無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10428日

 女房の母親が2か月に1度大学病院にかかっているので、今日は朝7時30分に家を出て連れて行った。わしは仕事をしてないので、いつでも行くよとは言ってあるが、この役目は通常は女房の弟がしている。わしが行くときは、母親も気を使ってかどうか、いらないといっても、ガソリン代だといって2000円くれるんだが、この歳で親から小遣いをもらうというのもちょっと気が引けるもんだ。

 昼頃まではかかるので、春や秋の気候の良い頃なら車の中で寝てればいいが、夏や冬はそうもいかない。自動販売機近くの飲食コーナーで本を読んだり、病院内を歩いたりして時間をつぶしていた。それでも3時間待つのは大変なことだった。そこで、今回から、先月初めて行ったあの「さくらの湯」という温泉で、湯につかりながら時間をつぶすという妙案を思いついた。

 このさくらの湯は、大学病院から車で約10分ほどのところにあり、診察終了後に電話をもらえば、会計を済ませている間に迎えに行くことができる。女房と母親を病院で車から降ろして、わしは温泉へと向かった。この温泉は、親父も若い頃仕事の帰りに入ったことがあったらしいから、ずいぶん昔からあったようだ。もちろん建物はその頃のものとは違ってきれいになっている。

 入り口で65歳以上の高齢者料金310円を払って脱衣所へいくと、先客は5~6人の、わしより高齢者の人たちだった。まあ、平日のこの時間に若い人がいるわけはないわな。しかし、この人数にはちょっと驚いた。というのは、駐車場で車から降りたとき、露天風呂のほうから、大きな話し声が聞こえていたので、てっきり団体客でもいるのかと思っていたんだが、なんとあの大声は、1人の人のワンマンショーだった。声が大きいのは財産で、羨ましいかぎりだが、風呂ではほどほどにしてもらわないと、わんわんと反響して頭がしびれてくる。今時、野球談議に花を咲かせていたから、長嶋だ王だと、1局しかない民放で、巨人戦のナイター中継を見て熱くなった世代は不滅だな。

 帰りに、河庄という料理屋で鯛のあら煮定食を御馳走してくれた。新鮮な魚料理で有名な店で、料金も安いので昼時になると満席になってしまう。あら煮はわしも家で時々つくるので、料理屋のあら煮がどんなものか楽しみにしていたが、ちょっと辛かったな。そんなことよりも一番気になったことは、肋骨の部分にほとんど身が付いて無いということだ。料理人が上手だと、ここまできれいにそぎ落としてしまうのかと感心してしまった。やっぱりあら煮は、魚屋で売っている、身が一杯ついたのを買ってきて、うちで作るにかぎるな。

 

 

あと10429日

 わしは昭和47年に、上野動物園に初めてやって来たパンダのカンカン、ランランを、公開初日に見に行ったことがある。正面ではない、特設のパンダ専用入り口に朝から並んで、先頭近くの好位置をキープしていた。最近気が付いたんだが、案外これは貴重な経験といえるのかもしれんな。開園後3列か4列になってぞろぞろとパンダ舎の前まで案内された。わしは3列目くらいだったので、前の人が邪魔になり、立ち止まることもできないので、パンダがどこにいるのか探しているうちに押しだされしまった。

 当時わしは、川崎にあった日立造船神奈川工場に入渠中の練習船北斗丸に、10月の末頃から実習生として乗船していた。それで日曜日にパンダ初公開があることを知り、友人のN君と一緒に東神奈川から上野まで出かけて行ったということだ。東京へ遊びに行ったのは、この時が生まれて初めてだったので、人も多いし、ちょっと緊張したように覚えている。パンダを見た後、N君とボウリングをやろうということになり、上野あたりをあちこち歩いたが、ボウリング場が見つからなかった。

 さて、どうしようかと相談した結果、以前から東京に行くことがあったら是非行ってみたいと思っていた、靖国神社に行こうということになった。しかもだ、まさにここは上野駅、あの歌、「九段の母」のように歩いて行ってみようと話はまとまった。いささか変わった若者ではあったようだ。

上野駅から九段まで、勝手知らないじれったさ 杖を頼りに一日かがり せがれ来たぞや会いに来た。」

 途中で道を尋ねたら、歩いて行くのかと驚かれたが、「九段の母」の話をするともっと驚いていた。戦後27年目だったから、40歳以上の人ならたいてい知っている歌だった。あちこちで目印を教えてもらったりしながら、ようやく着いたのは、遊就館が閉まる1時間くらい前だった。年寄りが杖を頼りに歩いたら、本当に一日かかるだろう。さすがにへとへとだったな。

