無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10435日

 今朝、掃除しながらユーチューブで歌を聴いていたら、若い頃の大津美子が「ここに幸あり」を歌っていた。わしがこの歌を初めて知ったのは、小学校3年生の時、地元テレビ局で、土曜日の12時15分から放送していた「テレビ結婚式 ここに幸あれ」という番組を見ていたからだ。丁度昼食時だったので、たいてい、おふくろと一緒に見ていた。

 その番組の冒頭に、この大津美子の「ここに幸あり」が流れていた。

「嵐も吹けば雨も降る、女の道はなぜ険し、君を頼りに私は生きる、ここに幸あり青い空」

「誰にも言えぬ爪の跡、心にうけた恋の鳥、泣いて逃れてさまよい行けば、夜の巷の風かなし」

 たぶんその頃は、意味もよくわからなかったと思うが、2番の「爪の跡」と言う言葉が気になって、おふくろに聞いたような気がする。聞かれたおふくろも、比喩と言ってもわからない子供に説明するのは大変だっただろう。集団就職で東京に出て来てきた人同士の結婚式なんかも多く、若い根っ子の会という名前もこの番組によく出てきていた。電化製品とか洗剤一年分とか、当時としては景品が豪華だった。

 またこの歌は、昭和49年、タンカー乗船中に、一緒に当直に入っていた操機手のKさんが、当直中に時々大きな声で歌っていた。Kさんはわしより2歳年上で、新婚ほやほやだった。或る時、Kさんがわしの部屋に週刊誌を持って来て、これだといって見せてくれたのが、丸の内あたりのOLを紹介したグラビア一面で微笑んでいる奥さんだった。さすが週刊誌のグラビアを飾るだけあって、なかなかの美人だった。Kさんは、こんな美人の奥さんと、半年以上離れて暮らさなければいけない船乗り稼業の悲しさを、「ここに幸あり」を大声で歌って紛らせていたのかもしれんな。

 「君を頼りに私は生きる」と、そこまで言われたら、今の男はちょっと引いてしまうんじゃないかと思うが、女性が専業主婦になるということは、そういうことではないのかな。もちろん昔も今も、直接こんなことは言わないだろうが、昔は結婚するということは、それが暗黙の了解になっていたんだろう。或る意味、男に人生をかけるということになるんだろうか。

 男は偉そうにいっても、いたって小心で、なかなかここまで思い切れない。そして、どこかに逃げ道を残しておかないと落ち着かない。女性はそこに飛び込んでいけるということは、男とは違う何かがあるんだろう。命をかけて子供を産む女性と、それを見ているだけしか出来ない男、やっぱり、ここらあたりに根本的な違いがあるのかな。

あと10436日

 毎日毎日、家で同じ事を繰り返していると、確かに単調で嫌になることもある。毎日仕事に行けば気分が紛れるかもしれないと考えることもある。しかし、もっと広い視点で見ると、家を出て仕事に行ったところで、朝出勤して、何かしらの業務を行い、夕方家に帰るという、同じ事を繰り返していることに変わりはないということに気が付くだろう。

 さらに別の視点で見みると、生まれて死んで行くということすら、1つの単調なパターンを、何世代にもわたって繰り返しているにすぎないとも、いえるのではないだろうか。更には地球の自転公転すらも単調な動きだといえるかもしれない。そういう見方をする限り、世の中に単調で無いものなど、存在しないと考える事も出来る。

 結局のところ、個人個人がそれぞれ考えているパースペクティブの違いが、その時の気分に変化を与えているのではないだろうか。例えば、人生が単調で退屈だと思う人がいたとして、その人がそう感じた時、どのようなパースペクティブを通して見ているのかということを理解できれば、対処することができるのではないか。つまり、人生を第三者的な目で俯瞰するのではなく、細部に焦点を合わせて、虫眼鏡を覗いてみれば、ちょっとした会話や出合い、こころのときめき、喜びや怒り、じぶんが仕出かした仕事のミスですら人生における彩りとして、輝いて見えてくるのではないだろうか。

