無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10899日

 とうとう900代から800代になってしまった。1日が早いな。

 今日は朝から6升ほど精米をしたよ。長女が兼業農家に嫁いでからときどき米をいただけるようになった。この米がとにかくうまいので、こちらとしては有り難い。長男の嫁が置いていった一度に4合できる精米御膳とかいう精米機を使っているがなかなか便利なものだな。近くのホームセンターにいけば100円で一度に一升できる精米機があるが、おかしな事にこれには正確に一升をはかる道具がおいてない。少しでも多いと残ってしまって、しかもそれを持って帰ることができない。残ったぶんを精米するためにはもう一度100円入れなければならないので、なんか損した気分がするんだよな。

 わしが小さいときは近所の米屋のおばさんから米を買っていた。米屋といってもほんとうの米屋ではなく、ヤミ米屋だな。当時は米は配給だったから米穀通帳を持っていかなければ売ってもらえなかった。なぜそこで米を買うようになったかは聞いてないが、たぶん配給米がうまくなかったんだろう。

 そのせいで、わしが16歳で、家をでて学校の寮にはいるようになったとき、米穀通帳を探しまわったことを覚えている。これがなければ寮で飯が食えない。おふくろに、家に置いてないからどこかの米屋に預けてあるにちがいないので、おまえが米屋をまわって探してこいといわれたんだな。わしは「うちの米穀通帳ありませんか。」と、とぼけた質問をして近所の米屋3軒ほどを回ったよ。米屋にしてみたら、じゃあおまえとこはどうやって飯を食っとったんだということになるわけで、今なら恥ずかしくてようきかんな。だからわしに行かしたんだろう。

 むかしおふくろに、親父も農家の二男なので、少しは米をもらった事あるのか聞いた事があるが、一度もないよということだった。世間一般そんなもんかと納得していたが、娘の嫁ぎ先から米をいただくようになって、そういえばあのときのおふくろはあまり楽しそうではなかったなと改めて感じるようになった。当事者はみんな死んでしまったので、むかしのことはわからんが、あまり世間一般的ではなかったのかもしれんな。