無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10756日

 わしの家の近くに旧高等商業時代から続く、歴史のある私立大学があるんだが、わしが小さいときは近所の多くの家が2階を学生下宿にして貸していたな。だいたい3畳から4畳半くらいの広さで、トイレ洗面所は共同だった。わしの家も2階の3畳4部屋を貸していたんだが、たしか月1000円だったな。昭和30年代の1000円は決して安くはないだろうな。その後、昭和44年に4畳半3部屋に改築して、月6000円に値上げしたはずだ。昭和54年くらいまで学生が居たはずだが、その頃になると学生マンションが建ち始めて、下宿というのは廃れていったようだ。

 わしが小学1年の時に近所の伊藤さんの家に洗濯機を貸す店ができた。いまのコインランドリーみたいなものだな。出始めたばかりの洗濯機を3台並べていたんだが、使用料は1回50円だったな。おふくろと一緒に見に行って、初めて電気洗濯機なるものを見たわけだが、大きな機械がごとごと音をたてながら水をじゃぶじゃぶ流していた印象しか覚えてないな。うちはおふくろが洗濯板を使って手洗いしていたんだが、ここの洗濯機を利用した事はないはずだ。この店もそんなに長くは続かなかったということは、1回50円は高かったんだろうな。

 うちが下宿屋を始めた頃、九州からきた1人の学生が、入学式から帰って泣いていたらしい。訳を聞いてみると、この大学は戦前から○○高商として有名だったんで受験して入学したんだが、今日入学式に来て、思っていたような大学ではないと気がついた。いまさら親にやめるなどと言えないが、できたら来年他の大学を受験し直したい。というようなことだったらしい。その話を聞いていた隣の部屋の学生が、自分等は勉強していい大学に入ったと喜んでいるのに、つまらん大学だとは失礼だろう怒りだしたというおまけ付きだったようだが、この学生は結局退学して郷里に帰り、翌年東京大学に入学したというからほんとうにもの足らなかったんだろうな。

 学生もそれぞれで一緒に遊んでくれた人もいれば、とっつきにくい人もいたが、だいたいみんなよく麻雀して遊んでいたな。文系だからということもあるんだろうが、兄貴は幼稚園のときに、自分も大きくなったら大学生になりたいといって親を喜ばせたらしいが、その理由は、大学生になったら遊べるからということだったんだと。なんと兄貴は5歳にして、今のレジャーランド化した大学を予言していたんだな。