 遊就館では、戦死者の写真が並んでいたので、伯父のもあるのかなと探してみたが、数が多すぎて全部を見ないうちに閉館時間になってしまった。この後参拝して靖国神社を後にした。覚えているのはここまでで、どうやって帰ったかということは全く覚えていない。

 思えばこの頃から翌年の9月までが人生のピークだったような気もする。4年半の座学から解放されて、やっと航海実習が始まり、まさに前途洋々のように感じられた。何をしても楽しく、悩むことなど何もない、まことに清々しい気持ちだった。しかし、21歳が人生のピークというのも困ったもので、それから45年、あの頃のような清々しさを感じたことは一度もない。

 言い方を変えれば、そこからがわしにとっての真の人生の始まりでもあり、生きる価値の再発見への道程の始まりでもあった。そして、そのことに気が付いた以上、もうあの頃の自分にもどることはできなかった。その後歩んだ45年はそれなりに満足はしている。それでもたまには、全てを忘れて、一瞬でもいいから、N君と無邪気にパンダを見に行った、あの頃に帰ってみたいような気がするのも事実だ。

あと10430日

 気温も少し下がったので、朝から長男が購入した古家に行って窓を開けて風を通してきた。定期的に風を通さないと家が痛むというので、月1回か2回やっている。8月にみんなで行って草刈り剪定をやったにもかかわらず、2週間ほどで庭は草ぼうぼうにななって、一部は塀を乗り越えて道路にまで達していた。黒い子猫がうろついていたから、前から住み着いていた黒猫が子供を産んだようだ。ゴミが散乱していたのも、おそらく猫の仕業だろう。

 猫というのはやっかいで、家から離れない。この家を壊して更地にしてしまえばいなくなるのかもしれないが、リフォームだとそのまま居つくんじゃないかと心配している。うちは猫は飼ったことがないのでわからないが、わしの友達のK君のお母さんは猫が大好きで、猫嫌いのおばあちゃんが亡くなるとすぐに猫を飼い始めた。そのおばあちゃんが元気だった頃、小学生のK君が、「おばあちゃんが死んだら猫を飼ってもいいんよね。」と、おばあちゃんの前で言うので困ったと、話していたことがあったな。

 わしが小学校5年の時に犬を飼い始めたが、おふくろは最後まで反対していた。結局わしら兄弟で世話をするという条件で飼ってくれたが、そんな約束は半年も続かず、世話はおふくろの役目になってしまった。おふくろが反対した理由はそれだけではなく、死ぬのをみるのが嫌だということがあったらしい。

 兄貴が田舎の駐在所で生まれた頃、大きな黒い犬を飼っていた。ある朝、その犬がお百姓に鍬でたたかれて、血だらけになって家まで帰ってきたが、かわいそうに死んでしまった。今みたいにペット病院があるわけでもないから、どうしようもなかった。犬も腹が減って畑のものを食べたのかもしれないが、鍬でたたき殺すことはないだろう。おふくろはこの十数年前の出来事がトラウマになって、二度と犬は飼わないと決めていたらしい。

 おふくろにしたら無理をして飼ったこの犬も、たった5年で死んでしまった。わしらはすでに家を出ていたので、電話で、ぺすが死んだよと聞いただけだったが、ずっと世話していたおふくろは結構つらかったみたいだ。人でも犬でも親しい間柄のものに先に死なれたら、それは悲しい。悲しいけれども、それが寿命であり、且つ順番通りであれば、それはそれでよしとしなければならないんだろうな。あと100年したら、ここでブログを書いている人はみんな死んでこの世にいないように、急がなくても例外なく平等に死はやって来る。毎日毎日が自分だけに与えられた、ゴールへ向かう貴重な時間だと考えれば、何も焦ることもないし、こうあるべきだと自分を制限することもない、普通にやるべきことをやって、自分のゴールだけを目指して、淡々と歩いて行くだけだ。今生でだめなら来世がある。

 以前わしが、小太郎花子は毎日何を考えて生きているのかなと言ったときに、女房が、「みんなにかわいがってもらいたいと思って一生懸命生きているんよ。」とつぶやいたことがあった。そういわれると一層かわいさが増してきた。

 

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あと10431日

 人間は、子供の頃はあれになりたい、これになりたいと夢を膨らませ、大きくなると、少し具体的かつ現実的になり、あの会社にはいりたい、この役所に勤めたい等、いろんな目標を設定して生きているが、外面的な目標なんかは実現してしまえばそれでおしまいで、たとえ実現しなくとも、ほかの道で成功する手段はいくらでもある。しかし現実と向き合って生きていくということはそう単純なことではない。自分の背負っているもの、心の中にしまっているもの、それらをさらけ出し、きちんと折り合いをつけることができなければ、世間からどんなに認められようと、本当の満足は得られないだろう。