 例えば、毎日の生活が単調だと感じた時、今見ている、一日の生活というパースペクティブから離れて、今この瞬間にやっていることの意味を考え、1つ1つ動きに意識を集中させることができれば、単調でも退屈でもない、変化に富んだ時間の流れを感じることができるのではないか。

 現実とは実に冷酷で、正直なものであり、その現実を変えることは誰にも出来ない。しかし、一方現実とは単なる事実の羅列であり、それ自身何の意味も持たないものだ。現実に意味を持たせるのは一人一人の個人であり、個人がそれぞれ自分の見たい現実を現実として見ているだけであるとするならば、見方としてのパースペクティブも、自分で選ぶ事ができるはずだ。様々なパースペクティブを通して意味を考えることで、また違った生き方ができる様な気がしている。

あと10437日

 今日は、昨日までのような暑さを感じない。気温は33度で、ほとんど変らないんだが、あのめまいがするような暑さとは違って、少し日差しが柔らかくなったような気がする。日中、2階に上がっても、座っているだけで汗が吹き出してくるという、状況ではなくなってきた。確かに66回目の秋が近づいてきている。

 昨日長女一家が来て、夕食を食べて帰った。ここの2人の子供は元気で、季節の変わり目も関係ないが、長男の子供は喘息もちで、まだ、それほどひどくは無いが、これから先、この季節は辛い思いをするようになるんじゃないかと心配している。わしも3歳くらいから小児喘息で、秋の運動会は欠席が多かった。今はいい薬があるから、わしらの頃みたいに苦しむ事はないとは思うが、喘息が、子供にとっては大きな負担であることに変わりはない。

 二男一家からは、何も言ってこないので、それならうまくやっているんだろうと、思う事にしている。何歳になっても子供は子供で、心配の種が尽きることはない。年金は、雨が降ろうが槍が降ろうが、2ヶ月に一回振り込まれるので、生活には困らないと言ってはみても、経済的な支援をしてやるための、原資が無いというのは、ちょっと辛い面もある。まあ、金が無いことは、子供等はよく知っているので、全く期待はしてないとは思うが。

 親父は、当時は定年制がなかったので、県職員を55歳で辞めて、再就職、再々就職で働いた後、94歳まで生きたんだから、働いた期間より老後の方が長かった。従って、遺産と言ってもそんなには無かったんだが、親父は再婚で、他に子供が2人いた関係で、遺産分割協議はちょっと面倒だった。葬儀後、兄貴はさっさと帰ってしまったので、わしが相手との交渉を行うことになり、いろいろ嫌な思いもした。

 しかし、面白いもので、金が絡んだ話というのは、みんな自分に正直になる。こんな経験、誰もができるものではないから、いろんな人間模様をみせてもらって、いい勉強になったと言えるのかもしれない。それでも、全て完了したときは、どっと疲れが出たな。親父の遺産と言うのは、親父とおふくろが、爪に灯をともすようにして、貯めて来たもので、その形成過程に前妻や、その子供は何ら関与してないにも関わらず、法律で1/2の権利を持つということには、今でも釈然としないものがある。

 引き出しの中に、遺言状らしきものはあった。その中には、前妻の子供のことは、一言も書かれてなかった。日付が無かったので、正式な物ではないとはいえ、わしと兄貴に、全部残したいという親父の意志は、はっきり示されていた。しかし、これは見せなかった。もし、これを見せたら、向こうは、最後迄、自分の父親に捨てられたような気がして、親父を恨み続けるかもしれない。いずれにして折半するのなら、それが親父の気持ちだということにしておいたほうが、少しは親父に感謝するかもしれないと考えた。

