無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8062日 地震で考えたこと

本日2月26日15時24分頃愛媛県南部を震源とする震度4の地震が発生した。ちょうどその頃チョコザップからの帰りで、中央消防署の前あたりを歩いていた。突然スマホ緊急地震速報が鳴り始めるとともに、近くのスピーカーから緊急放送が流れた。スマホを取り出して確認する時に、正月に見た能登地震で地面が揺れ動くシーンを思い出して一瞬身構えたが、信号機も揺れてないし、立ち止まった人もいない、車も普通に走っている。

こんな空振りもあるのかと思いながら消防署を見ると、5~6人の署員が忙しそうに電話をかけていたから、揺れたことは揺れたんだろうが出動する気配はない。何事も無くて良かったと家に帰ってみて驚いた。女房が言うには2回揺れがあり、1回目は大したことはなかったが、2回目のは以前の芸予地震とかわらないくらい大きな揺れで、勝手口や窓を開けて3回目に備えていた。

自分の部屋がどうなっているのか確認に行ってみると、積んであった本が散乱していたし、鴨居に置いてあったものが落ちていたからかなり揺れたのかもしれない。地震の揺れは場所によって違うとはいえ、これほどだとは思わなかった。余震があるのかと心配していたが今のところその兆候はないようなのでほっとしている。

我が家は構造計算をして建てられているので一度の地震で倒壊することはないだろう。また、この地区の指定避難先の中学校には緊急用の水源も確保されているので、圧死や焼死を免れて命があればなんとかなりそうだ。

しかし自分自身は全く揺れを感じなかったので完全に忘れていたが、もし能登のような地震だったとしたら、地域の高齢者障碍者の避難誘導に関する民生委員のマニュアルを実行することになるが、何もできそうにないということに気が付いてぞっとした。東日本大震災では避難誘導にあたった民生委員が逃げ遅れて亡くなるということがあり、それが原因でまずは自分の安全確保が第一と改められたが、そうは言っても大地震がきたらどうするのか悩ましいところだ。

何と言っても一番の問題は瀬戸内に面して、温暖風光明媚で災害の少ないこの地方に住む人の危機感の無さであることは間違いない。民生委員も含めて役人も南海地震がいつかは来るとは思っていてもそれに対して具体的に訓練をするということはしない。文書にあれこれしなければならないことを書いていたとしても、実際に人が動いて確認しなければ緊急時に対応することはできないだろう。

昔海自関係者から聞いた話だが、海上自衛隊ヘリの乗員は、夜間墜落して水中で機体が逆さまになっても脱出できるように、それと同じ状況を作って訓練をしている。だからどんな状況でも乗組員は脱出できるが、たまたま乗っていたお客さんは気の毒だが逃げられないだろう。緊急時に役立つのは頭ではなく体がお覚えていることだけだ。というような話だった。

自衛隊ほどではないにしても、民間でも緊急時に何かやらなければならないとしたら、平時にせめて一度くらいは実際にやってみておかないと、あれこれマニュアルを作成しても絵に描いた餅となってしまうだろう。

あと8063日 スマホ機種変更

最近スマホの動きが悪くなりイライラすることが多くなったので、ここらで機種変更をしてみようかと思い立ち、どれにしようかといろいろ検討してみた。スマホに10万もかけるだけの財力が無いのは勿論だが、自分の使い方だとそれほどいいものは必要ないということはよくわかっている。

今利用しているMVNO日本通信「合理的シンプル290プラン」というやつで、最大1GBとなっているが契約以来一度もそれを超えたことがない。なんと先月なんかは150MBだった。通話はViver、Signalで済ませているし、固定電話にかけるときはBrastelを使っているから、日本通信には毎月293円しか払ったことがない。

本当に毎月293円しか払わないような貧乏人を相手にしていて商売になるのだろうか?と明細メールが来るたびに考えてしまう。株価は211円、無配当で昨今のフィーバーも蚊帳の外。それでも平均年収が39.2歳6,980千円となっているから特に低いというわけでもない。慈善事業ではないので勝算はあるのだろうから、住民税均等割り世帯の食うや食わずの年金生活者が心配することもあるまい。

