無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10427日

 わしが結婚した頃、おふくろが女房の母親に、「あなたが羨ましい、孫の結婚式にも出られるし、ひ孫も見えるかもしれないけれど、私は年齢的に無理だと思う。」というようなことを言っていたらしい。女房の母親はわしと20歳くらいしか違わないから、わしが結婚した頃は50歳代前半だったはずだ。当時おふくろは63歳だったから、若い人がうらやましく思ったんだろう。

 結局、おふくろが死んだ時、長女が大学3年生だったので、ひ孫どころか、結婚式にも間に合わなかったから、その通りの結果になってしまった。目に入れても痛くないというほどかわいがっていて、花嫁姿が見たいといっていたから、本当に無念だったんだろうと思う。死を受け入れられなかった原因の1つは、そんなところにあったのかもしれない。

 しかし、長女のほうは、おふくろが思うほど深くは考えてなかったようで、最後に病室から電話したとき、結婚資金として100万円残してあるから、ばあちゃんが死んだらそれを後からもらうようにと話したら、その100万という金額に驚いたんだろう、電話から漏れてくる声が、周りにいるわしらにも聞こえるほどの大声で、「えっ、100万! ばあちゃん100万なん!」と言っとったな。

 横で聞いていた兄が、「おいおい、あいつは100万円が一番気になっとるようじゃな。」と笑っていたが、親や祖父母の有り難さは自分が家族を持って初めてわかるもので、おふくろがどんな思いで孫を見ていたかなどということは、あの頃はまだ理解できてなかったんだろう。

 年齢順といえばその通りだが、わしの両親、女房の父親が死んで、最後に残った女房の母親は、わしのおふくろが30年前に話した通り、うちの3人の孫の結婚式にも出ることができたし、ひ孫も5人生まれて、そういう面では幸せだといえる。みんなで撮った写真なんかを見ていると、おふくろも、さぞやこの中に座りたかったんだろうなあと、元気だった頃の姿を思い出すこともある。長生きすることだけが幸せにではないとは言え、もしも元気で長生きできるなら、それに越したことはないんじゃないのかな。