無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10511日

 わしは、車の運転にはそれほど興味はないので、買うときも、実用性だけを考えて、なるべく安いのを買うようにしてきた。家族だけのときは、シャレード、その後わしの両親と同居するようになって、8人乗りワンボックスのデルタ、次にプレマシー、今はフィットに乗っている。おそらくこれが最後の車になるだろう。

 わしの給料だけではこれだけ乗り換えることはできなかったはずだが、デルタ、プレマシーは、幸いな事にバブル期の株式投資で溜めた金で買う事が出来た。今はどこかと合併したはずだが、当時日本鍛工という会社の株が5倍近くに跳ね上がったことがあったが、これが一番大きかった。

 先日東名高速道路で、車が飛んで来る事故があったが、あのドライブレコーダーの映像を見て、1トンもある車が、空を飛ぶこともある、ということを実感して恐ろしくなった。飛んで来た車は代車として使っていたデミオらしいが、こういう映像を見ていると、やはり安い車は危ないのかなと思ってしまう。乗っていたお医者さんも、普段はどんな車に乗っていたのか知らないが、職業柄もう少しランクの上の車だったのではないだろうか。安い車だけに乗って来たわしらからみると、車のせいではないと思いたいが、どうなんだろう。

 わしは5年前に、一度だけ、わしのフィットが4台買えるという、知人のハリアーハイブリッドを借りて、高速を500kmほど走ったことがあった。こんな車を運転するのは初めてで不安もあったが、実際に高速を走ってみると、高速安定性、加速性能ともに素晴らしく、アクセルを少し踏むだけで楽に追い越しもできる。100キロ越えてもフィットで60キロで走っているような感じだった。高級車の安定性や高速走行性能、安全性は馬鹿に出来ないということを思い知った。その時、運転の好きな人が高級車を欲しがる理由がわかったような気がした。

 今回の事故の場合、この医師が普段ハイグレードの車に乗っていたとしたら、わしとは全く逆の経験ということになる。もしそうなら、馴れない軽いデミオで高速を走るのは細心の注意が必要となるだろう。しかし、いくら最新の注意を払って運転しても、事故は起こる時に起こるもので、原因究明が待たれる。

あと10512日

「高原の駅よさようなら」とか昔の歌をユーチューブで聞いていると、バックに映画の画面が流れていて、そちらを見るのもまた楽しい。古い映画には当然のことだが、蒸気機関車がよく出て来る。この蒸気機関車というやつは、乗るのは嫌だが、走っている姿を横から見るのいいもんだ。若い頃、廃止されていく蒸気機関車を追いかけて、全国を回り写真を撮るのが趣味だという男がいた。最後の北海道では、吹雪の中で死にそうになったことがあったらしい。高校生のときからバイトで金を貯めて、撮影に行っていたと話していたが、すごい執念だと感心したものだった。

 無くなって初めて良さがわかるものというのがあるが、この蒸気機関車は将にそれではないだろうか。白い蒸気と煙突からは黒い煙を吐きながら、シュッシュッと声をあげながら力強く走る姿を見た時、たとえそれが映像であっても、がんばれよと声をかけたくなるのは、知らないうちに生き物のように感じているんだろう。缶の火を焚いて蒸気を起こし、火力を調整して蒸気圧を一定保ちながら走るのは、かなりなテクニックが必要になる。しかも単独で完結しているところが、他から電力をもらう電気機関車とは全く違う。運転士ではなくて機関士と呼ばれる所以だろう。

 蒸気機関車の熱効率は10%以下だったらしいから、発生した熱のほとんどを捨てている。恐らくベテラン機関士で10%、ひょっとしたら新米機関士なら5%以下じゃなかったのかな。しかも、発電所や船舶と違って、あのコンパクトな車体では効率をあげる対策には限界があったことだろう。それが満員の客車や貨車を引っ張って日本全国を走っていたんだからたいしたものだ。

 先に書いたように、乗るのは大変だった。煤で服が汚れるし、トンネルの入るとそれは悲惨だった。昭和38年に小学校の修学旅行で阿蘇に行ったとき、まだやまなみハイウェイが出来る前で、大分から内牧(うちのまき)まで豊肥本線を使ったが、煙の匂いで生まれて初めての乗り物酔いを経験した。特に、最後の外輪山を抜けるトンネルでは、窓を閉めてない奴がいたようで、隣が霞んで見えるほど煙が充満して、わしの他にも3人程酔ったやつがいた。昔、トンネルで殉職した機関士がいたらしいから、本職でも大変だったんだろう。

