無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10493日

 わしが子供の頃、四国から東京へ行くためには、高松まで行って、そこで宇高連絡船に乗り換えて宇野まで行き、宇野港から山陽本線の準急鷲羽で大阪まで行っていた。昭和39年からは新幹線が走っていたから、新大阪で乗り換えてひかりで東京へ向かった。10時間くらいかかっていただろう。わしが20歳すぎた頃には、新幹線が岡山まできたので、約8時間に短縮された。飛行機利用は、まだ贅沢だと思っていた時代だったな。

 昭和50年にTタンカーに就職した時、実家から会社までの運賃が、国鉄利用で計算されていた。わしはそんなこと知らないから、飛行機を利用して、かかった旅費を請求すると、だめだと言われたことがあった。承服できないので、どこなら飛行機代が出るのか聞いたところ、九州、沖縄、北海道だと言われた。じゃあ博多から来るのも飛行機代が出るようだが、新幹線に乗るために、四国の田舎から、単線のディーゼル急行、連絡船、宇野線と乗り継いで岡山へ出るのと、博多から、複線の特急電車一本で岡山まで来るのと、どちらが不便か考えてみてくださいと言うと、あっさりと飛行機代を認めてくれた。案外、この頃には料金は逆転していたのかもしれんな。

 昭和47年当時はまだブルートレイン全盛で、日立造船神奈川工場でドック入りしていた、練習船北斗丸に乗船するため、宇野から東京行きの寝台急行瀬戸に乗って川崎まで行ったことがある。この時初めて、友達と一緒に食堂車に行って、夕食を食べたが、その時初めて飲んだ、トマトジュースがおいしくて、それ以後わしの好物になってしまった。2等車は3段ベッドで狭いし、寝心地は良くなかった。一番長時間乗ったのは、昭和56年に、出張で大村に行く時に乗った、東京長崎間の寝台特急さくらだった。東京を午後5時頃に出て、着いたのが翌日の昼頃だったから、これは退屈したが、帰りは長崎空港から飛行機で帰ったら、あっというまだった。まあ、当然の事ながら、旅行ならいいんだろうが、出張なんかでで利用するものではないと、つくづく実感したな。

 今は無くなったが、本州へ渡る時に必ず利用した、宇高連絡船には、わしらの年代以上の人ならみんな、船上で食べた、讃岐うどんの思い出があるはずだ。寒いときも暑いときも、潮風に吹かれながら食べた、あのうどんはほんとうに旨かった。あんなに旨いうどんは、あれ以来食べたことがない。

 こうして考えてみると、丁度わしらの年代は、日進月歩で新しいものがどんどん出て来て、便利になり、楽しい時代ではあったが、古いものは、惜しげも無く捨てられていった時代でもあった。しかし、それは決して悪い事ではない。若い頃、輝いていた頃の自分が、懐かしいとは思うが、もう一度やりたいとは思わないのと同じことだろう。生きているのは今しか無いんだから、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」ということかな。

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