 向こうも機嫌良く帰ったから、これでよかったんだろうと思っている。幸い、わしの子供等はこんな苦労をすることはないから、その点はわしも安心して死ねるかな。

あと10438日 インド洋漂流

 最近、アメリカ海軍イージズ艦の事故が続いているが、衝突した船は、暫くその海域で漂流する事になる。そして漂流中は、周囲の船にわかるように、それなりの信号を掲げることになっている。わしは、子供の頃は、大型船が漂流するなどということは、考えたことも無かったが、実際に船に乗ってみて、案外多いということを知った。

 当時は、大体が機関の故障修理がその原因だったが、同期生の元機関長に聞くと、最近の船は、機関室の機器も、ほとんどがメンテナンスフリーになって、2年に一度の定期点検以外で、開けることはないと、言っていたから、機関故障のために漂流ということも減っているのかもしれない。

 わしは、Tタンカー入社前に、健康診断受けるように本社に呼ばれた。その時、休憩室で一緒になったのが、乗船のため、本社に来ていた沖縄出身のWさんだった。Wさんはわしより半月程早く、最新鋭の、Piggotという名前の、30万トンVLCCタンカーに乗船するため、羽田空港からロッテルダムに飛んで行った。それから暫くして、わしの乗船も決まった。その時に会社に貼ってある、船舶動静一覧表のPiggotの欄に、見慣れないマークがついているのに気が付いて、担当者に聞くと、メインエンジン故障のため、現在アフリカ沖大西洋を漂流中ということだった。

 この Piggotという船は、所謂『はずれ』で、航海中に蒸気タービンのカバーをはずして修理するという、希有な事態になっていた。しかも、現在その部品をヘリで輸送中というのを聞いて、その時は、すごいことをするもんだと感心していたら、実際に乗ってみたら、この会社は部品どころか、交代要員までも、航海中の船にヘリで降ろしていたから、そんなに珍しいことでも無かったようだ。「Wさんは運が悪かった、○○さんはこれに乗らなくてよかったね。」と担当者に言われたが、わしの乗ったJhonsonという10万トンタンカーも、7ヶ月で2回漂流したから、やっぱり多かったんだろうな。

 漂流中は、機関部は高温の中で、食塩の錠剤で塩分を補給しながら、作業を行っているが、甲板部はこれといって用事はない。この時位、機関士ではなく航海士になっとけば良かったと思ったことはなかった。機関部全員で9名のうち、2名が当直中だから、残り7人。これを3つの班に分けて、1つの班の作業時間5分で次の班と交代する。これを何回も繰り返すんだから、終わったときは、体重が何キロも減ったような感覚で、こんな事が頻発したら体がもたんなと思ったもんだ。

 作業が完了して、ふらふらで甲板に上がった時に見た、アフリカ沖インド洋の夕焼けがあまりに奇麗だったので、写真に撮った。夕日を眺めていると、こんなことやっているのが、嫌になってきたのを覚えている。

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 じつは海上では、水平線から日が昇ったり、水平線に日が沈むということはほとんどない。水平線あたりにある雲に遮られてしまうので、あまりいい写真は撮れない。今のデジタルカメラがあれば、もっとたくさん撮ったんだが、持っていくフィルムの量も限られるので、枚数もそんなに撮れなかった。種類の違うスライド用フィルムを持って行ったなかで、コダックエクタクロームは45年たった今でもきれいだが、フジクロームはかなり退色している。昭和48年当時は、ドル円の格差と同じように、フィルム技術に関しても、まだまだ日米には大きな差があったようだ。

あと10439日 思い出のスカイライン

 昭和41年秋、中学3年の修学旅行で阿蘇、熊本、鹿児島、霧島、青島を回った。船で別府まで渡り、そこから出来たばかりの「やまなみハイウェイ」を通って亀の井バスで内牧のホテル、蘇峰館へ向かった。残念ながら、わしはすぐにバスに酔ったので、この間のことはほとんど覚えてない。

 もう半世紀も前のことで、国にも社会にも余裕がなかったこの時代、田舎へ行くとそこには本当の田舎があった。都会ではなく南九州をバスで回って、全国が均質化する前の日本の姿に触れることができたということは、今の子供等が海外修学旅行するよりも遥かにインパクトがあったような気がする。

