無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10481日

 死ぬときはどこで死ぬか、ということは、生きて行く上で、避けて通れない大事なことなんだが、普段は、自分が死ぬということすら忘れているので、どこで?などということもほとんど意識することはないはずだ。わしも同様で、実際に死を身近に感じるまで、真剣に考えたことは無かった。16歳の時に祖父が死んだが、死はまだ遥か向こうにあった。その後伯父が死に、従兄弟が死んだが、まだ遠かった。

 しかし、2005年1月、突然やって来た。肺尖ガン余命3ヶ月と言われたおふくろは、死の影に取り憑かれて、生ける屍のようになって寝込んでしまった。治療方法は無いと言われて、親父もおろおろするだけで役に立たず、そんな中で一番しっかりしていたのは女房だった。今は、桜の花を見る事を目標にしようと言って、家に連れて帰った。わしらも家で最後まで看ようと考えていた。

 4月には4人で近在の桜の名所を回る事も出来た。次は無事に夏を越すことが目標だなと話し合っていたんだが、この頃から周期的に苦しむようになった。苦しみ方が尋常ではなく、看ている女房に殺してくれと頼むくらい凄まじいものだった。在宅医療の医者に連絡しても、すぐに来てもらえるわけではない。黙ってそれを見ているしかない女房は、恐ろしいと言うようになった。他に転移してないし、血液検査も異常なしで、右肺以外これといって悪い所はないんだが、どこからくるのか、あの周期的な苦痛は回数が増えて来た。

 夏が過ぎた頃、4人で話し合った結果、おふくろもあの苦痛からは逃れたいと思ったんだろう、ホスピスに行く事に同意した。「ここで死ぬんじゃな。」最初に言った言葉だった。漠然と死が近い事はわかっていたが、わしはまだ、おふくろがここで死ぬとは思っていなかったので、それを聞いた時はショックだった。本当は家に居たかったということは、わしも女房もよくわかっていたが、形相が変るほどの苦しみを、ただ見ている事は耐えられなかった。おふくろも、医者が近くにいるということで、少しは安心したようでもあった。

 ホスピスには4週間ほど居て亡くなったが、亡くなる前に家に帰った時、家族6人で水炊きをして食べた。その晩、わしがおふくろのベッドの横に、布団を敷いて寝ていたら、夜中にトイレに連れていってほしいと頼まれた。わしは危ないので、側に置いてある簡易トイレを使ってもらった。「そうしようかな。」と言ったが、本当は嫌だったということはわしには判っていた。今から思えば、連れて行ってあげたらよかったと、後悔している。朝起きると元気な頃のように、押し入れを開けて着替えを探していた。起きて朝ご飯の支度でもする気だったんだろう。

 その後数日してホスピスで亡くなったが、あの並んで寝た、家で過ごした最後の晩のことは、忘れることができない。最期は家で看ることができなかったのか、難しいところだ。

あと10482日

 わし等の家族が親と同居をしたのは、長女が小学校2年生、長男が幼稚園年中、二男が2歳の時だった。親が住んでいた家を壊してそこに新築したんだが、それまで住んでいた、土地と家を売ったうえに借金して2所帯住宅を建てた。親の考えでは、本来この土地は兄夫婦のものにする予定だったようだが、こちらに帰ってくる予定も無いし、親もだんだん弱って来て、自信が無くなって来たのか、孫と一緒に住みたいと思うようになったのかわからないが、時々同居の話をするようになった。

 わし等も、子供等が高校生になった時に、毎月何万円もかけて電車通学することを考えると、今のうちに、旧市内にある親の家に移っておくのもいいのかなと、打算的な考えもあった。しかし、わしは同居はできれば避けたい、というのが本音だった。特におふくろは、女房に厳しいところがあり、負担がかかるのではないかと心配した。兄夫婦に対する遠慮もあったんだろう、親も迷っていたようで、なかなか結論が出なかった。

 結局最後は、お互いが元気な間は、なるべく干渉しないということで、上下完全分離の2所帯、トイレ、台所、風呂も全て2つ作るという事で話はすすんだ。その分費用はかかったが、これが正解だった。おふくろが肺がんで寝込むまで十数年間、ほどほどに接触しながらうまくやっていくことができた。孫もたいそうかわいがってもらったし、同居の成功例に入ると思う。

