無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10874日

 わしにとって宗教とは死の準備なんだな。笑って落ち着いて死ねるためにはどのような準備をすればいいか、人に教えてもらう事はできない。この科目を教える学校も通信教育もないからな。第一教師がいないし、いるわけもない。もし教えている人がいたらそれは詐欺師だろう。この手の話になると宗教がからんでくるが、宗教と詐欺は紙一重の部分があるからな。結局自分で探さなければならないんだが、まずわからずに一生を終える可能性が高いと思うよ。もちろんわしも含めてだが。

 わしは親の死に様をみて、最期迄意識があれば、自分で死期はわかるのではないかと考えるようになった。それが死の間際にわかるのではなく、もう少し早い時期にわかれば、それだけでも落ち着いて準備もできるのではないかな。かといってあまり早くわかりすぎるのもちょっとさびしいような気もするが。

 さて、その準備のために何をすればいいかというのがわしの大きなテーマのひとつなんだが。黙ってすわって悟りを開けばいいのか、山の中を歩き回ればいいのか、本を読んだらいいのか、話を聞けばいいのか、お題目をとなえればいいのか、人によっていうことは違うんだな。わしは神道から入ろうと思い、模索しているが、わしはまずこれで食っている人は信用しないことにしている。

 これで食っている人というのは社会に評価されないと食えなくなる。結局社会に迎合しなければやっていけないんだよな。以前清貧というのがはやり、たぶん清貧のすすめだったか本もよく売れたということがあったようだ。本を読んで清貧に生きようとして山村へ引っ越した人などもいたらしいが、清貧は目的ではなく結果なんだよな。作者の飯の種にはなっただろう。

 あと10874日、寿命がつきるまでにどこまで理解できるか、楽しみな人生が送れる事を感謝しているよ。