無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10744日

 安倍首相が4000万人の年金受給者の受給額を減額する方針らしいな。わしなんかは食うや食わずでなんとかやっていけるくらいの額だが、うちの親父は、戦前の判任官の恩給分も含めてだが、わしなんかよりは遥かに多かったな。わしらみたいに4年前から年金受給者になったものと今80や90で年金受給している人とでは、毎月の受給額が全く全然違うんだが、4000万年金受給者で一括りにされるのもどうなんかな。

 額の多寡はおいといて、年金というのはわしにとっては待ちに待ったもので、若い頃からこの日の来るのを待ち望んでいた。年金というのは雨が降ろうが風が吹こうが、病気になろうが、極端な話、前科者になろうが、必ず決まった額を支給すると国が約束しているものなので、贅沢はできないが、明日の飯の心配をする必要もないんだな。で、わしはこれで自由が手に入ると思っていたんだが、どうもそうではないことが最近わかってきたんだな。これも経験して初めてわかることだったな。

 この7ヶ月間、たしかに人目にはわしは遊んでいるようにみえるだろうが、わしは決して遊んでいるんではない。つまり一般的に言われている、年金生活者になって得られる自由とは、物理的な自由をさしているんだな。一般的にはな。しかしこういう自由ならわしはすでに船乗りをやめてからずっと持ち続けて来た。閑職だったからな。わしが手に入れたいと思っていたのは精神の自由、或は意識の自由、心の自由というような意味で、これは明日の飯の心配が無くなれば、一歩近づけるんじゃないかと、大いに期待をしていたんだが、ちょっと甘かったかな。

 この7ヶ月間近づくどころか、一歩後退したような感じすらしている。わしは今までに一度だけ、自由といえるのかどうかわからないが、不思議な体験をしたことがある。あのときの状態をもう一度体験したいとずっと思っているんだが、あれ以来やってこない。あれはわしがまだ30歳台の頃だった。うまく言葉では言えないんだが、ある朝、目が覚めた時、なぜか急に心の底から楽しくて楽しくてしかたがない、大きな波のような感覚がわき上がってきたんだな。わしはそれをしばらくとどめておこうとしたんだが、あっというまに過ぎてしまった。そして二度とやってこなかった。今もう一度あの状態を経験できれば、自由へ向かって大きな一歩になるかもしれないと期待しているんだがな。