無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10488日

 二男が転職して、中国地方の山の中に住むようになって、ひと月たつので、様子を見に行く事にした。鉄道はないし、バスも不便なので、車で、早朝、片道約300キロ、1泊2日の旅に出た。夫婦で出かけるには犬を預けなければならないんだが、ペットホテルは高いので、ビーグル犬2匹飼っている、女房の弟夫婦に見てもらう事にした。

 ところが、当日それを知った、同居している女房の母親が一緒に行きたい言い出した。わしは、途中、和気清麻呂で知られる、和気神社を参拝してから行く予定だったので、一度は断ったんだが、結局、「泣く子と地頭には勝てぬ」ならぬ「泣く子とばあさんには勝てぬ」とでもいうのか、根負けして連れて行く事になった。

 瀬戸大橋、山陽道和気神社一般国道経由で約7時間かかった。住んでいるのは一応○○市となってはいるが、市とはいっても、空き家、空き店舗も多く、寂れた感じは否めない。中国地方の山の中というので、あの横溝正史の「八つ墓村」の世界を想像してたが、どうもそれとも違って、全国どこにでもある過疎の町の1つという感じで、これといった特徴は感じられなかった。

 久し振りに会った二男は、以前に比べると遥かに元気そうで、血色も良くなっていた。多少給料は下がっても、長時間勤務当たりまえの会社から、超勤無し土日休みの会社に代わって、規則正しい生活ができるようになったのが良かったのかな。頼まれたので、高校時代にやっていたダンベルも持っていってやった。少し体を鍛える余裕もできたんだろう。わしも女房も二男一家3人の様子を知る事ができて、安心できたし、有意義な旅となった。

あと10489日

 大雨特別警報がでていた北九州地方で、多くの河川が氾濫して大変な事になっているようだ。これから復旧が始まるだろうが、時間がかかるだろうなあと考えながら、スマホをONにすると、画面上に若築建設のアラートが出ていた。何事かと思って証券会社をチェックしてみると、九州北部の記録的豪雨からの復旧思惑から、北九州地盤の復旧関連株が買われているらしい。この話を女房にすると、不謹慎だと言ったが、投資家は情け容赦しないからな。株は北朝鮮関連の急落が怖いので、ほとんど処分したんだが、昔は若松築港といっていた若築建設には、海軍帰りの伯父が勤めていたので、昔から馴染みがあったのと、100円代で下値不安がないので残しておいた。

 これはあまり知られていないが、大東亜戦争中も東京株式市場は開かれていて、取引は行われていた。当時の軍人の中にも、株の動静から戦争の行く末を見ていた人もいたようで、誰が書いた本だったか忘れたが、昭和20年になり、敗色濃厚になった株式市場で、平和関連の株の出来高が増えて来たのを見て、戦争に負けても日本は大丈夫だと確信した、というようなことが書かれていた。所詮人間の欲で動く世界ではあるが、使い方によっては、先を見通す眼にもなるということだろう。

 しかし、欲で動く世界は別に株の世界だけではない。それどころか、もしも無欲の世界があるとすれば、そこには何の発展も無いだろう。人間を突き動かす、最大のものは欲であることは間違いないと思う。......とは思うが、その欲をコントロールする智慧が伴わなければ、動物と同じになってしまう。コントロールする智慧とは、人それぞれあるだろうが、わしの場合、一言で言えば、『お天道様に恥ずかしくない生き方をしているか』と自問し続けることだと思っている。

 樂をしたい、お金がほしい、自由になりたい、欲して当たり前のことだ。しかし、実現するためには、様々な過程を踏まなくてはならない。そしてその過程において、コントロールする智慧が働く事ことによって、欲望を断念しなくてはならない場合もあるし、実行したがために、一生後悔し続けることもあるかもしれない。何があっても、自分で作り出して、自分で背負う人生であるとはいえ、すべてOKと言えるためには、それらを計る1つの尺度が欲しいところだ。わしにとって、その尺度こそが、お天道様に恥ずかしくない生き方ができているかどうか、ということになるんだろう。

