無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10771日

 わしのおふくろは大正10年3月3日生まれなんで、生きていたら96歳になるんだが、2005年11月25日に84歳で肺がんが原因で亡くなった。家は小さな地主で、父親は村会議長などをやったことあるように言っていたから、まあ、並の生活はできていたんだろうな。なかなか成績も良かったようで、市内の名門の県立女学校(県女)の卒業生らしい。

 おふくろが元気なときは、若いときの話はあまり聞いて無かったんだが、死んでから昭和12年生まれの従兄弟からいろいろ教えてもらった。その従兄弟の父親、おふくろの長兄になるが、その人は昭和19年ニューギニアのサルミ付近で戦死した。次兄は海軍を志願し最前線を転戦、3回撃沈されるも兵曹長で終戦を迎えた。姉は満州国警察官と結婚して、ソ連軍の不法越境でソ満国境の町チャムスから命からがら引き上げるも、途中で男児2人をなくしている。まさに激動の時代だな。

 終戦後、おふくろは市内大通りで開いていた、海軍帰りの次兄がはじめた飲食店を手伝っていたこともあったようだ。長兄は県立中学3年のときに親に陸軍士官学校を受験させられて、落ちたもんだから夜間中学であと2年勉強して、卒業後陸軍の工兵学校に行ったらしい。銃器が専門だったようだ。陸士は中学5年から受けても難しいのに、3年から受験させられて可哀相だったと話していたな。この人は除隊後は商売をしたかったそうだが、残念ながらその夢は実現できなかった。かわりに息子の1人は商売で大成功して大金持ちになっている。

 おふくろの両親は、戦後すぐに亡くなったらしく、わしのおやじと結婚したときはいなかったようだ。おふくろが死んだ時、相続の関係で戸籍をみたんだが、昭和19年に7歳の従兄弟が戸主になっているんで驚いたことがあった。旧民法だったんだな。旦那さんは戦死し、親も死んで、家は南海地震で傾いて住めなくなり、戦後の農地改革で田んぼは小作にとられ、次兄は譲られた良田を叩き売ってしまい、伯母は3人の子供をかかえて、軍人恩給が復活するまではたいへんな生活だったようだな。伯母が行商に行き、おふくろはその留守に2歳から7歳までの3人の子の面倒をみていたそうだ。

 その頃におふくろが警察官だったおやじと結婚したんだが、おそらくその伯母がいろいろ揃えてくれたんだろう。2人は死ぬまで仲がよかったから、一緒に苦労した連帯感があったんだろうな。今から思い返しても自分の里に帰ったときのおふくろは楽しそうだった。伯母とおふくろとおふくろの姉の3人で1日中話していたな。わしも若い頃はおふくろにつまらんことを言って悲しませたりしたこともあったが、会えるもんなら会って謝りたいよ。

 おふくろが死ぬ2〜3日前だったと思うが、わしがホスピスに泊まった次の朝、車いす乗ってちょっと歩いてみるというので廊下を一往復した。それから食事をするんだが、入れ歯を自分ではいれることができなかった。それをわしに入れてくれというんで、わしはよくわからんがいろいろやって、何とか収まったとき、ありがとうと言ってにっこり笑った。今から思うと、あれがおふくろの役に立った最後の親孝行だったな。