 ただ、わしら夫婦は同居するに当たって、約束した事があった。それは子供の前で親の批判や悪口は絶対言わないということだった。同居していれば、大人同士ではいろいろあるのは仕方が無いが、子供等にそんな情報はいらない。子供等に取っては、いつもやさしい、じいちゃんばあちゃんであって欲しかった。同居することによって、わしらも親父やおふくろに助けてもらったこともあったし、子供等はほんとうにかわいがってくれた。また、子供等もじいちゃんばあちゃんのいうことは何でも聞いて、やさしかった。果たして自分が、孫とあれほど仲のいい関係になれるのかどうか、自信が無いな。

 女房は、ちょっと実家に帰るだけでも嫌みを言われたり、嫌な事もたくさんあったようだが、それを全て受け止めて辛抱していた。そのことはおふくろにもわかっていて、有り難く思っていたんだろう。肺がんになって、何もできなくなった時、死ぬまで、女房を頼り切っていたし、女房も頼ってくれて嬉しいと話していた。本当はお互いよく理解し合っていたのかもしれない。最後は「これからも仲良くしてね。」と言って亡くなった。

あと10483日

 3泊していった長男嫁、孫2人が、昨日家に帰ったので、久し振りに1人で静かな1日を過ごす事ができた。賑やかなのも、それはそれで楽しいんだが、それでもいなくなるとホッとするのも事実だ。これも贅沢な悩みなんだろうな。

 今のわしは、元気でいさえすれば、一応食べる事はできるが、電気ガス税金等必要な生活費を除くと、ほとんど残らない。実質的には生活保護以下の収入で、若い者なら、将来への不安で、とても耐えられないだろう。それは収入面だけではない。定職に就かず、毎日家にいる自分自身対する嫌悪感にも、悩まされることだろう。これは23歳から28歳までのわし自身のことでもある。その不安や、自己嫌悪から逃れたいと思う気持ちが励みにもなり、生きる原動力にもなるんだが、其の時はそこまではわからない。しかし、わしは少なくとも人生を悲観した事はなかった。先は暗黒ではなく、なんとなく明るく見えていた。

 当時、落語家の柳家こさんだったと思うが、どん底のときも、遠くの方が何となく明るく感じていたというようなことを、テレビで話していたのを見たおふくろに、お前はどうなんだと聞かれたことがあった。その時、あらためてわしも人生の広がる果てを眺めてみた。「わしも明るい、心配ないよ。」そこには何の根拠も無いが、2人でそんな会話を交わしたことがあった。2人とも安心したかっただけかもしれない。しかし、この時そんな気がしたのは事実で、その瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。

 人生ほとんど終えて、貧乏にも耐えられるし、今の所健康不安も無い。衣食住に関しては、なんとかやっていける。ではそれで不安が無いかといえば、そんなことはない。息をしている限りそれはどこまでも付いて来るようだ。しかし、不安はあっても、若い時の不安とはまた違って、先が短い分だけコントロールしやすいというのか、明るい不安とでもいうのか、それほど苦にならない。

 死は近い将来やってくるにしても、その時たじろぐ事無く、従容として死を迎える準備ができているかどうかということになると、今の所、自信を持ってイエスということはできない。これが今の最大の不安といえば不安だ。これをコントロールすることさえできれば、昭和26年から始まったこの人生、いつ終わっても悔いは無い。

あと10484日

 来年3月から、長男がうちの近所に異動することが決まったので、子供の幼稚園をこちらで探す事になった。わしらの頃は幼稚園といえば、先生が本を読んでくれたり、絵を描いたり工作をしたりして、別に何か特別な目的を持って行く様なところではなかったような気がするが、最近は違うんだな。近頃、あの将棋の天才、藤井君が習ったと言うモンテッソーリ教育とかいうのが、もてはやされているらしい。まあ、モンテッソーリ教育経験者の中で、藤井君クラスの天才が、各分野に何十人もでているのならともかく、藤井君の例だけで、『藤井君は将棋の天才』『彼はモンテッソーリ教育を受けていた』『モンテッソーリ教育は天才を育てる』とはならないだろうが、良い宣伝にはなったようだな。