 翌日、バスで水前寺公園熊本城を見学後、鹿児島へ向かった。水俣を通った時、ガイドさんは水俣が世界に誇るチッソ水俣工場と紹介していたが、当時既に有機水銀中毒の患者が発生していたはずだ。まだ一般的では無かったとはいえ、本当に無知とは恐ろしい。阿久根海岸を走るときは「鹿児島が誇る阿久根海岸」と紹介していたから、こんな言い回しが、当時のガイドさんの決まり文句だったんだろう。

 鹿児島では城山に登って、西郷隆盛が自決した洞窟を見学したが、その頃は、言われなければ通り過ぎてしまいそうな、何の飾りも無い普通の洞窟だった。弾が当たって倒れた西郷さんがその洞窟に運ばれて、「もうここらでよか。」と言って自害したとガイドさんが説明してくれたことは、なぜか鮮明に覚えている。わしも西郷さんが最後に歩いたのと同じ道を歩いて、ここまで来たのかと感慨無量だった。桜島を見た後、バスで霧島温泉の霧島観光ホテルに向かった。

 さて、翌朝から宮崎交通のバスになり、えびの高原を走っている時ガイドさんに教えて貰い、みんなで歌った歌があった。「思い出のスカイライン」という、なかなかいい歌だったが、不思議な事にその後一度も聞いたことがなかった。わしは何でもよく覚えているんだが、それでも一番しか覚えていない。クラス会の時聞いてもほとんどの者が忘れていた。

 最近ユーチューブで、よく古い歌を聴くようになり、ちょっと調べてみたらすぐ見つかった。宮崎の修学旅行で、同じ様な経験をした人が、他にもたくさんいたようだ。この歌は、宮崎交通が宣伝用にプロに頼んで作った歌で、南九州以外では聴けなかったようだから、わしがその後一度も聴いた事がないのも当たり前だった。途中カールブッセの「山のあなた」の一節が使われていて、いい歌だ。

  

♩♬「思い出のスカイライン」よかったら一度聴いてみてください。

www.youtube.com

 わし等の子供の頃は、家族で旅行に行く事も無かったし、旅行といえば修学旅行くらいしか思い付かない。今でもこうして思い出せるんだから、船や、バス、汽車に乗って知らない地方を回って、見聞を広めるという役割は、十分に果たしていたと思う。

 とは言え、今もう一回行ってこいと言われたら、それは勘弁してほしい。ああいう旅行は子供だから楽しめるし記憶にも残るので、今更バスの中でみんなで「思い出のスカイライン」なんか歌いたくもない。この歳になって考えるのは、引率の先生は、さぞや、大変だっただろうということだ。夜の晩酌くらいは大目に見てあげよう。  

あと10440日

 ついこの間まで、部屋の中に届かなかった日差しが、30cm程差し込んでいるのに気が付いた。そう言えば、毎朝、ツバキの木で鳴いていたクマゼミの声も、いつの間にか聞こえなくなっているし、暑い暑いと言ってはいても、秋は確実にやってきているようだ。それにしても最近の暑さは尋常ではない。昭和36年、近所の公園に50m、25m、飛び込み、幼児プールを持つ市営プールが完成して、夏休みになると、2時間30円を払って、頻繁に泳ぎに行くようになった。そこの入り口の黒板に、気温水温が書かれてあったのを覚えているが、気温が30度を超えたという記憶は、ほとんど無いから、同じ夏と言っても、今と比べたらやはり、涼しかったんだろう。

 さて、漂白液での除草シリーズだが、今日は5〜7倍に薄めて撒いといたから、3日くらいで結果がでるはずだ。今回は椿の木の近くにも撒いたので、雑草の状態と木への影響も同時にわかるだろう。まさか、椿が枯れるほどの、効果は無いとは思うが、何かあっても、その時は仕様がない。昭和天皇は、雑草と言う草は無い、どの草にでも名前があるんだよと、言われたそうだが、それはそうかもしれないが、かんかん照りの下でも、所構わずどんどん伸びて来る、これらの草は、やはり、雑草と言う名が、一番相応しいのではないのかな。