そんなに使わないのならスマホなんか持つことないだろうとよく言われるが、それはまた少し話が違う。第一スマホが無ければチョコザップも利用できないし、銀行も証券もアマゾンヨドバシ、スシロー予約......すでにスマホなしでは生活できなくなってきている。とにかく便利なものであることは間違いない。

さて機種変更しようと実際に探してみると、日本企業だったarrowsもレノボ傘下になったようで日本企業としてはソニーしかないという状況には驚いた。そこでエクスペリアに絞ってムスビーで2万円以下の新品を探してみると、18800円でACE3というのが見つかった。スペック的にも今のような使い方なら問題ないようなので注文したが、まことに寂しい限りだ。日本企業にも頑張ってもらいたいものだ。

あと8090日 イノシシ現る

一昨年の5月に続いて、去年の3月にマダニに咬まれて以来、千秋寺山登山はやめにして電動アシスト自転車を乗り回したり、城山に登ったりしていたがやっぱり自然の中で里山登山もしてみたいと思うようになった。

ダニに咬まれるのはこりごりなのでいろいろ調べてみたら、ダニ対策としては長靴がいいという記事を見つけた。すぐにネットで長靴を探してみたが、やはり靴は履いてみないとわからない。近所のホームセンターに行って1980円のを購入した。

その日にさっそくその長靴を履いて千秋寺山に登ってみると、ちょっと格好悪いとはいえ、これがなかなか具合がいい。滑らないし、砂も入らない、地面が濡れていても大丈夫。ダニ除けスプレーを吹きかけておけば完ぺきではないか。これでマダニは大丈夫と安心した。

今日もチョコザップで午前中1時間ほど運動した後、長靴を履いて山に向かった。天気も快晴で気温も11度あり気持ちよかった。千秋寺山頂上から天神山に向かう山道を赤木圭一郎三橋美智也三波春夫島倉千代子などの歌を大音量で聞きながら、鼻歌交じりに歩いていると、すぐ横の藪の中でガサガサ音がした。

一瞬立ち止まったが鳥でもいるのかと気にもせずに2,3歩進んだ時だった。真っ黒な山のような物体が藪から飛び出してきて山道を横切って反対側の藪の中に飛び込んだ。これにはビビった。どう見てもまるまると太った子牛ほどもあるでっかいイノシシだ。こんなにでかいイノシシを見たのは初めてだった。

もともとイノシシがいることは知っていたので、驚きはしたがまあ行ってしまえば大丈夫だろうと5mほど歩いた時、再び左の藪の中でガサガサ音がしたかと思うと、今度は小さな瓜坊が飛び出してきてさっきのイノシシの後を追っていった。親子で餌を探していたのだろう。

親が子を残して自分だけ逃げるとは考えられないので、先に走っていった親のイノシシはどこかでこちらを見ていたに違いない。子連れの熊は危ないと言われるように子連れのイノシシも危ないのではないかと急に心配になって来た。イノシシが襲ってきてもトレッキングポールがあれば戦えるだろうなどと安易に考えていたが、実際に目の前で見ると、あの質量の物体が突進してきたら何の役にも立たないだろう。

去年出会ったタヌキは丸い目をしてかわいかったが、イノシシは目を合わしたいとも思わない。くわばらくわばら、踵を返して大急ぎで下山した。

家に帰って調べてみると、対策としては本来イノシシは臆病な動物で、自分や子供を脅威から守るために襲ってくるので、脅威を与えないように、先にこちらの存在を教えるというのが有効らしい。今回は大音量の赤木圭一郎の「霧笛が俺を呼んでいる」がその役目を果たしたということだろうか。

初めての経験でかなりビビったが、これに懲りずこれからも山歩きを楽しみたい。

あと8092日 芝不器男の俳句

去年の年末に部屋の掃除をしていて、そこの置いてある小さな額に気が付いた。少なくとも20年以上は前からそこのあったので、気が付いたというのは正しくない。額の中身に気が付いたというべきだろう。

これは両親が元気なころ、芝不器男記念館に行った時に購入したものだ。馬車の切り絵の横に「桑の実や馬車の通ひ路ゆきしかば」という俳句が書かれている。芝不器男は明治36年に愛媛県松野町で生まれ26歳で夭折した俳人で、たった6年の間に多くの俳句を残している。

