無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10159日

 金は要らないとか口では言っていても、誰でもお金には興味があるはずだ。聞いて面白いのもお金にまつわる話で、これは儲けた話でも損した話でもいいんだが、どちらかといえば、面白いのは人が損をした話だろう。しかし笑って聞けることならいいが、20年位前になるのかな、近所のHさんのおばあさんが、あの豊田商事に全財産を騙し取られた話を聞いた時は笑えなかったな。息子らにも叱られて、失意のうちに亡くなった。堅い人生をコツコツと歩んできて、最後の最後にあんな目に合わされるとは、神も仏もないもんだと噂になった。

 これに比べると、現物株や、ちょっとした小商いで損をした話は、本人の欲の深さを笑って聞けるので、これは面白い。わしの兄は、若い頃は株の話なんかはしなかったんだが、もともとギャンブルは好きで、パチンコには、かなりのめりこんでいたし、競馬や麻雀よくやっていた。しかし、それほど話題になることはなかった。ところが、50歳も近くなった頃、当時流行ったメロンパン屋に出資して事業を始めると言い始めた。

 スーパーの駐車場なんかにパン焼きの車を止めて、焼いたメロンパンを直売するという、よくある方法だった。誰が聞いても、そんなうまい話があるものかと気が付くと思うが、これが本人にはわからない。それでも初めは売れて儲けがでたらしい。しかし、そんなことがいつまでも続くわけもなく、結局人件費も払えなくなり、最後は自分が車に乗って焼いていた。所詮素人商売で、いくら損をしたのかはっきり言わないが、兄嫁の話では百万単位の赤字のようだった。

 法事なんかで人が集まると、今でも大抵このメロンパンの話がでて、からかわれているが、さすが自分の金をかけてやっただけあって、メロンパンについては、やたら詳しかった。メロンパンの事なら何でも聞いてくれと開き直り、うちの子供らの間では、メロンパン博士として通っている。結果は轟沈したとはいえ、まあ、一生懸命やって面白い話題を提供してくれたんだから、それはそれで良かったんだろう。

 他人ごとではなく、わしもあのM石自転車の話にはコロッと乗せられた。兄のメロンパンほどではないが、手元に残ったのは、何の価値もないM石ホールディングとかいう会社の株券だけだった。M石自転車の株を買ったつもりが、いつの間にやら実体のないM石ホールディングになっていたんだから、うまいことやられたということだろう。この件の話になると、いまだに女房は機嫌が悪い。しかし、この話を株式投資をしている連中にしてやると結構うけるので、やはり人が損をした話を聞くは面白いようだ。

 以前に書いたことのある、日経225寄り引け取引だが、ここしばらくはずっと儲けが出るようになった。前日にサインをだし、結果はブログに残してあるが、間違ってもやってみようなどと思わないでいただきたい。馬鹿なブログを信用して225に手を出して損をした話など、聞かされる方は面白いだろうが、額の多寡にかかわらず、お金を失うことに慣れは無い。 

日経225寄り引け取引の記録

あと10165日

 愛媛県の中村知事だが、以前このブログで、知事としてやることはきちんとやってきたというような記事を書いた記憶があるが、どうやら最近先祖返りしてきたようだ。わしの記憶によると、この人は、最初は愛媛県議会議員に、確か最年少で立候補して当選したが、一期目途中で投げ出して、衆議院議員選挙に立候補し落選した。この時も、一期も務めずに辞めるという無責任さを、結構批判されていた。

 その後、日本新党ブームに乗っかり、愛媛一区から立候補して当選。日本新党が解散した後、小沢一郎新進党に合流、次の選挙に新進党公認で立候補したが落選。その後は何をしていたのか知らないが、表舞台からは消えていた。毎週市駅前で朝立ちをしてたらしいが、わしは見たことがないので知らない。

