無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10547日

 最近はどの公園に行っても、球技禁止の看板が立っている。うちの近所にある市営公園もそのようになっているようだが、20年くらい前までは、それほど厳しく言われなかった。うちの子等もボール遊びしたことあるし、時にはわしも付いて行ったこともある。たくさんの幼児が遊んでいるときはやめたり、或は少し離れて遊ぶとか、常識の範囲で気をつけていれば大丈夫なような気もするが、中にはその常識が通用しない連中もいるから、一律禁止も仕方がない面もあるんだろうな。

 特に幼児は、ころころ転がっているサッカーボールに触れただけで、転倒して頭を打つ可能性もあるし、軟球でもあたれば大けがをすることもある。うちの子供等が幼児の頃、近くで中学生や小学校高学年の子が球技で遊んでいるのをみていて、危ないと感じた事も何回もあるから、幼児を持つ親としては、やはり禁止にしてほしいと思うのも当然だろう。

 わしらが小さい頃は、学校の校庭が解放されていて、誰でも入って遊ぶ事ができた。凧揚げ、キャッチボール、三角ベース野球、何でもやりたい放題だった。校庭は広いから、年齢によってそれぞれのグループが、お互い邪魔にならない場所で、好きなように遊んでいた。昭和37年あたりから、管理が厳しくなり、遊んでいると出ていけと怒られるようになったが、それまでは、学校が終わると毎日のように遊びに行っていた。今は怪我でもしたらすぐ訴えられるから、学校も怖くて解放はできないだろうな。

 たいていわしらのグループは隅っこの方で、三角ベースソフトボールや、わしらが「いっせん」と呼んでいた、軟庭ボールを使った三角野球で遊んでいたが、校庭が広いとは言っても、大学生なんかに本格的な軟式野球をやられると、球が飛んで来てけっこう危ないこともあった。三角ベースというのは、少ない人数で、野球の気分が味わえる、楽しい競技だったが、最近やっている子供をみかけない。「いっせん」とか軟庭ボールを使った遊びなら、公園でやっても危険性はないように思うが、そこまでして野球をやりたい子供もいないのかな。

あと10548日

 小さい頃よく読んだ本の中に、大平陽介著「少年少女日本剣豪物語」というのがあった。ハードカバーの立派な装丁の本で、値段も高かったんじゃないだろうかな。初版が昭和31年らしいから、おそらく兄が買ってもらったものだろう。塚原卜伝林崎甚助柳生但馬守宗矩、小野次郎右衛門忠明、伊藤一刀斎、榊原健吉、山岡鉄舟上泉伊勢守信綱、宮本武蔵、斎藤弥九郎、男谷下総守、まだいたかもしれないが、今思い出すだけでもこれだけの剣豪が紹介されていた。わしの剣豪に関する知識の源はこの本だと言っても過言ではないだろう。

 子供向けの本だといっても馬鹿にしてはいけない。無駄無く、よくまとまった非常に読みやすい本だった。小学校4〜5年生の頃、学校から帰ると、内職しているおふくろの横で、おやつを食べながら何回も読み返していたので、ほとんど暗記してしまった。剣豪の話を知っていたところで、特段役に立つことはないが、わしがこの本をよく読んでいたことは、親父も覚えていたようで、その晩年、剣豪物語は捨てずに記念にとっておいたはずだと言っていたが、残念ながら遺品の中には無かった。

 塚原卜伝の新当流一の太刀。母親と貧しい生活をしながら、1人で稽古を続けた林崎甚助の林崎無想流。小野派一刀流の小野次郎右衛門忠明は、若いときは御子神典善と名乗っていて、伊藤一刀斎の弟子だったが、兄弟子善鬼を倒し一刀流を継承した。榊原健吉はただ1人、兜切りに成功した。山岡鉄舟は死ぬまで布団を敷かず、畳に上に寝ていた。新陰流の上泉伊勢守信綱。斎藤弥九郎は子だくさんで、4番目以降の子は面倒だったのか、四郎ノ助、五郎ノ助、六郎ノ助という名前だった。今でも名前を聞いたら、挿絵とともに、いろいろなエピソードが浮かんで来る。