あと10490日

 親父がうつで家に閉じこもっていた頃、晩ご飯の時間だけは5時半と決まっていたので、女房はそれに合わせて支度をしていた。長女は社会人で帰るのが遅かったし、長男も二男も県外の大学生で、親父に合わせることはできない。女房も、2人で顔を突き合わせて、黙って食べるのはつらいので、わしに早く帰って一緒に食べてほしいと言い出した。

 仕方ないので、わしも終業時間がきたら、すぐに職場を出るようにした。これが1年以上も続いた。しかめっ面で黙って食べている親父に何を話したらいいのか、わしもわからなかった。あれほど楽しく話していた、朝鮮営林署時代の話もしなくなり、たまに話しても、嫌な思い出や、辛かったことばかりで、完全なマイナス思考になっていた。うつになったら、楽しかったことなんかを、真っ先に忘れてしまうものなのかなと、寂しくなってきた。

 10年ちょっと前のことなんだが、あの頃の事は、その多くを忘れてしまった。どういう風に老人ホームの話をもっていったのか.........とにかく、いつまで続くかわからない今の生活は、女房も限界に達していたし、親父には悪いが、わしは、まず守るべきは自分たちの家庭だと信じていたから、おそらくそのことを親父に話したんだろう。内心はどうかわからないが、案外簡単に同意してくれた。後から女房と、親父に老人ホームに行ってもらう以上、わしらも最後まで子供に見てもらおうなどと望むことはできんなと話し合った。

 親父が亡くなって暫くして、女房の父親の法事があった。その時に来ていた女房の叔父は、ボケて寝たきりになった両親を夫婦で20年以上見て来た人で、苦労談を聞かせてくれた。わしが、父親を亡くした事は悲しい事だが、見送る事ができて、ほっとした気がするのも事実だと話した時、その叔父は、それはよくわかると言ってくれて、「親が長生きしてくれたことは、嬉しいけどそれだけじゃない、自分等も夜帰ってきて、オシメの始末をしながら、まだ生きとんのか、いいかげんで死んでくれと思ったことも何回もあった。」と話してくれた。それでも兄弟姉妹の多くが近くに住んでいるので助けにはなったようだ。

 女房も、誰かもう1人、一緒にみてくれる女性がいたら、家でみることはできたと言っている。昔は兄弟も多かったので、人手があったが、うちの場合、兄夫婦は千葉に住んでいるし、仕事をしているから全く戦力にならない。このままでは共倒れになることは明らかだった。おふくろが死んでから5年間、家で、うつの親父をみてくれたことには感謝している。

あと10491日

 去年、時々喘息がでるようになってから飲み始めた、アレルギーの薬が残り少なくなったので、車を片道2時間以上走らせて、長男が勤務している病院まで、健康診断を兼ねて、処方箋をもらいに行ってきた。運の悪い事に、今回は、14年ぶりに県内に上陸した、台風3号と鉢合わせしてしまった。診察が終わって12時前に病院を出たんだが、その頃、その辺りに上陸したようで、空は真っ暗、尋常でない雨風、海岸の道路は波をかぶっていた。

 晴れた日なら青い海が輝いていて、美しい光景が広がっているんだが、今日は、折れて飛んで来た枝や、道路を転がっている養殖用のでっかい浮きなんかを避けながら、高速に乗るまで、緊張した運転を強いられた。運転中によく眠たくなるんだが、今日は寝てる場合じゃなかったな。わしは高速道路を走るのは好きではないので、一般道を走る事が多いんだが、これだけ雨風が強いと、崖崩れや、高波が恐ろしいので、高速で一直線に帰ってきた。途中、車のワイパーが止まりそうになるほどの豪雨が続き、今日ぐらいトンネルが有り難いと思ったことはなかった。

 このあたりの高速道路は2車線の対面交通で、2キロも3キロもある、長いトンネル内を走るのは、普段はちょっと怖いんだが、今日だけはトンネルに入ると生き返った心地がした。車の運転なんか、命をかけてやるようなもんではないな。帰って女房に話すと、そこまでして息子の病院に行かなくても、近所にかかりつけ病院を作っておいた方がいいというんだが、わしは病院嫌いなもんで、今までは、風邪ひき位では病院に行かなかったから、必要性が感じられなかった。それにふざけた開業医も多いからな。