今まで何の気なしに見ていたこの額だったが、改めてその中に掲げられている俳句を見た時、その素直で純粋な表現に驚いたとともに、どのような境遇にあればこんな俳句ができるのかと、この芝不器男という人物に興味を覚えた。

昭和5年に亡くなっているので、愛媛県でも虚子、東洋城、山頭火、極堂、波郷などのように話題になることは少ない。長生きすればもっと多くの人に知られて、大きな影響を与えることができたのではないかと残念に思う。

麦車馬におくれて動き出づ

あなたなる夜雨の葛のあなたかな

うちまもる母のまろ寝や法師蝉

風立ちて星消え失せし枯木かな

椿落ちて色うしなひぬたちどころ

うまや路や松のはろかに狂ひ凧

谷水を撒きてしづむるどんどかな

芝不器雄の俳句を上に挙げたが、一見なんの衒いも無く当たり前の風景を当たり前によんでいて、その情景がすぐに浮かんでくるようだ。たしかに読む人にそのように思わせるが、少しでも作句の経験があれば、逆にこの情景からこの俳句を生み出すことの難しさがよくわかると思う。

たった6年でこれだけの俳句を生み出すということは、俳句は師匠から学んでうまくなるのではなくて、うまい人は初めからうまいのだと言わざるを得ない。つまり、座の文芸である俳句の結社では、学ぶのは師匠の俳句に対する考え方やその生き方であって、こまかな言葉選びや添削ではない。うまいも下手も師匠に共鳴する人たちが集まり、めいめいが自分の俳句を楽しめるのが句会の醍醐味でもある。

俳句とは、一瞬見た情景を切字を響かせつつ季節の中に取り込むという行為だと思っている。切字は俳句にとっては重要な要素で、これをないがしろにするのは俳句とは言えない。石田波郷が「霜柱 俳句は切字 響きけり」と言う俳句を残しているが、まさにその通りだ。興味があればお笑い芸人がやっている俳句番組をみて、そこで褒められている俳句がどんなものか一度見てみるのもいいだろう。

あと8092日 能登の思い出

元日午前零時過ぎに新年の祝詞をあげて今年も始まった。今年は全員の日程が合わず蟹パーティーが6日になったので静かな元旦になるかと思っていたら、子供や孫の13人がやってきてにぎやかにおせちを食べた。そんな時に起こったのが能登地震だった。

最初珠洲市のカメラ映像が映っていたが、その時はかなり揺れてはいたが普段見る地震映像とあまり変わらなかった。それで収まるのかと思っていたらもう一度大きく揺れて今度はあちこちで家屋が倒壊した砂煙が上がり始めた。それに続く津波警報でこれは大変なことになった感じた。その時なぜか昭和47年、20歳の夏に友人と3人で回った能登半島の美しい風景が頭に浮かんできた。

当時は半島ブームといわれ、能登半島も一人旅の女性に人気があったらしいが、我々は別にそれが目的で行ったのではない.......ような気がしている。その頃の能登半島はとにかく道が悪く、当然車にエアコンなんか無いので、窓を開けて砂埃にまみれながら人も車もあえぎあえぎ走った。しかし地震のニュース映像をみると、この50年で道路事情はかなり良くなっているようだ。

能登では穴水のユースホステルで一泊した。今のような携帯電話が無い時代は直接行って確認するしかない。他に行くところがないので何とか頼み込んで泊めてもらった。くたくたに疲れていたのですぐに寝たいのに、ミーティングに出て一緒にゲームをするように言われたのにはまいった。客を客とも思わないこのようなシステムの施設が今でもあるのだろうか。

翌日は今回の地震で被害を受けたあの見附島に渡った。残念なことに、まさに船体を思わせるような切り立った崖は大きく崩れてしまったようだ。元の形に復旧することは困難だろうし、そんなことをすれば人工物になってしまう。形あるものはいつかは壊れる。あるがままの姿で残していくのが一番だろう。