 剣術のすばらしさだけでなく、人間のすばらしさが余す所無く描かれていて、今でも子供必読の書だと思っている。パン屋を和菓子屋に変更するなどという、細かなことで話題になった道徳の教科書だが、そんな本をわざわざ作って読ませなくても、大平陽介著「少年少女日本剣豪物語」を読ませたほうがよっぽど役に立つと思うがな。自分の子供には読ませられなかったので、どっかで探して来て、孫には読ませたいと思っている。

あと10549日

 3年生で小学校を転校して、びっくりしたことの1つに、クラス全員が、毎月学研の本をとっていることがあった。今では本の名前すら、はっきり覚えていないが、『小学3年生の学習』或は『学習なんとかかんとか』、大体こんな感じだったと思う。わし自身あまり熱心に読まなかったので、役に立ったとか面白かったとかいうような記憶はないが、ただ、毎月連載されていた、ある読み物が面白かったので、それだけは欠かさずに読んでいた。

 当時は米ソの大気圏内核実験がさかんで、20メガトンとか30メガトン、果てはベガトン水爆4発で日本全滅などと少年マガジンなんかで大騒ぎしていた時代で、わしら子供もかなりの危機感を持っていた。ストロンチウム90なども、福島原発事故ではたった6ベクレルだったが、当時は350ベクレルも観測されていた。わしらの年代の子供はずっとそれを浴び続け、食べ続けてきたということだ。何の影響も無かったけどな。核実験の後に降る雨には放射能が含まれていて、それにあたると頭がはげるなどと真剣に心配していた。

 雑誌に連載されていたのは、国連によって、恐怖の的だった核実験が禁止され、米ソが核兵器を廃棄して平和が訪れたあとに、宇宙人が来襲してきたという前提の話だった。有効な兵器は核しかないということになったが、米ソは既に核を廃棄して持ってない、さてどうするか、という段になって、突然アメリカが隠し持っていた核ロケットで攻撃を仕掛けた、と続くんだが、わしはここまで読んで、ふと疑問を感じた。なぜソ連ではなくアメリカなんだろう。ソ連が、或は両国が隠し持っていた..........でもいいんじゃないか。

 今から思えば、これは作者や編集者のイデオロギーの問題だろうが、年端も行かない小学生に、こうやって巧妙に『アメリカ=悪、ソ連=善』と刷り込みを行っていたんだろう。そういえば、当時のわしの担任も、北京には蠅が1匹もいないというあの与太話を信じて、真顔でわしらに中華人民共和国の素晴らしさを訴えていたんだから、今から思えば絶望の時代だったな。

あと10550日

 4月になってから左腕がしびれるようになった。安静にしていればすぐに治るだろうと思っていたが、一ヶ月が過ぎてもほとんど変わらない。首を後ろにそらした状態で、頭を左方向に回すと、左の三角筋から親指を結んだ線に沿ってしびれる。しびれるだけで筋力低下や他の症状はなにもないんだが、とにかくうっとうしい。医者に聞いても、歳なんだし、だましだまし使っていくしなないだろうと言われてしまった。ひょっとしてぶら下がり健康器が原因かもしれないが、人には寝違えたと話すようにしている。

 わしは若い時腰を痛めたことがあった。それがちょうど空手初段の検定前だったので、無理をして練習していたら、検定が終わって練習を休めるようになっても、治らなくなってしまった。歩く事もできなくなり、困っていたら、友人が隣の島に痛みを直すのが上手な整骨院があると教えてくれた。問題は、満足に歩けない者が、どうやって港まで行って、船に乗り、さらに隣の島に着いて治療院まで行くかということだったが、島内にタクシーなんか走ってないので、結局、時間はかかっても、ゆっくり自力で歩いて行くしか方法は無かった。

