無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと7999日 マイナンバーカード

先日、女房の年金請求手続きのため戸籍抄本が必要になった。本籍地は車で30分ほどかかる隣の市なので、ひとっ走り行ってこようかと思ったが、国があれほどマイナカードの利便性を説いていたので、ひょっとすると戸籍関係も便利になっているのではないかと思い市役所に確認したところ、まだコンビニで取れるというようなことにはなってなかった。

ただ謄本は現住所のある市役所でとれるというので、さっそく近所の大型スーパーに併設された市民センターに行って請求した。請求手続きはすぐ終わったがしばらく待つように言われた。話を聞くと請求すれば自動的に送られてくるのではなく、向こうの担当職員の手が空けば手動操作でこちらへ送ってくるというシステムらしい。

15分位待っても送られてこないので担当者が催促の電話をしてくれた。するとそれから5分ほどしてやっと送られてきた。もちろん本籍地まで取りに行くことを考えると遥かに便利にはなっているが、せっかくマイナカードを作ったのだからここらあたりにもワンストップサービスを導入してほしいものだ。

この機会に本籍地を変更しようと思い担当者に聞いてみると、近いうちに本人ならマイナカードを利用してどこからでも戸籍関係の書類が取れるようになるので、今変更してもあまり意味がないと言われた。確かに本籍を変えると運転免許証等も変更しなくてはいけなくなるし面倒くさい。近いうちにそうなるのなら、戸籍謄本が必要になることも当分無いだろうし、本籍地はこのままにしておくことにして市民センターを後にした。

私はマイナカードによって様々な利便性が増していると思っているが、世の中にはそう思っていない人もたくさんいるようだ。一体なにが嫌なのかちょっと考えてみた。

1.誰も持ち歩いていないのは必要ないからだ。

(たいていの人は運転免許証を持っているので、身分証明用にマイナカードを持ち   歩く必要がない。)

2.個人情報満載なのに落としたらどうするんだ。

(マイナカード自体には大した情報ははいっていないし、ICチップが破られるならクレジットカードも全滅だろう。それにクレジットカード落とす心配はしないのだろうか?それだけ情報漏洩が心配なら、まずは個人情報を漏洩して総務省から複数回指導を受けたラインを使うのをやめたらどうだ。これはすぐに実行できる。)

3.口座紐付けすると資産がガラス張りになる

(普通にまじめに暮らしている人は何も困らないしそんな心配はしない。ガラス張り大いに結構。ガラス張りにしてきちんと徴税してほしい。)

4.紙の保険証を残すべきだ

(本来、顔写真もないし本人確認できないようなものが証明書として利用できることが間違っている。不正利用者がいるから赤字が増え、保険料も上がっていくことを考えると、保険証を正しく使っているほとんどの人達にとっては紙の保険証なんぞ一日も早く廃止してもらいたいものだ。)

いろいろあるが、もはや社会のデジタル化は避けて通れない時代になっている。そんな中で社会と個人を結びつける手段としマイナカードの果たす役割は大きいと思っている。

あと8000日 大土岐山(おおときやま)登山

ゴールデンウィーク2日目の28日(日)に友人たちと四国山地にある大土岐山に行ってきた。このグループの登山に参加したのは一昨年の石鎚山、去年の小豆島に続いて三度目になる。今回はいつも車を出してくれる松岡君が行けないので、自力で集合地点の四国中央市まで行かなくてはならない。

四国中央市までは高速を走って1時間ちょっとかかる。朝6時半集合なので朝3時半には起きるつもりで前夜午後7時半頃に就寝した。若い頃ならこれで問題なかったのだが、歳を取ると寝ることも難しくなる。もう朝かと目が覚めて時計をみたらまだ9時半だった。2時間しか寝てないのかとがっかりした。それからはあまり寝たような記憶がない。

6時15分には脇君の子供服店の駐車場に4名全員が集合し、リーダー藤原君の車に乗り換えて出発した。登山口へ向かう道は想像していた以上のクネクネ道で、さらに最後の林道は未舗装でかなり揺れた。車高の高いSUVだったから4人乗って走れたのかもしれない。

そんなことを話しながら登山口で準備をしていると後ろで車の音がした。やって来たのは軽トラだった。降りてきたのは昭和21年生まれだという2人連れだ。100名山全部登ったという山のベテランの二人は、今朝私と同じ松山市から、一般道で寒風山トンネルを経由してここまでやってきたというから、かなり元気な人たちだった。さらにあの林道を走って来たのが軽トラだったことには驚いた。SUVなんかいらないという軽トラ最強説は本当だった。