 結局効率も悪いし、使い勝手も悪いので消えて行ったんだろうが、無くなると懐かしくなるものだ。蒸気機関車だけでなく、映像の中で、たらい、洗濯板、下駄、白熱電球ちゃぶ台等、消えていったものを見ると、あんなことがあった、こんなことがあったと、自分のたどってきた歴史を思い出させてくれる。若い頃、或は子供の頃、貧しかった頃の生活が、その当時に一緒に生きていた人と共に生き生きと蘇ってきて嬉しくなる。これもユーチューブを見る楽しみの1つだと言える。

あと10513日

 わしも若い頃は、女性をつきあったこともあるが、あまり楽しいという印象は残っていない。昔から話はうまくないし、どちらかといえば、黙って聞いているほうだったので、気の利いたことも言えず、会話の間に妙な沈黙が続く事がよくあった。何か言わなければと、あわてて的外れのことを言ってしまって、また沈黙が続くという負の連鎖にはまってしまうことがよくあったが、この沈黙を拒否するタイプの女性は、わしには無理だったな。楽しい印象が残ってないということは、こんな女性が多かったということだろう。そりゃ女性にしてみたら、こんな気の利いた事のひとつも言えないような男と遊んでも面白くないだろう。

 しかし、30歳くらいになると少し状況が変わってきた。女も男も相手を見る視点が変わってくるのかもしれんが、沈黙が続いてもそれほど負担に感じなくなった。わしのほうも結婚相手としての視点から見るようになるし、女性側も30男を全くの遊び相手として見る事はなくなったということだろう。これがお見合いになるとさらにはっきりしてくる。わしは見合い結婚なんだが、これはもう結婚を前提としているから、気の利いた会話とか、妙な沈黙なんかは枝葉末節のこととなり、人としてもっと重要な面が表にでるようになるんだろう。

 若いときは振ったり振られたり、ゲームのような感覚でやれたが、歳をとってくるとそうもいかない。其の点、お見合というのは利にかなった方法なんだが、最近周囲でもそんな話は聞かなくなった。昔はやり手の生命保険のおばちゃんとか、いつも写真を持ち歩いて世話をしていた。自分の顧客も増えるから一石二鳥ということなんだろう。それにしても、恋愛しなくても結婚できる、こんな便利で役に立つ、お見合いというものが、なぜ廃れたきたのか不思議でならない。

 もしも恋愛をしなければならない結婚できないとしたら、下手をすればわしも結婚できなかったかもしれない。若くもないしスマートでもない、口べただし、人と会うのも、電話するのも苦手だ、給料はやすいし、第一にあまり家からでない。性格はそんなに悪くないと思うが、そんなことは遊び相手ではなかなか理解してもらえない。其の点お見合いなら相手も見た目、収入、年齢なんかは、わかった上で付き合うので話が簡単だ。それに1番大切なのは、似た様な家庭環境の人を紹介してくれるということだろう。結婚を前提としている以上これは大切な事だ。

 うちの子供は3人とも自分で探して来たので親の出番はなかった。そういうところは親に似なかったようだ。結婚は恋愛の延長にあるものではない。結婚して家庭を持ち、子供ができたら、人生が変ることも事実だ。そのチャンスが誰にでも満遍なくまわってくる方法と言えば、お見合いしかない。日本のこの優れた制度にもう一度陽を当てることが、少子化対策にもつながると思うんだが、じじいの戯言かな。

あと10514日

 親父はわりと映画が好きな方で、よく一緒に連れていってくれた。わしが子供の頃はまだ映画全盛の時代で、家の近くにもH劇場、D劇場の2軒の映画館があったし、洋画のD劇、G映なんかもよく連れて行ってくれたが、洋画は字幕なので中身はよくわからなかった。今浮かんでくるだけでも、「なぐりこみ艦隊」「南太平洋波高し」「機動部隊」「二等兵物語」「無法松の一生」「隠し砦の3悪人」「蜘蛛の巣城」「ゴジラ」「四谷怪談」「番町皿屋敷」「コマンチェロ」等いろいろあるが、三船敏郎と西部劇、戦争映画が多かったような気がする。若い頃みた三船敏郎の「酔いどれ天使」が面白かったとよく話していたように、三船敏郎の映画はほとんど観ているんじゃないだろうか。