 普段の3倍くらい時間はかかったが、脂汗を滴らせて、ふらふらになりながらも、なんとか隣の島の治療院までたどりつくことができた。しかし着きはしたが、ここでもし治らなかったら、また同じ道を苦労して帰るのかと思うと、絶望感に包まれていた。ところが驚いたことに、たった30分くらいの治療で、帰りはすたすたと歩いて帰ることができた。この島には大きな造船所があったので、工員で腰を痛める人が多かったらしい。そのせいか、町の規模に比べて治療院の数は多かったから、腕のいい人もいたんだろう。

 この時不思議に思ったのが、治療費が500円だったことだ。腰をもんだときも、そうでないときも、電気を当てたときも、そうでないときも毎回500円だった。一体この算定基準はなんだったんだろう。結構アバウトな保険請求していた様な気がする。当時被扶養者は5割負担だから、治療院には1000円はいることになる。いつ行っても患者は満員だったので、少なくとも1日50人はいたはずだ。そうすると1日5万円、年間200日働くと1000万円になる。当時日航機長が800万と言われていた時代だから、これはすごい年収になるなと驚いたことがあった。この時、いっそのこと船乗りなんか辞めて、柔整師になっていたらよっぽど儲かったかもしれんなと、今でも考えることがある。

あと10551日

 3月18日に亡くなった従兄弟のJさんの四十九日法要があった。今回もわしと、従兄弟のMさん、Rさんの3人で出席した。今回は自宅での法要のあと、納骨があったが、あの地区の墓地へいくのは本当に久し振りだった。おふくろが元気な頃はお彼岸になると、車で一緒にお参りしていたが、死んでからは行く事はなくなった。昔は田んぼの中にあって、聞こえて来るのは野鳥の声、風の音くらいで、後は何も聞こえて来なかったが、40年位前に200mほど先を国道が通り、さらに50mくらい南に県立高校ができたので、今では以前程の静寂は無くなった。わしの好きは場所だったんだが、残念な事だ。

学帽を手に振り仰ぐ春日かな

これは昭和42年、高校に入学する3月に墓参りに行ったときの俳句だ。当時はみんな制服制帽だったんだな。校章のついた帽子には2本の白線が入り、うれしかったんだろう。

 昭和30年代には、お盆の時にはわしら兄弟も、RさんもMさんも、みんなこのJさんの家に集まって一日遊んでいた。夕方になるとみんなでワイワイ話しながら、お墓にお参りに行っていたが、その途中に、両岸が草むらに覆われた、幅3mくらいの川が流れていた。その川の横を歩いている時、おふくろが、この川の土手には昔は狸がおって、きれいな声で鳴きよったんよと、話してくれたことがあった。今では聞こえて来ないから、たぶん住んでないんだろうと言っていたが、その当時は、まだおふくろが子供の頃だった、昭和の初期の風景とほとんど変ってなかったようだ。

 Jさんの家は20年程前に、立派な家に建て替えられて、当時の面影は全く残っていない。周辺も新しい家が増え、あの川もコンクリートで固められてしまって、昔日の面影はもうない。納骨後、お墓からRさんの車でJさんの家に向かう途中、3人で昔話に花が咲いたが、わしらだけで話しているときは、気持ちは十代にかえっているが、周囲の若い人には、年寄りの与太話位にしか聞こえないんだろう。昼飯のとき、Rさんがわしに「○○ちゃん、見てみ、この中にわしらより年上はほとんどおらんぞ。ほんとわしらもじじいになったんじゃな。」とつくづく話とったな。

あと10552日

 昨日で2年目にはいったことを書いたが、1年経とうが2年経とうが過ぎた事は忘れるに限る。重荷はできるだけ勘弁してもらって、あの世への旅路は身軽に行きたいものだ。この一年、振り返らない、反省しない、溜め込まない、吟味しない、忘れる、ということを心がけてきた。特にわしの場合、かっとしやすい性格だったので、以前は人との関わりにおいて、後から反省する事が多かったが、この一年わしは怒る事をやめたし、人ともほとんど関わらなくなったので、わし自身が嫌な思いをすることは無くなった。

