無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10612日

 仕事を完全にやめて、一日中家に居るようになってもうすぐ1年になる。ただ単に子供の頃の、夏休みみたいなもんだろうと考えていたが、それとは全く違ったものだった。子供時代のことをいくら覚えていても、それの再現はできない。じじいは子供にはなれない。そんなこと当たり前のことだろうというのは簡単だが、この感覚は実際に歳をとらないとわからないだろう。しかし、20代で無職になったときのような焦りはない。将来に対する不安も無い。家庭も持ち、子供は独り立ちし、両親は見送り、これといった資産もないが借金も無い、健康で、年金と女房の働きでなんとか食って行ける。

 40年前に人生はつまらんと感じて、人間の寿命が30年ならいいのにと思ったこともあった。それならあと5〜6年、なんとかしのげば終了だ。しかし現実には80まで生きるかもしれない。それならまだ60年近く生きなくてはならんことになる。親はいつまでも生きているわけではないし、霞を食って生きて行く事はできない。様々な試行錯誤があった。その過程はこのブログにもいろいろ書いているが、詐欺まがいのことを計画したりしたこともあった。しかし最終的に落ち着いたところは、つまらんのなら、つまらんなりに、ひとまず普通の社会生活を普通にやってみるかということだった。普通に結婚して、子供を持って、たまには親孝行もして、定年退職を待とう。すべてはそれからだと考えた。

 わしは死ぬ時に、あれをやっておけばよかった、これをやっておけばよかったと後悔だけはしたくなかった。そのためにはその時にしかできないことは、その時にやっておくことだと思った。わしにとって、それは家庭を持つ事だった。結婚して子供を残すということは、いつでもできるという事ではない。わしが64歳まで可も無く不可も無く、ただ定年退職だけを目標に延々とやってこれたのは、家庭があって子供がいたからで、独身だったら途中でつぶれていただろう。

 こうしてやっと去年の4月1日にその日がやってきた。しかし今のわしは40年前のわしではない。40年前の状態にリセットすることは不可能だ。幸いなことに、予定通りだと、あと10612日生きる事ができる。40年待ってやっと掴んだこの1日1日を、『今日を生きる』という気持ちで大切にして、従容として死を迎えることができるよう、精進するだけだ。