 昨日今日と、長男の嫁が3つの幼稚園を見学に行ったが、そのうちの1つ、S幼稚園がモンテッソーリだった。包丁やまな板、洗濯板、アイロンなんかを使って遊ぶ部屋があって、子供等は楽しそうに遊んでいたけど、実験室みたいな感じで、あまり良い印象は無かったようだった。午後から行ったW幼稚園は、冷房もないし、庭に出て、やりたい事をやって思い切り遊ばせるのが特徴で、子供等は元気いっぱいだったが、一時間見学しているうちに、暑さで嫁の方がめまいがしてきたらしい。口コミによると、W幼稚園の子供は、自由すぎて小学校に上がってから、規則に馴染めないことがあると書かれていたから、自由に遊ばせるといっても程度の問題だろうな。

 こんなことを言っても、誰からも賛同を得られないのはいつもの事で、昨日も晩飯の時に、冷たくあしらわれたが、わしは幼児それぞれの個性を伸ばす教育とか、やりたいことを自由にやらせるとかいう教育は間違いだと考えている。わしは自分が子供のときの感覚を、人以上に覚えているので、その記憶から、『幼児は大人の縮小版ではない。全く別の世界に生きているもので、その行動も衝動によって動かされているのであって、それは大人の世界でいうところの個性なんかではない。』ということを知っている。これは理屈ではない。個性として確立する過程にある幼児の教育とは、その意識を人の社会で生きて行くための、最低限の智慧の鋳型にはめていく作業だと信じている。

あと10485日

 わしが運転免許を取ったのは昭和51年、24歳の時だったから、当時としても遅い方だった。一般的には、学校を卒業して就職する時に取るんだろうが、船乗りとして就職するのには、自動車運転免許ではなく、海技免状を要求されるので、必要性がなかったということもあったんだろう。「昔軍隊、今教習所」とは、昔は若者は徴兵されて軍隊で鍛えられたが、今の若者は軍隊の代わりに、教習所で鍛えられている、というような意味らしいが、当時の新聞紙面で読んだ事があった。

 その言葉が、記事の中で、どんな使われかたをしていたかは、覚えてないが、理不尽な扱いを受けても反抗できない、というような意味もあったのかもしれない。指導員も、今はお客さんとして、随分丁寧な対応をするようだが、当時はそうでもなかった。指導員の質にも、ばらつきがあり、ひどいのもいた。今はどうか知らないが、当時は時間を決めずに、飛び入りで午前1回午後1回乗れるコースがあった。指導員はその度に変るので、しがらみが無くていいんだが、逆に向こうもいいかげんな指導をしていたようだ。

 路上に出る前の検定では、いつもやっていることと同じ事をしたら、それをしてはいけないと言われて、落とされたこともあった。それまでの練習に、6〜7人の指導員が関わっていたが、誰も教えてはくれなかった。また、飛び入りコースの場合、路上検定の前に、一度だけ上級の検定員が確認するシステムだったので、その人を乗せて走った時は、初っ端から驚いていたな。スタートの場所も、走り方も、そもそも路上検定のコースすら知らなかったので、さすがにあきれて、お前は一体何を習ってきたんだと言いながら、過去の記録を確認していた。きちんと指導員の確認印が押されてあり、過程は終了している。

 この検定員はしばらくその記録を見ていて、理解したようだった。並んでいる数人の印鑑を指差しながら「こいつらか!」と舌打ちをした。この人は元陸軍下士官で、軍隊でたたかれながら自動車運転を習ったと話していたが、若い、やる気の無い指導員に普段から腹がたっていたんだろう。「これではいかん。わしが教えるからもう1回初めからやり直すぞ。」と言って、翌日の路上検定のやり方、ポイント等、走りながら丁寧に指導してくれた。おかげで1回で合格したが、それまでの数時間分の路上練習は一体なんだったのか、きちんとした指導員さえいれば、1時間で十分だということかと、さすがに頭に来たな。

 わしは若い頃から、遠慮せずに何でも言う方だったんだが、教習所では、おかしいと思いながらも、唯々諾々と指導員に従っていたということは、あの、「昔軍隊、今教習所」という雰囲気は、確かにあったのかもしれんな。