 中学生になると1人で見に行くようになった。本当は推薦映画以外はいけなかったはずなんだが、見つかったことはなかったから、それほど厳しくなかったんだろう。中学1年生の夏に「チコと鮫」というのを見に行ってその音楽と奇麗な映像に感心したことがあった。子供心に、映画のように南太平洋の島でかわいい女の子と一緒に泳げたら楽しいだろうなと想像したのを覚えている。

 その後、学校帰りに時々友達と見に行くようになり、ディーンマーチンのサイレンサーシリーズやパッツィ・アン・ノーブルという女優が出ていた「殺しへの招待(Death is a Woman)」という映画などを見に行ったことがあった。この映画には後ろ向きだが、ビキニのひもをほどいて、裸になるシーンがあり、わしらの間で話題になった。22歳のときにビルマで同じ映画をみたが、確かにそのシーンはあったが、別にどうということのない単調な映画だった。ガキどもは一体何を期待していたのかな。

 当時の文部省推薦映画に「キスカ」や「青島要塞爆撃命令」というのがあった。今なら、舞台が軍隊だからという理由で、少数だが声が大きい集団が反対するから無理だろうな。それだけ社会が偏ってきたということなんだろう。1つは命をかけて味方を助けに行く話だし、もう1つは当時は珍しかった飛行機を使って、苦労しながら要塞を攻撃するという話で、子供の教育にも役立つ立派な作品だった。このような作品が、推薦映画になる日が再び来る事を期待している。

あと10515日

 中学生の時の歴史のOK先生は、面白い人だったが、それだけでなく、授業もなかなか歴史の本質をついた役にたつものだった。このOK先生はもちろん戦前の教育を受けて育った人だったので、天皇の名前はすべて丸暗記していた。神武綏靖安寧懿徳孝昭...大正今上まで、最初の授業の時にすらすらと言ったのには、わしらみんなびっくりした。親父も知っていたから、当時の子供は尋常小学校で覚えさせられたんだろう。子供のときは、役にたとうがたつまいが、何事でも有無を言わせず丸暗記させるということも大切ではないかと思う。

 また、OK先生は国語の先生かと思う程、漢字にうるさかった。授業中でも、試験でも漢字の間違いは必ず指摘していた。わしらにとって、特に厳しく感じたのは、歴史の教科書にでてくる人名、地名、年号等、漢字で書かれているものは、すべて漢字で書かなければ、点がもらえなかったということだった。例えば「親鸞」を「しんらん」と書いたのでは零点とされるし、ナポレオンの説明で『予の辞書に不可能の文字はない』という一節を書いた時、『予』と『余』と直されて1点減点されていた。

 こんな感じだから、歴史の試験勉強も半分は漢字の練習になっていたが、今から思うと、歴史の細かな内容なんかよりも、この時身につけた、歴史的事項は漢字で書くという習慣のほうが、その後の生活において、よっぽど役に立っていると感じることがある。漢字と言えば、わしが船の学校に入学した時、最初の現国の授業で、担当のK教官が言ったことを今でも覚えている。「君たちは卒業すると、商船士官として部下を指導する立場にもなるんだから、きちんとした文章が書けないと恥をかくことになる。其のためにはまず漢字を正確に覚えることだ。したがって、この現国の授業では、1年間漢字だけ覚えればよろしい。」と言って、ほんとうに1年間、試験は漢字だけだった。

 こんな島の学校の先生だが、このK教官は旧制広島高等師範学校、旧制東京文理大学卒のエリートだった。数学のK教官は弟で、この人は京都帝国大学卒、古典のT教官は東京帝国大学卒、物理のTK教官は京都帝国大学卒で仁科研究室にいたらしい、とにかく今から考えたら高等学校レベルの学校にこのような学歴の先生がいたことが信じられないくらいだ。特に物理のKT教官なんかは、突然授業中に黒板一杯に数式を書いて、相対性理論だと言い出したり、物理の教科書の何ページに1カ所間違いがある、それをみつけたら物理は100点をあげると言ったり、よくわからない不思議な人だった。体を壊して東芝の研究所を辞めて島に帰ってきたらしいが、天才だったんだろう。

あと10516日

 去年11月の、北陸の白山ひめ神社と敦賀気比神宮参拝の旅以降、神社参拝旅をしてないので、そろそろどこかに出かけたくなってきた。行くとすれば、以前から宗像大社参拝をしたいと思っているんだが、交通の便が悪いので、ここだけで1日がかりになりそうだ。ここは辺津宮、中津宮、沖津宮と三カ所に別れていて、沖津宮は行く事はできないので、辺津宮と中津宮を参拝する事になる。