 忘れるということもなかなか難しいことで、記憶の片隅にあるものが、突然浮かび上がってくることがある。その時にそれを取り上げて、記憶に再度インプットし直すことをしたら、その記憶は整理されて確定してしまうような気がする。忘れたい事は、浮かんで来ても相手にせず、放置しておくに限る。しかし、あまり忘れてしまうと、自分でも痴ほうが進んでいるのではないかと、多少不安になる事もあるので、このブログを書くということは、そうではないということを自分に証明するための、一つの手段になっているといえるのかもしれない。

 年をとってよかったと言えることは、先の事を考えなくてもよくなったということだろう。子供も一人前になって、わしの責任は果たしたし、あとは自分で考えてやっていけばいい。女房は子供や子供の嫁等にもあてにされているし、仕事もしているからいてもらわなければ困るが、一日家にいて何をしているのかわからない様な、わしなんかがいようがいまいが、家族にはほとんど影響がなくなった。これがさびしいと思う男が多いようだが、わしにとっては、この存在感の無さこそ、長年求めてやまなかったものだ。

 そうはいっても、やはり体力の衰えだけは嫌になるな。今の精神状態で20代の体力があれば、あと10552日それは楽しく人生を送る事ができるような気もするが、実際そうなると、それはそれで、いつまでも今生にしがみついて、見苦しい最後になるのかもしれんな。まあ頭も体も弱って、ほどほどに死んでいくのが、家族のため、社会のためになるんだろうな。

あと10553日 ブログ1年

憲法記念日 国旗掲揚せず  

 去年の5月3日(火)憲法記念日に『無駄に生きるとはどういうことか』というブログを書き初めて1年、365日経った。去年3月31日で仕事をやめて、4月から生活が大きく変わった。さまざまな気持ちの変化もあった。わしは終わったブログを読み返すということはほとんどしない。ただ書く事によって、頭の中にある記憶の残滓を捨て去ることができたら、どんなに良いかと思っている。しかし、今日は丁度1年ということで、あまり意味は無いとは思うが、それでも年に1回くらいは振り返ってみるとするかな。

 ちなみに、わしは今の日本国憲法は改正あるいは新しく自主憲法を制定すべきだと考えている。したがって、憲法記念日には、国旗掲揚をしない事にしている。

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あと10918日 はじまり

憲法記念日 国旗掲揚しない

 平成28年3月31日で仕事を辞めた。定年退職後の5年再雇用の契約だったが、あと1年を残して辞めてしまった。経済的な損得で言えば明らかに損だ。女房にはいろいろ文句を言われた。また、周囲からは何かやりたいことがあるのですかとよく聞かれたが、そんなものは無い。生きるために生きてきただけで、別に何かをやりたいがために生きてきたわけではない。生きる手段として仕事を持ち、家族を養い、子供を育て、両親を見送り、仕事をやめた。あとわしが死ねば1つのサイクルが完結することになるが、さていつのことか。

 去年叔父が亡くなったときに叔母から面白い話を聞いた。うちの一族は癌にならなければ94歳まで生きる長生きの家系らしい。そういえばわしの親父も94歳で死んだ。祖母も、親父のいとこ連中もみんな94歳らしい。この話をしてくれた叔母は88歳というので、よせばいいのに「それでは叔母さん、あと6年しかないがな。」と思わず言ってしまった。さすがに少しにムッとしていた。どうやらもっと生きる気らしい。

 3月で辞めたのはこの話が関係している。64歳で辞めれば丁度あと30年になる。今しかないと思った。わしはずっと集文館の3年手帳を使っているが、その4月1日の項目に10950と記入しておいた。365*30で94歳までのおおよその残日数だ。今日5月3日は10918、すでに33日過ぎている。

過去を振り返り、先を見通し、現在を生きる。残された日数すべてを価値あるものとできればいいが、たとえ結果的にそれらが無駄であったと感じたしても一向にかまわない。無駄であるなら精一杯無駄に生きればいいだけだ。

あと0日になるまでじっくり見ていきたい。


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