 多くの若者と同じように、わしも20歳代の前半、自分はこんなに苦しんでいるのに、なぜ誰も理解してくれないのかと悩んだこともあった。これが解消できたのは曲がりなりにも仕事について、結婚して家庭を持ったからで、これがなければ結局、悩んでいるということを悩みながら、例え世間からは自由で豊かな人生を送っていると思われたとしても、決して満足することのない、寂しい人生を送っただろうと思う。正確に言うと解消したのではなくて、悩むことをやめたということだ。

 わしが悩もうが悩むまいが、現実は平然と、そこにあり続ける。現実は1つの現象であり、わしが変えることはできない。わしがその現実と触れ合うことによって今の悩みが作り出されたのだとしたら、自分が作り出したこの悩みは自分にしか理解できないはずだ。そもそも、自分にしかわからないことを、同じ現実に触れ合ったことの無い他人に理解してもらいたいと思うこと自体、間違っている。自分できっちりと折り合いをつけるか、或いはその現実と関わることをやめるか、どちらかしか道は無いと思う。

 わしは、家庭を持つことによって、新たな現実世界に引き戻されたといえるのかもしれない。家族という現実があり、それとわしとの触れ合いが生み出すものが、新しいわしの世界になる。その世界は今までの世界とは全く違うものだった。この世界に関する限りは家族同士でお互い共感できるということだ。そこに安心が生まれてくる。他の現実との触れ合いによって惹起される世界は、この安心感の前には大した意味も無くなった。そして、その世界との関わりからは、自然と遠ざかっていった。

  わしは、その過程で2つの事を実行した。1.夜は考えずに早く寝て、朝早く起きること 2.その手の本は読まないこと。大したことは書いてない。

 生き方にこれが正しいなどという指標があるわけではない。それぞれが悩んだり、心配したり、喜んだりしながら、嘘をつかず、正直に、家族を大切に生きて、死んでいくことができれば、それだけで正しく生きたといえるのではないのかな。

あと10432日

 昨夜は前の勤務先の、労働組合ビールパーティーに呼ばれて行って来た。脱イデオロギーだが左翼は嫌い、労働条件の改善のみを目的とした弱小組合なんだが、実はこの組合はわしらが十数年前に立ち上げたもので、当時は結構大騒動になったもんだ。今は若い連中が世話をしていて、年に1回、わしらのようなOBにも声をかけてくれる。有り難いことだ。

 世の中に労働組合員はたくさんいるだろうが、ゼロから組合を立ち上げた経験を持つ人は少ないだろう。これは、人生経験としてはなかなか得難いものだが、わしもまだ40過ぎの若い衆で、無鉄砲なとこもあって、今から思えば、いろいろ人にも迷惑をかけてきたのではないかと反省もしている。女性も、赤ちゃんがおなかの中にいる間はまだ楽なほうで、生まれてからの方が大変だといわれるが、組合もそれと同じで、作るのは大変だが、ずっと維持して行く事はもっと大変なことだ。組合が続いている間は声をかけてくれるそうだから、若い人達に期待しとこう。

 ここのビアガーデンは、焼き肉が食べられし、バイキングも種類が多いということで人気があり、いつ行っても満席になっている。しかし、この日は珍しく空いているテーブルが2つあったから、31日になると、ビアガーデンのピークも過ぎているのかな。9時がきてお開きになり、昨日迄は無かった、秋を思わせるような気持ちのいい風を感じながら、彼方に見えるデパートの青く彩られた観覧車、その上に浮かんでいる上弦の月なんかを眺めていると、今年の夏も終わったなという思いがこみ上げて来た。夏の終わりというのは、なんとなく郷愁を誘うものだ。

 愛用の集文館3年手帳を見ると、去年のビアガーデンは8月25日になっていた。この頃は、7月22日に日本配信が開始された、ポケモンGOがすごいブームになっていた関係で、帰り道の公園はスマホを見ながら歩き回っている人で一杯だった。おかげで夜の公園の治安が良くなったという効果もあったらしい。

 今年はどうだろうと思って、同じ公園を通って歩いて帰ったんだが、あまり人は居なかった。わしの周囲でもポケモンGOは話題にもならないから、やっている人はほとんどいないんだろう。わしらも去年はスマホを見せ合ったりしたんだが、今回の12人の参加者の中で、今でもやっている人は1人だけだった。その人も高校3年の自分の子供に、まだやっているのかと笑われたらしいから、この情報化社会では爆発的人気も1年間維持できないということか。ついて行くのは難しい。

あと10433日

 先日、最近わしが晩ご飯の準備をしなくなったと女房に言われたが、わしとしては、それにはちょっと承服しかねる。もともと、献立を自分で決める事はできないので、おかずは何を作るかを、前の日か、朝仕事に出る迄に決めといてくれるように、前から頼んでいるにもかかわらず、それをしない。献立を考えるのが面倒だというが、献立を考えるだけで、おかずが出来るんだから、楽なもんだろうと思うんだがな。

