無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10816日

 今年は女房と二人だけの静かなお盆だった。例年子供や孫、兄夫婦がいてにぎやかなんだが、静かなお盆というのもいいもんだな。そしていつもお盆になると思い出す光景がある。たぶんわしが小学生の頃だろうと思う。お盆にはたいていおふくろの里に遊びに行っていたんだが、ある夕方、日も落ちた頃、伯母さんが1人で庭先にすわってたき火をしているのに気が付いた。わしは伯母さんの横に座って何をしとるのか聞いたところ、「家に帰って来とった、ここのおいちゃんが煙に乗って帰っていきよるんよ。また来年まで帰って来れんのよ。」と教えてくれた。ここのおいちゃんが戦争で死んだことは何となく知っていたが、わしには何のことかわからなかった。今から思えば、おそらく戦後14、5年たったくらいの頃だろうから、まだひょっとしたらどこかで生きているのかもしれないというほのかな希望は持っていたんじゃないだろうかな。そのときのさびしそうな姿を思い出すんだな。

 わしも今日迎え火を焚いたので、親父おふくろともに家に帰ってきているんだろう。わしも子供の頃は偉そうに親に口をたてていたが、子供を持って初めてわかる親のありがたさだな。わしらの親の世代は、戦後の荒廃の中から、ただ子供の健康や成長を願いながら、市井の片隅で黙々とまじめに働き、今の社会を築きあげたといっても過言ではないと思う。そしてお天道様に恥ずかしくない生き方を子供にも教えてくれたんだな。人生これ以上何が必要なんだろうね。これは理屈じゃないんだな。わしもこういう生き方をしたいぞ。