有漏路より無漏路へ帰る一休み雨降らば降れ風吹かば吹け
これは有名な一休禅師の和歌ですが、現生とはあの世へ行くまでの間、ちょっと一休みしているだけだから、何があろうと大したことはないし、悩むことも無いということなんでしょう。
でも本当でしょうか?
それでは済まないのが人の一生であり、それは苦しみも悲しみも、喜びも全部自分で受け止めて責任を負わなければならないものです。人にとっては今の自分の一生が全てです。それが現実です。本当はみんなわかっているのではないでしょうか。
一休禅師もいつもそう考えていたわけではなく、平家物語を聞いてちょっとそんな感じがしたという程度のことかもしれません。後世の人が勝手に感情移入しただけかもしれません。
生きるのに疲れた人が聞いたら一服の清涼剤にはなるかもしれませんが、それだけのことだと思います。
この和歌を知って感動したのが20代半ばだったと思いますが、今はなんとなく薄っぺらく感じています。
あれから40年生きてきて、雨が降れば雨をよけたり、人に傘をさしかけてあげたり、またその逆もあったり、風が強い時は前に立って人を守ったり、また逆もあったり、無漏路ではなく有漏路を一生懸命生きることこそ一番大事なことだと気が付きました。
高齢者のお話を伺っていつも思うのは、人それぞれ、自分のため、家族のため、家のために一生懸命働いてきたという歴史があり、それは禅僧が一言で語れるようなものではないということです。
一番大切なことは、有漏路だろうが無漏路だろうが理屈ではなく、ただ一生懸命正直に生きて、一生懸命死ぬことではないでしょうか。
一休禅師自身、死にとうないと言いながら、50歳も年下の若い恋人のもとで死んだのですから、本当は一生懸命生きた正直な人だったんでしょう。