 その後、市長選に立候補した時には、歳も若かったし、清廉なイメージで現職を破って当選した。当時の加戸知事が、突然中村を支持すると言い出して、流れが変わったともいわれている。加戸知事は、今ネット上では、筋を通す、さも立派な人のように言われているが、知事になった時には、自分を応援しなかった町村長とは会わないと宣言したほどの、役人上がりの小物感丸出しだったから、この中村支持宣言も、さもありなんと納得するとともに、逆らうと何されるかわからんということで、結構インパクトがあったのかもな。

 知事になってからは、政党色を感じさせない、県民の代表みたいなイメージだった。県政なんかは、何かを強引にやろうとしなければ、普段は誰も気にしないし、積極的に拒否をするということは無い。一時怪文書も出たりしたが、マスコミも騒ぐことなく収まった。あの当時はネットもないし、今ほどマスコミの偏向が知られていなかったから、気にしなかったが、今ならまた状況が変わったかもしれない。

 そんなこんなで、無難にやってきたように思っていたが、ここにきて尻尾を出したという感じだな。本人が国政に出たいのかどうか、日本新党新進党時代の小沢一郎民主党とのつながりは健在のようで、無所属として、今まで築きあげてきたイメージが崩壊してしまった。そして、今回の様な真偽不明の文書を、内容を確認することもなく提出して、あとは知らない国会でやってくれという態度には、一期目途中で県議を放り出して、衆議院議員に立候補した時批判された、その無責任体質を思い出した人も多いだろう。

 次回の選挙に、たとえ無所属で出たとしても、その中身が保守ではないと、今回宣言したと理解した有権者は、もう投票することはないだろう。

 まあ、ローカルな話で、日本の片隅のそのまた四国の片隅の3等県、愛媛なんか、ほとんどの国民は歯牙にもかけないだろうが、政治家というのは上から下まで、どこに行っても体質は同じなんだろうな。いずれにしても、民主主義社会では、いなくては困る存在で、重要な役目を付託されているんだから、県民のため、国民のためにしっかりやってもらいたいものだ。

あと10168日

 6月が近づいてくると、76年前の6月5日~7日の間に繰り広げられたあのミッドウェイ海戦を思い出す。当事者もほとんどいなくなり、戦争の記憶も失われていくと共に、あの大海戦すらも、海戦としての純粋な歴史的な側面とか、テクニカルな面とかは、それほど語られなくなった。それに代わって、国家成立の基盤とでもいうべき、国家国民を守るために戦うことを、愚かなことのように言い、戦った先人に敬意を払わない少数者の意見が、学校教育やマスコミにより、社会を洗脳していった。

 今では、国旗を掲げる家もなくなり、外国の軍隊が駐留することに疑問を持たなくなり、北朝鮮が日本人を拉致し、核を持ち、ミサイルを発射して来ても、手も足も出ない国になってしまった。戦後73年たち、GHQの日本人愚民化計画も、概ね成功したと言えるのかもしれない。しかし、今の若者はそれほど馬鹿ではないと信じたい。

 さて、ミッドウェイだが、こんな島を占領しても、維持できないだろうことは、地図を見たらわしでも理解できる。島を維持するために年間のべ何隻の貨物船が必要になるのか真面目に計算したのかどうか怪しいものだ。既に珊瑚海では痛い目にあっているんだから、空母もおびき出して一石二鳥というほどアメリカが甘くないということも、末端はいざ知らず、トップはわかっていたはずだ。世間では山本大将をやたら持ち上げるが、南雲中将と同じで、現場指揮官としては?がつく。

 その南雲中将はミッドウェイでは死なず、2年後にサイパンで死んだ。わしはミッドウェイで生き残った南雲中将、戦死した山口少将二人の死に様に対照的なものを感じている。そして、このことは人は如何に死ぬべきかということを、考える機会を与えてくれた。以下、あと10907日を紹介する。

 

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あと10907日

 

 1日1日生きられる時間は少なくなっているが、人生、とにかく長く生きればよいというものでもないだろう。わしは時々思うんだが、山口多聞南雲忠一の人生の最後の生き様はおおいに参考になるんじゃないかな。二人とも大東亜戦争中に戦死した帝国海軍将官だが、違いは山口は海で死に、南雲は島で死んだということだ。南雲中将は昭和17年6月のミッドウェー海戦での第一航空艦隊司令長官、山口少将は第一航空艦隊第二航空戦隊司令官、つまり南雲の部下だった。

