無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8690日 嗚呼専守防衛

国際条約で決まったものではないにしても、領海3カイリという考え方は砲弾の着弾距離から導き出されたものだそうだ。3カイリ或いは12カイリでも同じことだが、敵国軍艦がやって来て領海すれすれを遊弋しながら大砲を撃つ、砲台がそれに反撃する。金剛比叡クラスの35センチ砲で射程が約30キロ。したがって敵艦を30キロまで近づけなければ被害を受けることはない。

それが飛行機が爆弾を抱いてやってくるようになって、その航続距離が数百キロだとすると、航続距離=射程距離ということで、砲弾に比べてそのスピードは遅いが射程は長くなった。数百キロ先から人が操縦して、たかだが200ノットくらいのスピードで爆弾を運んでくるのだから、遠方からレーダーで探知して迎撃することが容易だった。日本国憲法ができたのはそのころだった。

日本はその憲法で戦争を放棄したから他国を攻めることはできない。そこでディフェンス専門の組織が4つの島に立てこもって敵を迎撃するという、まるで昭和20年にやろうとした本土決戦の再来だが、それを専守防衛という面妖な言葉に言い換えてしまった。とは言え、日米安保条約が結ばれて、船と飛行機が戦う手段だったその当時の東アジア情勢からすれば、専守防衛は可能な戦略だったのかもしれない。

しかし、70年後の今になっても、日本の首相がわが国は専守防衛だということの異様さをどう理解したらいいのだろうか。射程千キロを超える超音速長距離ミサイルが存在し、その威力たるや一発で都市が更地になるかもしれない。領海3カイリの時代に当てはめると、国の周囲がぎっしりと金剛榛名級の戦艦で囲まれたが、こちらには一門の砲も無いということになるのだろうか。海岸から30キロ以内の都市はほぼ壊滅するが、どうやって国民の生命財産を守るつもりだろう。

多くの日本国民は気が付き始めた。ウクライナはロシア本国を攻撃できないが、ロシアはウクライナに攻め込んで満洲樺太、尼港の再現でやりたい放題だ。安全地帯から数百発のミサイルを撃ち込んでインフラを破壊している。これってウクライナにとっては本土決戦であり専守防衛ではないのか。日本もこうなるのか。総理が絶対守るといった専守防衛という概念は、今の戦争では全く成り立っていないということをウクライナが証明しているのではないか。

7月の参議院選挙ではウクライナ侵略戦争を踏まえて、どうやって国家国民を守るのか、真剣に政策を戦わせてもらいたいものだ。