 最近の若い医者は丁寧な人が多いが、年配の開業医には、口の聞き方を知らない、社会性のないのが時々いるので困る。わしの家の近所の○○皮膚科なんか、内科までも標榜して、老人相手に稼いでいるが、その横柄な受け答えに疑問を感じて、というか頭にきたんだが、わしは喧嘩して1回でやめた。親父は我慢して2〜3回は行ったらしいから、年の功で、わしよりは少し怒り耐性があったんだろう。その医院、あれから15年たった今でもやっているから、あの手のタイプが好きな人もいるんだろうな。タデ食う虫も好きずきとはよく言ったもんだ。 

あと10492日 雷撃機出動

 東京に住んでいた31歳の頃のことだが、わしが転職して田舎に帰るというので、職場の先輩の永村さんが送別会代わりに新宿ゴールデン街、銀巴里、銀座のバー「ルパン」等珍しいところにいろいろ連れて行ってくれた。何年も東京に居ても初めての所ばかりだった。最後に連れて行ってくれたのが、たしか西荻窪にあった「馬車屋」という酒場だった。

 永村さんは若いときから軍艦の写真や本を集めるのが趣味で、かなり年期が入っていた。「丸」とか「世界の艦船」の編集関係者ともコネクションがあったようで、案外その方面では有名な人だったのかもしれない。わしはその「馬車屋」についても何も知らずについて行っただけなんだが、そこで思いもかけない人と出会った。

 店に入ると、カウンターで2人の老人が旧海軍軍用機の模型について話していた。わしはテーブルに座って聞くとも無く話を聞いていると、1人は誰でも知っている有名な模型会社の社長で、もう1人の白髪の老人から意見を聞いているようだった。Nさんが「森さん」と声をかけるとその白髪の老人が振り返った。Nさんが「元海軍少尉の森さんです。」とわしに紹介してくれた。先ほどの軍用機の話と、森という名前、それに見た所、隻腕であることからわしはピンと来た。

 「ひょっとして、あの『雷撃機出動』の森拾三さんですか?」と尋ねると、穏やかな声で「そうです。その森です。」と答えた。『雷撃機出動』とは昭和43年に河出書房新社から出た本で、わしも持っていた。まさかあの本の作者に会えるとは夢にも思っていなかった。わしがこの本を覚えていたのは、作者が指揮官個人をひどく批判していたのが印象的だったからだ。恐らく今ならああいう書き方はしないだろう。閉店前で時間もあまり無かったとはいえ、そのことについてだけは聞いてみたかったが、情けない事にそれを切り出すだけの度胸も気力もなかった。

 また来ますと言って店を出たが、すぐに田舎に帰ったこともあって二度と行く事はなかった。大正6年生まれだから当時66歳で、今のわしと同年齢だったことになる。さすがにもう亡くなられているだろうな。

終戦日に森さんを思い出して

 白髪の 少尉凛たり 終戦

あと10493日

 わしが子供の頃、四国から東京へ行くためには、高松まで行って、そこで宇高連絡船に乗り換えて宇野まで行き、宇野港から山陽本線の準急鷲羽で大阪まで行っていた。昭和39年からは新幹線が走っていたから、新大阪で乗り換えてひかりで東京へ向かった。10時間くらいかかっていただろう。わしが20歳すぎた頃には、新幹線が岡山まできたので、約8時間に短縮された。飛行機利用は、まだ贅沢だと思っていた時代だったな。

 昭和50年にTタンカーに就職した時、実家から会社までの運賃が、国鉄利用で計算されていた。わしはそんなこと知らないから、飛行機を利用して、かかった旅費を請求すると、だめだと言われたことがあった。承服できないので、どこなら飛行機代が出るのか聞いたところ、九州、沖縄、北海道だと言われた。じゃあ博多から来るのも飛行機代が出るようだが、新幹線に乗るために、四国の田舎から、単線のディーゼル急行、連絡船、宇野線と乗り継いで岡山へ出るのと、博多から、複線の特急電車一本で岡山まで来るのと、どちらが不便か考えてみてくださいと言うと、あっさりと飛行機代を認めてくれた。案外、この頃には料金は逆転していたのかもしれんな。

