無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9575日 なんとなく恐ろしいこと

子供の頃にはアメリカとソ連による核実験で地球が滅びるのかと心配したこともあった。大量の放射性物質が大気中にばらまかれて、雨と一緒に降り注いでくる。それらに当たると、良くて禿げるくらいで済むが、運が悪いと死んでしまうなどと言われたものだ。

例えばストロンチウム90は、1960年代に国内で観測された最大値が約120ベクレル/㎡だったそうだ。福島第一原発事故後にストロンチウム90が6ベクレル㎡/検出されただけで大騒ぎをしていたのだから、今よりも知識の乏しい時代の子供らがどれだ恐怖を感じていたかよくわかるだろう。

少年マガジンなんかでも、日本はベガトン爆弾4発で全滅などと子供らに危機感をあおっていた。ベガトン爆弾がどんなものか、今のようにググって調べるわけにもいかなかった当時の子供等にも、とにかく恐ろしいものだということはわかった。

幸いなことに核戦争が起こることはなく75年が過ぎたわけだが、その間大人になるにつれて恐怖感は薄らいでいった。科学の進歩により国同士の意思疎通が簡単になり、偶発的な衝突が防げるようになったことも原因の一つかもしれない。

このままであと26年ほど無事に過ぎれば94歳となり、予定通りなら天寿を全うすることになるので、戦争を見ることなくこの世におさらばできるんだが、そううまくはいかないような気がしてきた。

というのも、今回のイランの件は収拾することなく、近い将来いっきに爆発するのではないかというような気もしているからだ。大東亜戦争から75年、解決することなく放置されて、捻じれに捻じれた因果関係がすでに限界に達しているようだ。そんな感じがしている。戦争でゆがめられたものは戦争でもとに戻すしかないのかもしれない。

更に中東は遠い。モニター画面で、破壊された街、逃げ回る子供、叫んでいる老人、銃を担いで徘徊する子供もいる。しかし遠い世界の出来事だ。モニターの前に座ってコーヒーを飲みながら見ている人たちには何の痛みも感じない。

それがこれから起こる戦争だとしたら、ハードルは極めて低いと言わざるを得ない。

その時石油は入ってくるのかどうか。多くの原発が止まっている今、火力発電が止まればそれこそ日本はおしまいだ。トイレットペーパーを争奪した昭和48年のオイルショックどころの騒ぎではないだろう。

こう考えていると、子供の頃の恐怖感が蘇ってくるような気がすることもある。

朝目覚めたら、昨日と同じ光景がそこにあるということがどれだけ幸せか、みんながそれに気が付いたら、争いごとはなくなると思うんだが。