう。交番があったら襲われる危険性がかえって高くなる、などと考える人は普通はいないだろうな。

 しかし、国防のことになるとそうではなくなる人達が、昔から一定数いるようだ。平和を愛する諸国民は悪いことをしない、こちらが仲良くしたいと思っていると争いになることはない。もし争いになれば降参すればいいなどということを、大の大人が言っているんだから話にならない。平和憲法などと称して有り難がっているが、そんなに良いもんなら、70年間でさぞや多くの国が採用していることだろう。

 そもそも国家というものは、その器に合わせて防衛力をもつことが、周辺国にたいする義務であると考えるほうが正しいと思う。強い経済力のある国はそれなりの軍事力を持つことで、地域のバランスを保つ責任があるし、それによって戦争も避けることがでようになるはずだ。戦争も喧嘩と同じで、痛いのはいやだから、誰もしたくはないが、やるからには勝たなければならない。日本人も敗戦の悲惨さは嫌というほど経験したはずだ。

 原爆投下直後の広島に上陸した海軍軍人だった伯父が、宇品から広島駅に向かう途中、あちこちで聞いたという「兵隊さん、仇をとってください。」という言葉は、当時の日本人の心の声だったはずだ。どんな理屈をつけても、国際法違反の民間人大量虐殺という事実は消すことはできないはずだった。しかしそれから70年たち、この大虐殺ですら今の日本では一部の勢力によって政治の道具にされ、「兵隊さん、仇をとってください。」と言った、本当の意味での国民の怒りを消し去ってしまった。これが戦争に負けるということの本当の意味なのかもしれない。

 昔、米軍の記録映画で見た、厚木から東京へ田舎道を移動する米軍輸送車を警備するために立たされたていた、日本の警察官も通りすがりの農民も、みんな輸送車に背を向けて立っていた光景が忘れられない。それを思うと国歌も歌わず、日の丸も掲げず、国のために戦争で亡くなった人たちを犬死といい、国を愛するという言葉すら憚られる今の日本にしたのは、戦後生まれのわしらの世代にも責任はあるとおもっている。たしかに油断していた。日本が戦争に負けたのは8月15日だけではない、それは単に物理的な負けであり、それから70年間、精神的には負け続けているのではないだろうか。