上級検定員に「こいつらか!」と言われたヒラ指導員達、今ならクビだろうな。

あと10486日

 わしらが中学生高校生位までは、学年全員で歩いて遠足に行くとか、映画を見に行くとかという行事があったが、うちの子供等の頃は既になかったから、25年程前にはもうなかったということなんだろう。わしにとっては、昭和43年に、瀬戸内海の島の学校に入学してすぐに、一年生全員80名ほどが、寮の賄のおばさんが作ってくれた弁当を持って、昼飯をはさんで3時間程、島南部を一回りしたのが最後の記憶だ。

 当時は寮生活が始まったばかりで、上級生もいるし、自由に行動できる範囲も少なかった。一年生だけで、初めて島の中を自由に歩けるというので、わしらは楽しみにしていた。当日天気は晴、島の中学出身のK君とO君の2名が先導となり、担任教官2名に引率されて2列縦隊で寮の門を出た。50m程歩くと、除虫菊の小さな工場があり、季節になると近在の島から除虫菊が送られて来て、蚊取り線香を作っていた。このあたりの島は、昔は除虫菊が栽培が盛んで、定期船から眺めると、島中が真っ白の除虫菊の花で埋め尽くされていた光景が、今でも眼に焼き付いている。

 その角を右に曲がり、○○神社の参道を右に見ながら道なりに100m程行くと、島内に1つだけあった、映画館があった。客席の前半分は畳敷きで、後ろ半分は4人がけの粗末な木の椅子が並んでいた。○○港を過ぎて左に海を見ながら歩いていると、隣の島にあるH造船が見えて来た。その周辺は、新造船や定期点検の船でいつもごった返していた。当時は、それを当然の景色としてみていたが、今とは隔世の感がある。

  1時間程歩くと右に曲がり、島を横断する山越えの道に入った。ひと1人が歩くのがやっとというような山道を、20分ほど歩いて頂上までくると、反対側の海が見えてくる。青いきれいな海だった。こちら側は、遥か沖に主要航路が通っているので、大小さまざまな船が行き交っているのが見える。島影から現れた、速力試験中の新造貨物船が、白い航跡を残して走って行った。

 この時、16歳のわしは、あの「みかんの花咲く丘」を思い出していた。

1)みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道 遥かに見える青い海 お船が遠く霞んでる。

2)黒い煙をはきながら お船はどこに 行くのでしょう 波に揺られて島の影 汽笛がぼうと 鳴りました。

3)いつか来た丘 かあさんと 一緒にながめたあの島よ 今日も1人で見ていると やさしいかあさん 思われる。

16歳で家を出て、おふくろがなつかしかったんだろう。それから40年後、おふくろが亡くなった時も、この歌とこの時のシーンを思い出し、今度は本当に1人になったなあと涙が出てきた。

 学年単位での、歩いて遠足というのはこの時が最後だった。交通事情も変わったし、世の中も、人の考え方も変っていったんだろうな。 

あと10487日

 昼過ぎに二男達と別れて帰途についた。さすがに、昨日に続いて300km運転するのは、考えるだけでもしんどかったが、そうも言ってはおれない。途中で眠たくなってはいかんので、ネットで効果があると言われている「メガシャキ」というドリンクを飲んで出発した。ところが、このようなドリンクはカフェインが強いので、利尿作用が働くのか、頻繁に尿意を催して来て、結局途中5回トイレ休憩したのには、女房も母親も驚いていた。それでも眠たくなる事は無かったから、効果はあったんだろうな。

 夕方6時頃に高速を降りたところで、市内の渋滞に巻き込まれて、女房の母親を家まで送り、預けていた犬を連れて家に着いたのは7時を回っていた。久し振りの長時間高速運転で疲れたが、今回改めて車の便利さに気が付いた。実際和気神社参拝も以前から考えていたが、鉄道やバスを使って行くのは時間も金もかかるので、躊躇していた。しかし今回車を利用すると、驚く程簡単に行く事ができた。鉄道の駅から遠い所にある神社も車なら一日で何カ所かまわることができる。車中泊の旅をもう一度考えてみるかな。