 漂白剤を撒いた時、ふと思い出して、3月に、水漏れを修復した、排水舛がどうなっているか、蓋を開けて覗いて見る事にした。5月頃に一度、水漏れがないことは確認していたので、今回も軽い気持ちで蓋を開けた。もちろん小さな蜘蛛とか、虫がいることは覚悟していたが、今回ばかりは、本当に腰が抜けそうになった。なんと、黒光りするでっかいゴキブリが、壁の部分、底の部分と、7〜8匹がごそごそと蠢いていた。

 春にはいなかったんだから、何処かから、はるばるやって来たものだろう。ゴキブリは、本当に排水管を伝って移動するんだと実感した。台所から流れてくる物を、食べているんだろうが、あんな見事なゴキブリの集団は、最近見た事が無かった。あわてて蓋をした後、ゴキジェットProを持って来て、蓋を少し開け、隙間からノズルを中に突っ込んで吹き付けてやった。すると奴ら、その隙間から、わらわらとはい出して来たではないか。これには、さすがにぞっとしたな。

 逃がすものかと、ゴキジェットのパワーで、全部を排水舛の中に吹き飛ばして、急いで蓋をした。ゴキブリは、何億年も変らずに、生きてきたらしいから、すごい生命力なんだろうが、何十億年でも生きていいから、頼むから、わしの目に触れない所で生きてくれよと、お願いしたいもんだ。どこにでも生える草は、名前も呼ばれずに、ただ雑草と言われているが、どこででも生きるゴキブリは、雑虫ではなく、ゴキブリと名前で呼ばれるだけ、まだ、ましなんだろうか。 

あと10441日

 毎日暑いのに、次から次へと用事が増えていく。昨夜、エアコンから再び水漏れしているのを、発見してしまった。8月4日に修理に来てもらって、一応止まっていたんだが、連絡するべきかどうか、頭を悩ませる。更に、昨日、脳幹出血で半身不随になり、施設に入所している女房の兄から、テレビのリモコンが壊れたので何とかしてほしいと電話があった。これは、今朝、エディオンで汎用リモコンを買って、持っていったので解決済みだ。以前から、庭の草を抜くように言われているが、この暑いのにそんなことをすると、熱射病で倒れてしまいそうだ。それで、わしも見なかったことにして、ほうっておいたら、青々と茂ってきた。こいつら、なんでこんなに元気なんだろうな。

  除草剤は撒いたらいかんと、親父に言われていたので、撒いた事はないんだが、この暑い中で、草抜きは勘弁してほしい。そこで、去年、近所の人に教えてもらった方法を試してみる事にした。この人は、わしより5〜6歳年上の、総合商社S商事の元社員で、庭木の事とか、化学関係は滅法詳しかった。これは、ここだけの話だが、あと10840日で、既に封印した、あの「狐のばばあ」の家の人だ。

 方法はいたって簡単で、次亜塩素酸ソーダを水で薄めてまくだけだ。ただ、どの位に薄めるかについては、教えて貰えなかった。本人も、そこまで確信は無かったのかもしれんな。今回は、花王のハイターはバカ高いので、以前買っておいた、中身は同じロケット石鹸の漂白剤を使って、試してみることにした。木には影響は無いと、言ってはいたが、ちょっと不安なので、手始めに3倍に薄めたやつを、隅っこの方に500cc程撒いて様子を見る事にした。

 3日後、撒いた所と、撒かなかった所との違いは、以下の通りだ。

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3日後

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女房は、3倍ではまだ濃すぎて、梅の木に影響がでるんじゃないかと心配しているので、これから5倍、7倍、10倍と薄めていって、効果を試してみるつもりだ。害があると言ったところで、原料が次亜塩素酸ソーダ単品なんだから、市販の除草剤ほどの毒性はないだろう。