珠洲という字は当然読めなかった。たしか珠洲から海岸を通って能登半島先端の禄剛崎へは行けないと言われ、山を越えて半島の西海岸から向かったように記憶している。当日は快晴できれいな日本海が広がっていた。この3カ月後には練習船北斗丸からこの禄剛崎灯台を見て七尾湾に停泊することになろうとは夢にも思わなかった。

輪島へ向かう国道を走っていると「時国家」という大きな看板が目に入った。田んぼの中の細い道の先の山際にあったが、当時はそれが何か全く知らなかった。吉川英治の新平家物語でも読んでいればもっと価値が分かったんだろうが、若いだけが取り柄の当時の我々には猫に小判だった。ここも古い建物だったが地震でどうなったのか気になっている。

たしか時国家を出たあたりだったはずだ。砂埃をまき散らしながら国道を走っているとヒッチハイクをしている2人の若い女性に出会った。乗せてあげたいが、定員オーバーとなり、すでに大人3人で悲鳴を上げている2サイクル360ccの軽自動車では無理なので手を振ってそのまま走り去った。輪島では車を停めて朝市通りも歩いたような気がするが、小さな漁村と言う感じでさびれた印象だけが残っている。

長野から能登を巡る旅の始まりだった小淵沢までどうやって行ったのかも、友人とどこで落ち合ったのかも、細かいことはすっかり忘れてしまった。その後小海線に乗り換え、美しの森、松原湖、菅平でテント泊しながら長野の知人宅に向かった。今から思えば本当に行き当たりばったりの危なっかしい旅だったが、国語の授業で暗記させられた島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」に描かれた信州に行ってみたかった。

当時は席上過程がほぼ終了し、夏休みが終われば1年間の航海実習にはいるという希望に満ちた時期でもあり、ある意味二度とかえらぬ人生における一つのピークでもあった。あれから50年が過ぎ、一緒に旅をした3人のうち一人は既に亡くなり、残った二人も年老いた。能登地震からこの旅を思い出してつくづく思うのは、老いていくのも悪くはないが、若いということにはとうてい及ばないということだ。

あの頃の夏の光の中で輝いていた能登を思い出しながら、被害に遭われた能登の人達が安心して暮らせる日が一日も早く来ることを願わずにはいられない。

あと8121日 有事の異才とは

「木村君の兵学校時代の成績と言うものは120人中どんじりから数えて10番目ぐらいだったろう。若い時分は、思慮の浅さから大した男ではあるまいとたかをくくってつきあっていた傾きがあった。その真価というか、かれという人間の本当のえらさがしみじみとわかってきたのはずっとあとになってからである。」

これは文芸春秋(昭和46年11月号)に掲載された「奇蹟を実現したヒゲの提督」という記事のなかで連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介が、キスカ島撤退の指揮を執った兵学校同期の第一水雷戦隊司令官木村昌福少将について語っていたことだ。

華々しい出世を遂げた草鹿が、海軍大学どころか水雷屋でありながらノーマークで、船乗り一筋だった木村など眼中になかったということは間違いないだろう。大東亜戦争さえなければそれで終わった話だった。軍人にとって仕事ができるということは理屈をいうことではないはずだが、自衛隊でも同じだろうが、平時の軍隊は巨大な官僚組織であってハンモックナンバーですべてが決まった。

そういう社会で、仕事ができると言われて出世してきた草鹿が、軍人本来の仕事をしなければならなくなった時、それまで歯牙にもかけてなかった木村が有能で仕事ができる男だったと気が付いたいう事実は、多くのことを示唆しているような気がする。

一体学校の成績とは何なのか?一つの尺度には違いないが、それなら背が高い足が速い家が金持ち、男前、それどころかみんなでじゃんけんも一つの尺度にならないか。学校の成績といったところで、及第点さえとっていれば100点も90点も80点も、社会に出れば違いはない。どうしても順番を付けたいのなら、あみだくじで決めても何の不都合も生じないような気がしている。

最近クイズやドラマなどでも頭脳明晰の代名詞としてやたら東大がもてはやされているが、確かに学校の成績が抜群だったことは間違いないとしても、東大出が幅を利かす政治経済のグダグダぶりをみていると、とても学校の成績と仕事の成果に相関関係があるようには思えない。戦後70年間相関関係があるように錯覚していたのは、それが草鹿龍之介が出世した時代、大東亜戦争前のような平時であったからではないだろうか。