 ここの主祭神については古事記にも書かれている。

『故(かれ)、其の先に生(あ)れませる神、多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)は胸形之奥津宮(むなかたのおきつみや)に坐(ま)す。次に市寸嶋比売命(いちきしまひめのみこと)は、胸形之中津宮(むなかたのなかつみや)に坐す。次に田寸津比売命(たぎつひめのみこと)は、胸形之辺津宮(むなかたのへつみや)に坐す。.........。』

となっているが、おかしなことに宗像大社のホームページを見ると、沖津宮は多紀理毘売命で変らないが、市寸嶋比売命が辺津宮のご祭神となり、田寸津比売命が中津宮のご祭神となっている。今度行く事があったら聞いてみたいと思っている。

この後、古事記に出てくるのは多紀理毘売命だけで、あとの二神は出て来ない。

『故、この大国主神(おほくにぬしのかみ)、胸形奥津宮に坐す神、多紀理毘売命に娶(みあ)ひて、生(う)みませる子、阿遅しき高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)、次に妹高比売命(いもたかひめのみこと)、亦の名は下光比売命(したてるひめのみこと).......。』

 この下光比売命高天原から使わされた天若日子の妻となるが、天若日子が邪心を持ったために、高木神によって衝き返された矢に当たって死んでしまう。それを悲しんで下光比売命の泣く声が風にのって高天原まで聞こえて来るという話になっている。

  このように、古事記神代巻を少し知っていると、神社参拝の旅にも、より興味がわいて来る。また、ここに出て来る神以外は日本には存在しない。相曾誠治氏によると、新興宗教などに、よく似た名前の神がでてくるが、少しだけ変えていて、間違っても古事記にでてくる本当の神の名前を名乗る事はないそうだ。

あと10517日

 日本人は痔の悪い人が多いらしい。痔というのは人に見せるものでもないし、医者にも行きにくいので放置することが多いようだ。わしの周りにも何人かいるようだが、医者に行ったのは1人だけだ。胃が痛いとか、風邪引いたとかいうときは、すぐに行くのに、やっぱり抵抗があるんだろう。まあそれですんでいる間はいいんだが。

 じつはわしは今までに2回、23歳の時と55歳の時に、肛門科にお世話になっている。23歳の時は、出血で便器が真っ赤になってあわてて病院に行ったんだが、こういうことでもなければ行かなかっただろう。便器が赤くなったら、気が動転してしまうが、実際の出血量はたいしたことはないんだよと医者に笑われた。そのときはまだ手術までする必要は無いと言われて、肛門に注射を打って直した。

 その後40歳を過ぎる頃迄は快調だったが、少しずつ症状が出始めて、55歳でとうとう我慢できなくなった。診察を受けると今度は初めから手術を勧められた。どうせ下剤で腸のなかを奇麗にするんだからと、ついでに大腸検査も勧められた。そして、3日後に入院して、まず大腸検査、次に日に痔の手術という段取りになった。

 当日午後1時頃に手術室に運ばれ、脊髄に局部麻酔を注射して、下半身を麻痺させて手術が始まった。2人の医者が何か楽しそうに話しながら準備をしているようだった。意識はしっかりしているので、聞くとはなしに聞いていると、「う〜ん、これは立派なものだな。切るのが惜しいな。」どうやらわしのイボ痔のことを言っているようだ。「そうですね、これはすごいですね。」「先生、ここ、スパットいきますか。」「うん、そこいこう。」ジュウと音がして部屋の電気が一瞬暗くなる。電気メスの電流が流れたんだろう。とつぜんタンパク質の焼ける匂いがしてきた。「先生、これもすごいですね。」「そこもスパットいってください。」ジュウ、そして匂い。こんなことを繰り返しているうちに終了した。医者同士の会話も面白かったし、思ったより楽で、拍子抜けだった。

 だが、本当にしんどかったのはこれから後だった。痛いし出血すると聞いていたので、最初の排便時の恐怖はかなりのものだった。終了後水を流さずに、状態を看護師に見せるようにいわれていたが、なかなか出ないので、何回も様子を見にきてくれた。何とかその関門も突破して、3日目に退院となった。それからの生活はじつに快適で、なんでもっと早くやらなかったのかと悔やまれた。これがあと29年もてばいいのだが。わしはこの経験から、痔が悪いと言っている人には必ず手術を勧めてきたが、わしの話を聞いて手術をした人はまだ誰もいない。まだまだ切羽詰まってないんだろう。足の骨を折って整形外科に行くのと同じ事なんだが、肛門科の敷居は高いようだ。