 昭和47年当時はまだブルートレイン全盛で、日立造船神奈川工場でドック入りしていた、練習船北斗丸に乗船するため、宇野から東京行きの寝台急行瀬戸に乗って川崎まで行ったことがある。この時初めて、友達と一緒に食堂車に行って、夕食を食べたが、その時初めて飲んだ、トマトジュースがおいしくて、それ以後わしの好物になってしまった。2等車は3段ベッドで狭いし、寝心地は良くなかった。一番長時間乗ったのは、昭和56年に、出張で大村に行く時に乗った、東京長崎間の寝台特急さくらだった。東京を午後5時頃に出て、着いたのが翌日の昼頃だったから、これは退屈したが、帰りは長崎空港から飛行機で帰ったら、あっというまだった。まあ、当然の事ながら、旅行ならいいんだろうが、出張なんかでで利用するものではないと、つくづく実感したな。

 今は無くなったが、本州へ渡る時に必ず利用した、宇高連絡船には、わしらの年代以上の人ならみんな、船上で食べた、讃岐うどんの思い出があるはずだ。寒いときも暑いときも、潮風に吹かれながら食べた、あのうどんはほんとうに旨かった。あんなに旨いうどんは、あれ以来食べたことがない。

 こうして考えてみると、丁度わしらの年代は、日進月歩で新しいものがどんどん出て来て、便利になり、楽しい時代ではあったが、古いものは、惜しげも無く捨てられていった時代でもあった。しかし、それは決して悪い事ではない。若い頃、輝いていた頃の自分が、懐かしいとは思うが、もう一度やりたいとは思わないのと同じことだろう。生きているのは今しか無いんだから、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」ということかな。

あと10494日

 昨日から気温が30度を越えるようになり、また暑い夏がやってきた。無職になって2度目の夏だ。去年は慣れない生活の中、まだ晩飯の支度に右往左往したり、ハローワークに行ったりで、一日の時間の配分もよくわからない、初心者マークの付いた生活だったが、2年目になると少し落ち着いて来た。これなら、あと10494日でもやれそうな気がしてきた。

 しかし、毎日と言わず、その時その時に波があるのは事実で、つまらない、面白い、明るい、暗い、嬉しい、楽しい、悲しい、こんなことの繰り返しだ。これを1人で処理するのは大変な事もあるが、以前に比べるとその振幅は小さくなってきたようだ。ただ、1日家にいるので、忙しさにまぎれて忘れるということはない。押し寄せて来る、意識の変化、感情の変化の波に、とことん向き合わなければ、収まらないというのも、しんどいことだ。

 今朝6時頃だったか、NHKで「あの人に会いたい」という番組をやっていた。出ていたのは臨床心理学の河合隼雄さんだった。ユングの研究でも有名で、わしも何冊か本を持っている。わしは心理学なんていうものの実用性は全く信用してないんだが、この人の話を聞いていて、単純に、この人は信用できそうだと感じた。

 河合さんは、「どうしたらいいですかと聞かれても、私も全くわかりません。ただ、話を聞き、一緒に会話をしているうちに、どうしたらいいか、本人が自分で気がついてくれるんですよ。」と話していた。結論は河合さんではなく、話をする中で、本人が導きだす、つまり『結論はすでに本人が知っているはずだ。』ということになるんだろう。これを聞いて、胸にストンと落ちたような気がした。

 しかし、河合さんは簡単に言っているが、黙って人の話を聞くことは苦行にも似ている。心に引っかかりを持っている人の話は尚更だろう。わしも若い頃から『まず、聞け』とよく言われてきた。人の話をろくに聞かないで、自分の意見で人を変えようと懸命になっていた。その頃なら、河合さんの話を聞いても、胸にストンと落ちることはなかっただろう。しかし、数十年経ち、人の話を聞けない者は、自分と向き合う事もできないし、自分の中の声を聞くことなど、できるはずもないということが、今は少しは理解できるようになった。女房の出勤で早く起こされたおかげで、この番組をみることができた。有意義な朝だった。