今や世界は予知不可能な、混沌とした今まで誰も経験したことがなかったような、前例が通用しない状況になりつつある。そんな中で必要とされている人物とは草鹿龍之介のような平時の秀才ではない。国会議員の中にも役人の中にもは綺羅星のごとく存在する平時の秀才ではなく、木村昌福のような、どんな不可能と思える困難な仕事であっても、やらなければならないとなったら命を懸けて成し遂げる人物ではないだろうか。

しかし木村昌福が有事の異才だとしても、出番がなければ何もできない。議院内閣制ではそれを抜擢する能力を持つ人がいなければならない。支持率のとおりで、岸田首相には国家を導いていく能力がないことはほとんどの国民はわかっている。一日も早く解散総選挙をして、まさに木村昌福のような人物が現れることを希望してやまない。

さて、せまる増税、物価上昇、中東騒乱、台湾問題、蹴散らせLGBT、さて来年もどうなりますことやら。

来る令和6年が皆様にとってより良き年となりますようお祈り申し上げます。

1年ありがとうございました。

あと8128日 なが~い航海(超勤記録簿)

ハマスの攻撃に対するイスラエルの反撃もエスカレートする一方だが、今度はイエメンのフーシとかいう組織が紅海を航行中の日本郵船が運行する貨物船を拿捕しただけでなく、今後航行中の船をミサイル攻撃するなどと言い出した。そこで大手船会社がスエズ運河を通らない喜望峰周りに変更することも検討中と発表した。

これをネットで知った時のデジャブ感はなんと言ったらいいのか、懐かしいと言ったらいいのか、やれやれと言ったらいいのか、 船乗りをやめる引き金の一つになったあの昭和48年の片道30日のなが~い航海を思い出した。

昭和48年10月6日、今年の10月6日で開戦50年となったあの第4次中東戦争が勃発してスエズ運河が通れなくなり、はるばるアフリカ南端喜望峰を回ってニューヨーク~カーグ島間の原油輸送に従事した。燃料節約のための経済速度で時速10ノット(約18km/h)くらいの自転車より遅いノロノロ運転が延々と続いた。

まさにその航海真っ最中の昭和49年12月の超勤記録簿がでてきた。

12月1日(日) カーゴポンプテスト 航海直

   5日(木) 入港シフトS/B (パースアンボイ入港)

   7日(土) シフトS/B (マンハッタン沖へ移動)

   8日(日) 出航S/B 航海直 (ニューヨーク出航)

   9日(月) 主コンデンサー掃除

  11日(水) ボート操練(エンジンテスト)

  12日(木) 補機グリースアップ

  18日(水) デ・スーパーフランジ修理 ボート操練(エンジンテスト)

  22日(日) ケープタウンS/B 航海直

  27日(金) ボート操練(海上に救命艇を降ろして実施)安全委員会

  28日(土) 缶定期ブロー

  29日(日) ピュリファイア掃除 航海直

  31日(火) 航海直

乗船から下船まで毎日8時間、コントロールルームの無いむき出しの機関室での航海当直をした後にやる超勤作業はだるかった。今では機関室内にコントロールルームのない船など存在しないし、機関科の航海当直が廃止されている船も多いので昔ほどではないにしても、大変な仕事であることには変わりはない。私は耐えられなかったが、この瞬間も家族と離れて遠い海上での激務に耐えている船乗りの皆さんには感謝しかない。

機関室の写真はパースアンボイにあった、向こうが霞んで見えるほど広いと言われたTWO GUYというスーパーマーケットで、250ドル当時のレートで約7万円程だして買ったPolaroidカメラで写したもの。下の写真は映画「ある愛の詩」でアリーマッグローが座ったあたりで撮ったもの。さすがエクタクロームだけあって、50年たってもそれほど変色していない。左に写っているのは先輩の岩崎二等機関士で、気風の良い兄貴分だったが、酒はビール以外禁止という非人道的な扱いの中でおこった船内のトラブルが原因で私より先にやめてしまった。その時のおもしろい顛末はまた後日。

機関室

セントラルパーク