大土岐山は標高1300M程とはいえ登山道が整備されてないので、有名な山や百名山の山なんかより危ないと脇君が話していたが、登り始めてその意味がよく分かった。濡れた苔がよく滑るので転倒したら岩で頭を打って一巻の終わりになりそうだ。バランスを崩すと川に落ちそうになるしルートも何回も間違えた。登山道をすたすた歩くのと違って、敏捷性、柔軟性、バランス感覚が衰えている老人には確かに危ない。

この急登を20分ほど登れば尾根に出るという地点で、最後尾を歩いていた矢野君がもう歩けないから先に行ってくれと言い出した。当日は気温が25度を超えてかなり暑かったから、おそらく熱中症だろうということですぐに休憩にした。タオルを川の水で濡らして、首筋やわきの下を冷やしながら30分くらい休んでいると、少し回復してきたと言うので直ちに下山することにした。

矢野君が早めに不調を訴えてくれたからよかったが、これが少し無理をして急登の途中で倒れたりしたらどうしようもなかった。ユーチューブで見ている山の遭難の動画でも、他の参加者に遠慮して不調を言い出せず、結局全員の足を引っ張ることになるという事例が紹介されている。山では無理は禁物で、山は登頂することよりも、全員無事下山することが大切だという、脇君の言葉に妙に納得した今回の登山だった。

あと8006日 アンガーコントロール

社会の中で生きていく限り、人同士の争いが無くなることはないが、逆にそれがあるから社会に活力が生まれるといえるのかもしれない。とはいえ、腹が立つことは楽しいことではないし、腹を立てたところで何も解決しないということはよくわかっていても、腹を立てずにはいられないというジレンマが存在する。

先日とある福祉関係の行事の中で、そのひとつとして行われたお茶会の手伝いにボランティアで参加した。お茶会といったところで地区の老人クラブのやっているもので、それほど大したものではない。

私は入口のところで入場者の案内をやっていたのだが、なんとお茶クラブの会員の老女に説教されてしまった。次の入場者を待つ間、茶会の会場が見えるところに立ってるのがしきたりに違反しているということらしい。人がお茶を飲むところを見てはいけない。お茶会とはそういうもので、会場から出て廊下で終わるのを待つようにするべきだと結構強く言われた。

小さな福祉関係の行事のそのまた一部として行われている、たかが老人クラブのお茶会で、しかも部外者ではなくボランティアで手伝いをしてくれている人に対して言う言葉ではないだろうと、これにはちょっと驚いた。私自身50年前に裏千家を習ったことはあるが、残念ながら老女の言うことが本当かどうか判断するだけの知識もないので、納得はできないがまあそんなこともあるのかなとハイハイと素直に従って廊下に出た。

腹がたたなかったかというと、やはり多少は腹がたった。10年前なら逆に問い詰めていたかもしれない。そして少しはスカッとしたかもしれない。しかしそんなことは一瞬ことで少し冷静になると必ず嫌悪感が襲ってくることは嫌と言うほどわかっている。

人に対して怒りを発散した後に沸き起こる自己嫌悪を何とかしたいと、定年後アンガーコントロールを考えるようになり、自分なりにいろいろためしてきた。そして気が付いたことは以下の2点だった。

1.絶対にすぐに反応しないこと

2.必ず肯定からはいること

この2点を実行することでその場での怒りはある程度コントロールできるようになった。それでも怒りの感情は繰り返し繰り返しやってくる。1回目より2回目の方が、2回目より3回目の方がより増幅されることもある。ただ最初の怒りをコントロールできればあとの怒りは他者とではなく自分との対話になる。自己嫌悪とは他者との関係において生ずるもので、自分との対話では発生しない。納得のいくまで対話すればいいことだ。

ちなみに今回の件についてお茶歴の長い女房に聞いてみた。女房も当日お茶を飲みに来て現場の状況もよくわかっている。「お茶会でお茶を飲んでいる人を見てはいけないとかいうことは聞いたことがない。」と言う返事だった。

そして怒りがコントロールされた後に大切なことは、もう二度と関わらないということで、私もお茶会も含めてこれらの行事に参加することは二度とないだろう。

あと8030日 カティーサークの思い出

この2月から夕食後自室で一人でウィスキーを飲むようになった。この歳になるまでウィスキーがうまいと思ったことはなかったが、なかなかどうしてその旨さに引き込まれてしまった。かなり前に女房の実家でもらった、半分ほど残っているオールドパーから飲み始めたが、古いウィスキーを飲んでいいのかどうか多少不安があったのでネットで調べてみると、ウィスキーには食品衛生法上の賞味期限と言うものはないらしい。飲んでみて旨ければOKと言うことだろうと理解した。

