無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10681日

 わしは23歳から24歳くらいにかけて、東京でひとりだけの生活をしたことがあった。学生で一人暮らしとか、社会人で一人暮らしというのはよくあることだろうが、何の予定も無く、何をするでもなく三畳一間、共同トイレ洗面所のアパートで、ほとんど誰とも会わずに一年間暮らした経験はあまりないだろう。なぜそうなったかというと、船乗りをやめたあと、JAL,ANA,TDAの自社養成パイロット試験を受験しようと思い立ち、主に英語のヒアリングの勉強を目的にして、試験前に数ヶ月勉強するつもりで上京したんだが、なんと、わしが家を出たその日に、不況のため航空3社自社養成中止というニュースが流れたんだな。出発があと一日遅かったら上京は中止したんだが、部屋も借りて、すでに東京迄来てしまったんだからしかたがない。船で貯めた多少の金はもっていたので、しばらく自由な思考生活してみる事にした。

 いろいろ考えるとはいっても、具体的にこれといって何もやる事はないので、当然朝起きて夜寝るまでフリータイムということになるんだろうが、ほんとうのフリータイムとは、何か義務を果たした後にやってくるもので、限られた時間で、楽しいはずのものだが、わしの似非フリータイムは時間はあっても、少しも楽しくないし、わき上がってくる様々な不安は、打ち消しても打ち消しても頭から離れない。誰かと話をするといえば、当時中野駅北口の近くにあった安い食堂で、おばさんに注文する時くらいで、日本語も忘れてしまいそうだったな。わしもその当時から、人との会話はそれほど好きではなかったし、この生活を簡単に考えていたんだが、実際にこの状況に自分をおいてみると、夏前にはほとんどギブアップしていたな。

 明日食べるものがあるから断食修行ができるので、食べるものが無くなって、必然的に断食しなくてはならなくなったら、誰も断食なんて馬鹿な事考えずに食べ物を探しにいくだろう。それと同じで、1人でいて、経済活動をせずに、思考を重ねて自分を高めようなどとしても、いざ、一日中それしかやることが無くなってしまうと、こんなことをしていていいのか、ちゃんと働けよという声が聞こえてくるんだな。結局その声を打ち消して、自分を納得させるために大学へ行く事にしたといえるのかもしれんな。

 それから40年経ち、今年4月からの人生2回目の思考中心の生活は前回とは様子が違う。楽しいし、平穏だ。つくづく年をとるのもいいもんだと思うな。あと10681日、ギブアップすることはないだろう。