無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10387日

 10年以上前になるが、女房の兄が脳幹出血で倒れて、左半身不随の障碍者になってしまった。命があっただけ良かったといえばその通りなんだが、自力で排便排尿ができないというのはつらいことだ。月に2回は女房が紙おむつとか尿漏れパッドを届けているので、その時わしも一緒に行っている。今日も行ってきたが、本人も今年が還暦で、歳をとると体力の衰えにより、障害もひどくなってきているようだ。去年できたことが今年はできないとか、うまくしゃべれないために、介護の人との意思疎通が困難なこともあって、本人もちょっとイライラしていたようだ。

 女房に、「世話になっているんだから、文句ばっかり言ったらいかんよ。」と説教されていたが、本人は本人なりに我慢しているんだろう。わしらにそうやって話すことで精神のバランスを保っていけるうちはいいが、いずれ爆発するのかもしれない。その時はこの施設にはいらなくなるだろう。今から次の場所も探しとかないといかんねと女房も話していた。次の介護施設に行くときには、障害ではなく介護保険の扱いになるから、自己負担も増えることになるので、年金と今までの貯蓄だけでどこまでやっていけのか、本人は父親の歳まで生きたいと言っているから、そこまで生きるとあと18年。どうなるかは福祉行政のさじ加減ひとつということかな。

 しかし、人生何が起こるかわからない。現実的に考えると、兄の世話は女房がしているので、女房が先に死んだら誰がその代わりをするのかということが大きな問題になってきた。母親は高齢で自分の事だけで精一杯だし、義妹に頼むのも気の毒だ。そこでうちの長女に、万が一の時は代わってやってもらいたいと頼むと、快く了解してくれた。まだまだ先にことで、長女も実感はわかないだろうが、嫌がらなかっただけでもありがたかった。

 わしも福祉の実情というのは女房の兄や、親の介護などを経験して初めて知ることばかりだった。みんなが幸せに最後をむかえることができるように、いろいろ考えられているんだろうが、予算に限りがある以上、全員が納得できる制度ではないことはわかっている。また、法律と同じで、知っている人が得をするという制度であることもわかった。積極的に利用しようとすれば、様々な救済策があるが、しなければ誰も教えてくれない、なかなかシビアな世界でもあるようだ。

 女房の母方の祖父は旧内務官僚で立派な人だったようだが、その人の最期は衰弱死だったと聞いている。晩年に木から落ちて動けなくなり、それ以後ほとんど食事をしなくなったらしい。そしてだんだんと弱っていって朽木が倒れるように亡くなった。あれは覚悟の死だったんだろうと女房は話している。これを聞いて、当たり前のことだが、食べなければ生き物は死ねるんだと改めて気が付いた。これは自殺ではなく自然死だろう。出来ることなら、あまり人のお世話になることなく、最期まで意識をもって自分の意思で寿命を全うしたいものだ。わしは女房にも子供らにも延命治療だけはしてくれるなと伝えてある。