無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9418日 自分に認められること

毎日これといって面白いこともないが、時間だけが過ぎていく。やらなくてはいけないことも無くはないが、今やる必要はない。頼まれていたポテトサラダも午前中に作ったので晩御飯の支度もできた。昨日受け取ったままになっていた回覧版も、持って行ったし、さて今日も終わりかなどと考えている。

そうそう、今日は紙ごみの収集日なのでついつい置き場を見てしまった。すると段ボールが、ばらさずに箱のままで5~6個乱雑に置かれていた。多分学生の仕業だろう。ルールぐらい守れよとちょっとイラッとした。

これも見なければ気にもならないんだが、町内会長だった時の癖がまだ抜けてないようだ。しばらくして収集車が来たので見ていたら、全部持って行ってくれたのでほっとした。

言ってみれば、このゴミ出しトラブルが今日のクライマックスかな。平坦な生活だ。

5時過ぎになると、終日雨も降っているので、車で女房を迎えに行かなくてなならない。世間の人が働いているこの時間帯に、のうのうとこんなブログを書いておれるのも、女房の稼ぎがあるからで、お迎えくらいはお安い御用だ。

そんな平坦な生活に時々カツを入れてくれるのが、去年の12月から、民生委員の業務で月に2回ほど回っている独居老人の皆さんだ。だいたい女性は話の好きな人が多いし、話も面白い。同じ話が何回も繰り返されるのはよくあることだが、生命力を感じさせられる。本当にあやかりたいものだ。

皆さん、若いときから家族のために一生懸命働いて生きてきた人達だ。話していてもそこには迷いが感じられない。もちろん、80年、90年過ごしてきた人生だから、探せば心の奥にはいろいろあったのかもしれないが、それらのことも些末な存在になるのだろうか。

そこらあたりはよくわからない。私は今68だが、まだそういう心境にはならない。これは年齢の問題ではなく、男女の違いなのかもしれない。

この人たちと話していると、面白いとか、つまらないとか言わずに、生きるために働き、その生きてきた人生を自分自身が認めていることがよくわかる。

時々「○○さん、まだ若いからうらやましいよ。」と言われる。予定通り94歳まで生きるとすると、まだ26年残っているが、今まで、生きるために一生懸命働いたという意識はない。

仕事を辞めて5年目に入ったが、どんなきれいごとを言ったところで、自分をだますことはできないということだけはわかってきた。自分に認められなければ何の意味もない。