無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8158日 1970年代

今から50年も前のことだが、ニューヨークからタンカーに乗船するため、パンナムで羽田を14時頃飛び立ち、アラスカのフェアバンクスを経由して、同じ日付の14時頃、無事ケネディ空港に到着した。しかしそこに至るまでの過程は今と違って大変だった。外務省にパスポート作りに行け。できたから外務省まで取りに行け。アメリカ大使館に行ってビザを取ってこい。こんなことで四国と東京を何回も往復させられた。

しかも会社の四国~東京の旅費規定が国鉄利用だったから、四国のローカル鉄道、宇高連絡船宇野線を利用して岡山迄行き、ここでやっと新幹線に乗れたが、それでも8時間以上かかった。これはかなわんと思い、飛行機運賃をだしてくれるように会社に掛け合った。九州~東京は以前から航空運賃支給となっていたことをその時知った。

博多~岡山は複線電化で特急が走っている。一方四国は気動車がカーブの多い単線を走っている。しかも1時間ほど連絡船に乗らなくてはならない。岡山で新幹線に乗るのにどちらが不便かよく考えてほしいと言ったらすんなりと認めてくれた。

こんなことは若い人達は想像できないだろうが、1ドルが300円もした時代であり、簡単に海外旅行ができる時代ではなかった。日本はまだまだ貧しかった。そもそもニューヨークから乗る船もシェブロンのタンカーだった。ドルで給料をもらえたから日本円にしたら結構な金額になったとはいえ、今インドネシア人船員が出稼ぎで日本やデンマークの船に乗るようなもので、体のいい出稼ぎだった。

当時は日本に生まれたら一生日本を出ることがない人がほとんどの時代だった。これは日本だけではない。世界中のほとんどの国の人達も同じだった。同じ国の同じ国民の中で生き、そこには嫌なことも楽しいこともお互い理解しあえる安心した生活空間があり、人種や国同士の争いが個人のレベルで国内に持ち込まれることはなかった。

今、たまにユーチューブで1970年代の風景の動画をみることがあるが、仮令この時代を知らない人であっても、それを見た多くの人がうらやましく思うのではないだろうか。清潔で落ち着いた街並み、しっかりとした教育を受け、戦争を戦った多数の日本人が日本人として堂々と生きている社会がそこにはあった。

グローバル化と言われ始めたのはいつの頃だったのか。経済発展に呼応してビザもいらなくなり、パスポートは市町村で取れるようになり、世界中どこにでも簡単に行けるようになった。そして日本に住む外国人も百万人単位に膨れ上がっているらしい。それでも足りないとして、日本をなし崩し的に移民国家に変えようとする人達もいるようだ。

しかし、私の周囲に外国人との共生社会なんぞ望んでいる人は誰もいない。望んでいるのはただ日本人が安心安全に暮らしていける社会であり、裕福でなくとも調和のとれた落ち着いた社会ではないだろうか。国はそれを支える国民がいて成り立つもので、政府は国民の意思を見誤ってはいけない。それがわからなければ次の選挙で思い知ることになるだろう。