これを一週間ほどで飲み干して、外国航路の機関長をやっていた友人から貰ったシーバスリーガル12を開封した。ちびりちびりと飲むだけでそんなに量を飲むわけではないが、毎晩飲んでいると夕食時に晩酌を楽しんでいた父親の気持ちがなんとなくわかるような気がしてくる。これもそろそろ無くなりそうなので、昼過ぎにチョコザップからの帰りに酒屋に寄ってカティーサークを買った。

これには50年前にニューヨークのバーで飲んだ思い出があった。機関当直の相方だった操機手の菊池さんと二人で通船で上陸し、地下鉄でマジソンスクウェアガーデンまで行った。当時の地下鉄は物騒だと聞いていたのでおっかなびっくりだったが、乗ってみればそれほどでもなく難なく目的地に着くことができた。

それからのことはよく覚えてないが、大きなビルにあった雑貨店に入り日本円で5万円程したパーカーの万年筆を購入した。小便をしたくなって店員にトイレの場所を聞くと、店の奥から鍵束を持って連れて行ってくれた。そしてトイレの鍵を開けて出てくるまで前で待っていて、終わるとまた鍵をかけた。そこまでやるのかと驚いた。

それからぶらぶら歩いていると、敷居の高そうなポルノショップの隣に、中が見える入りやすそうなバーがあり、ちょっと一杯飲んでいこうかと二人で入った。長いカウンターがあって中にバーテンダーがいるという西部劇なんかでよく見る形式で、テーブル席には客がいたがカウンターには誰もいなかった。座るとバーテンダーがやって来て注文を聞いたが、さて何を注文したらいいのかさっぱりわからない。菊池さんをみると棚に並んだ瓶をしばらく眺めたあとで一言「CUTTY SARK」と言った。

菊池さんは私より5歳くらい年長で、体も大きくいい声をしていた。この時の「CUTTY SARK」は今でも耳に残っている。その声に救われた思いがした。ショットグラスにつがれたストレートのカティーサークをどのように飲んだのかはよく覚えてない。

昼間買ったカティーサークを、時間をかけて少しずつ飲んでいるとウィスキーの香りとともに当時のことがいろいろ思い出されてくる。一度川越に住んでいた菊池さんの家にお邪魔したことがあった。買ったばかりの愛車「いすゞ117クーペ」で川越市駅まで迎えに来てくれた。Winstonのヘビースモーカーだったから元気でいるのだろうかと気にはなるが、今となっては探すすべはない。今後カティーサークを飲むたびに思い出すことになるだろうから、忘れることはないだろう。

あと8031日 嘔吐下痢症顛末記

あの新型コロナにも罹らなかったのに、春分の日に遊びに来た4歳の孫のH君の嘔吐下痢にはいとも簡単にやられてしまった。コロナ収束とともに警戒心が緩んでいたのかもしれない。H君の長いトイレに、腹の調子が悪いのかなとは思ったが、本当はその時に次に起こるかもしれない現象に気づくべきだった。

ようやくトイレから出たH君は、ソファに座った途端に口と鼻から昼食べたものをすべて、カーペットとソファの上にぶちまけた。これは嘔吐下痢症間違いないと気が付いた。その時すぐにマスクと手袋をすればよかったんだが、そんなことはすっかり忘れていた。これがコロナだったらもっと緊張したはずだ。

近所のドラッグストアで買ってきたハイターを希釈して消毒液を作り、床やトイレやH君の触れたところを拭いて回った。カーペットは女房と二人で担いで車庫に広げ、水で洗い流した。その後消毒液を吐瀉物のあった部分にかけて、もう一度水で洗い流した。これを3回ほど繰り返した。

それを干そうとしたが水を吸い込んだカーペットは重くて持ち上がらない。二人でずるずると引きずって塀の上にかけ、そのままにして乾くのを待つことにした。これで一連の作業はひとまず終了した。これで終わればめでたしめでたしだったのだが、そうは問屋が卸さなかった。

それから約48時間後の22日のことだった。夕食がすんで椅子から立ち上がろうとしたとき、突然得体のしれない倦怠感を感じてそのまま傍のソファに座り込んでしまった。独居高齢者宅の点灯確認に回らなければいけないのに、立ち上がる気力もわかない。嘔吐下痢症の潜伏期が1~2日だからウィルス感染間違いなしだが、こんなに突然やって来るものなのかとちょっと驚いた。

これからのち約72時間寝込むことになるが、病気で寝込むのは仕事を辞めた64歳の時のインフルエンザ以来だった。コロナに感染しなかったことでウィルスの脅威をなめていた。当のH君は2日後には遊びに来るというので親に様子を聞くと、まだ下痢は残っているので便にウィルスがでるが、それを気をつければ問題ないとのことだった。