 それに女房は否定するが、味がどうのこうのとか、作り方がどうのこうのと、結構文句が多いような気もする。わしがそういうことを言おうもんなら即座に、嫌なら食べんでよろしいと言うのにな。この間、子供等が来るのでわしがカレーを作った時、牛肉が無かったので、代わりに冷蔵庫にあった手羽先を入れる事にした。刻んだにんじんと一緒に鍋に入れて、先に炒めていると、それはフライパンで焦げ目をつけないとおいしくないと言って、勝手にフライパンを用意しだした。

 そうかもしれないが、鍋でも焦げ目はつくし、第一、人に任せたのならくちばしを挟むなと言って蹴散らしといた。しかも出来上がった後で、味を整えるといって、何の断りも無く勝手にいろいろ足していたから、そんなにやりたいんなら、自分で全部やれよと言ってやったんだが、これは一例で、似た様なことは時々ある。しかし、いろいろ考えてみると、ここはやはり、わしが1人ではうまくできないから頼むと、教えを乞うという形にしたほうが、物事は円満に解決するのではないかという思いに至った。

 こういっては何だが、今時スマホクックパッドをみれば、調理方法、レシピは紹介されているので、やる気があればそんなに苦労する事なくできてしまう。一年半やっていると包丁の扱いも慣れて来て、下準備に時間もかからない。調理済みの冷凍食品が多いから尚更だ。油を使う料理だって全く苦にならない。ただ、献立を考えるのだけは無理だ。実はその理由の1つには、献立に文句言われて、結局最後は自分の主張を押し通されるのは嫌だという気持ちがあるのも事実だ。

 まあ、それはさておき、女房の職場に、料理の上手なひとがいて、去年その人に教えて貰った、ゴーヤを使った料理が簡単でうちでは大人気になっている。

べんりで酢と麺つゆを同量を加えたものを、蓋の出来る容器の底から3cmくらいまで入れる。

スーパーで1袋100円で売っている、さきいかをちぎってその中に入れる。

約7mmくらいの厚さに切って、さっと煮たゴーヤを、その中に入れる。

蓋をして冷蔵庫で一晩置く。

これは是非お勧めしたい。

あと10434日

 人間の記憶には濃淡があり、連続した記憶の中でもその濃さは均質ではない。また、記憶の濃淡と言うのは、覚えているとか覚えていないとかというような、0か1かという問題ではなく、濃い所、薄い所、目の粗い所、細かい所と、途中に様々な変化があり、その変化は、年齢やその時の体調等によっても左右されるものだ。

 記憶に刻まれた当時は楽しかったものでも、時と共に忘れたい記憶になることもあるし、またその逆もあるだろう。普段気が付いていなくても、無意識のうちに遠ざけている記憶もあるかもしれない。そのような記憶が浮かんで来ると、無意識のうちに、都合良く書き換えてしまうこともあるのではないだろうか。

 しかし、それらの記憶をコントロールするということは、自分の過去を外の世界に対してコントロールすることであり、決して自分自身に対してではない。自分自身に対しては、楽しかった過去も、悲しかった過去も、恥ずかった過去も、くやしかった過去も、また、人に話したい過去、話してはいけない過去、墓場迄もって行く過去、すべて隠す物は何も無いはずだ。

 以前にも書いた事があるかもしれないが、わしは昭和47年後半あたりから、48年5月頃迄の記憶が定かではないことが多い。定かでないというのは、覚えていないと言うのではなくて、覚えてはいるんだが、断片的に浮かんで来るそれ等のでき事が、実際にあったことかどうか自信がないということだ。自分の中で、無意識のうちにそれらの記憶がコントロールされているような気がしてならない。

 ラングーンの裏通りの廃墟のような一画で、わしの前を歩く物売りの少年のバッグに付けられていた鈴が、少年が歩く度にチリンチリンと澄み切った音を、静まりかえった町の中に響かせていた。わしが昨日店で買って持っていた、同じような鈴を振って鳴らすと、振り返ってにこっと微笑んで、嬉しそうに自分の鈴を2〜3回、大きく振って鳴らしてくれた。あまりにいい音がするので、その鈴を売ってくれと頼むと、これは商売道具だからだめだと断られた。少年はわしに手を振って角を曲がって視界から消えた。ぽつんと佇むわしの上には、ビルマの青い空がどこまでも広がっていた。

 このシーンは覚えているんだが、本当にあったんだろうか。或は、鈴の音があまりにきれいだったので、自分の妄想に沿って記憶を書き換えたのか、よくわからない。すでに濃い原色で上書きされたとしたら、もとのセピア色に戻す術は、もう無いんだろうな。