こちらはまだ起きられないのに、子供の回復は早い。問題ないと言われても、来てほしくはないが、かといって来るなとも言えないし、これには弱った。そうこうしているうちに当日となったが、幸いにもその日が大雨で遊びに来る話は取りやめとなった。この時ばかりは本当にほっとして雨に感謝した。

あと8033日 スズメの死んだ瞬間

死の瞬間は生き物には必ずやってくるもので、生きとし生けるものは誰もそれをさけることはできない。しかしその瞬間に立ち会う機会は、医者でもなければそうそう多くはない。私自身生きてきた72年間で、実際に死の瞬間を見たのは父と犬の小太郎の2回しかなかった。

人の死の場合、死んだあとは看護師や葬儀屋の皆さんがやってくれるので、遺体に触れることはないのでわからなかったが、死んだら体がどのようになるのかということを実感したのは小太郎の時だった。

息を引き取った小太郎を抱き上げた時、その温かく柔らかく脱力した体が私の腕の中に安心しきったようにもたれかかり、「小太郎」と呼んだらまた息をしだすのではないかと思わずにはいられなかった。

先日、ヤマト運輸の配達員が持ってきた荷物を受け取っているときに空から何かが降って来た。驚いて足元を見るとスズメが一羽落ちている。すぐ上の電線から落ちてきたようだが、ほんの1秒か2秒前まで生きて電線にとまっていたと思うと不思議な気がした。

鳥インフルエンザ感染の可能性もあるのでちょっとためらったが、しゃがんで顔を近づけてよく見ると、片眼をうっすらと開けてまるでこちらを見ているようだ。そっとつまんで掌に載せた。羽もきれいで老齢のようにもみえない。ぴくりとも動かないのでん死でいるのは間違いないが、体はまだ温かく柔らかく脱力して、まるで生きているようだ。

ゆすったら目を覚まして飛んでいきそうだ。ひょっとしたら目を覚ますかもしれない。そんなことを考えながらしばらく眺めているうちに、最後に小太郎を抱き上げた時の感覚と、その時のどうしようもない悲しさが蘇ってきた。

するとそれまで何の関係も無かったはずの、掌に横たわっている失われた小さな命が急に愛おしく感じられた。スズメとはいえ、生まれて一生懸命生きて死んでいくことに変わりはない。うちの家の前で死んだのも何かの縁に違いない。猫に食べられることが無いよう袋に入れて硬直するのを確認して処理をしておいた。

一度感情移入を許すと死はいつも悲しくなる。

あと8061日 夕日に染まる瀬戸内海

2日に一回チョコザップで運動をして、それ以外の日は城山に登って夕日の写真を撮るか、或いは天神山に登っていたが、天神山方面は頻繁にイノシシと出会うようになりしばらく休んでいる。せっかくダニ対策として長靴を購入したのに残念だが仕方がない。去年と一昨年は一度も出会ったことはなかったので、勝手に夜行性だと思って安心していたが昼も活動するようだ。

昨日2024/2/27で277回登った城山は賤ケ岳7本槍のひとり加藤嘉明が築城したもので重要文化財になっている。70年間当たり前の光景としてこの城を見上げてきたが、大人になって他の町を見るようになると、古い城をもった城下町としてのすばらしさに改めて気が付くようになった。

姫路城、和歌山城と並んで日本三大連立式平山城に選ばれている松山城は海抜120mの山頂にあって、そこから眺める瀬戸内海に沈む夕日の写真を撮っている。2022年6月7日から始まった写真撮影だが、2022年11月25日、86回目の登山の時に海を黄金色に、空を赤く染めてこの世の物とは思えない光景が出現したことが一度だけあった。その時の一枚をこのブログに使っている。その後、昨日までに191回登っているがその光景に出会ったことはない。

多島海と言えば松尾芭蕉も憧れた東北の松島が有名だ。私も10年ほど前に尋ねたことがあるが箱庭のような美しさがあった。しかし瀬戸内の多島海は松島とはスケールが違う。船でどこまで走っても周囲に島影が見える光景を外国人が見たら、海ではなく河だと感じるのではないだろうか。半世紀前にカルカッタへと遡ったインドのガンジス川下流とスケール的には変わらないような気がしている。

山頂でベンチに座ってそんなようなことを考えながら、猫の島で有名になった青島やその先にある九州国東半島、周防大島を赤く染めながら沈んでゆく夕日をぼんやりと眺めていると、城下町は大きく変わってしまったが、海も島も夕日も400年前に加藤嘉明が眺めたのと同じものを、今を生きる我々もゆったりと眺めていることができるということがほんとうに有難く思えてくる。

夕焼けは懐かしき色瀬戸の海