 すでに多くの本に書かれているように、帝国海軍は空母4隻と多くの熟練パイロットを失って大敗した。赤城、加賀、蒼龍の3空母はあっというまに沈んだが、少し離れていた、山口座乗の飛龍は生き残った。それを知った山口は以後全軍の指揮をとると打電し、今までの鬱憤を晴らすかのように孤軍奮闘し、航空部隊も獅子奮迅の働きをして敵空母ヨークタウンを大破させた。そして全兵力を使い果たした後、生き残った将兵を総員退艦させ、艦長加来大佐と二人で自決した。闘将といわれ、山口が司令長官であればと惜しまれた。しかしわしは海軍軍人として、持てるすべてを出し切って最高の働きをした後、じり貧になっていく海軍をみることなく、あっさり死んでいった山口は幸せだったのではないかと思う。

 一方南雲は、山本五十六連合艦隊司令長官から、死ぬなと言われ生き残った。参謀達に支えられ駆逐艦に移乗し、まだ指揮を執るという意欲はあったようだが、手持ちの兵力も無く山口に任せるしかなかった。意気消沈しただろうと思う。おかしいのはこの後で、普通なら、これだけの損害を与えたのだから、司令長官は罷免されるはずだ。しかし罷免される事無く、その後、海軍大将、中部太平洋方面艦隊司令長官に栄進した。世間的にみれば功成り名を遂げて、良い人生だったんじゃないかと思われるが、わしは海軍軍人南雲忠一は、やはりサイパンの洞窟ではなく、海で戦って死にたかったんじゃないかと思う。結局2年ほど長生きはしたが、ミッドウェーで華々しく戦って死んでいった山口少将を、薄暗い洞くつの中で、羨ましく思っていたのではないのかな。

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あと10173日

 今月初めに、インターネットを、ADSLからケーブルネットに変えた。料金も同じで、謳っているスピードも12MBで同じなんだが、実際のスピードには雲泥の差があった。今年の初めくらいからADSLのスピードが極端に落ちて、さらに頻繁に切れるようになった。電話がかかってくると切れるのは、ほとんど電話がかかってこない我が家にとってはご愛敬だったが、40分ほどのドラマを見ているときに何回も切れるようになると、ネットでドラマを見ようという気持ちも失せてしまう。

 ADSLもいずれは使えなくなるので、替えようと思ってはいても、高い料金を負担して、光回線を引くほどの価値も感じないし、どうしようかと考えていた時、偶然見た電気工事店のホームページにあった、今なら工事費無料という、年金生活者にはうれしい、呼び水のような言葉に引き寄せられてしまった。

 すぐに電話をして、電柱から屋内に引き込み、屋内配線や機器類、ルーターまで全部無料で費用は一切かからないということを確認後、現場の調査、ケーブルTV会社の工事、電気店の屋内工事を依頼し、2週間後には無事開通した。

 今回は1階にルーターを置いたので、2階はどうしても電波が弱くなった。そこで3日前に、たまっていた楽天ポイントで、無線LAN中継器「AC750」というのを買ってみたところ、これが予想以上の優れもので、今まで電波強度「中」だったのが「非常に強い」と表示されるようになった。双方向のやり取りをするようなゲームはやらないので、下り10MB出て、途中で切れることがなく、月1900円なら、我が家では十分だろう。これで懸案だったネットの問題も解決した。

 ストレスなくネットが使えるようになったからか、近頃では戦後作られた、日本の戦争映画をよく見るようになった。最近はとんとお目にかからなくなった戦争映画だが、昭和40年代頃までは、戦争体験者が作っていたから、時代考証なんかも比較的正確で、最近のCGを使った、派手でうるさいだけのものとは一味違う。もちろん戦闘場面は作り物とわかるが、映画自体作りものだし、わしのように、ストーリーもさることながら、バックに映るものとか、言葉、着ているもの、時代背景や戦史に興味のある者にとっては、別に作り物とわかっても気にならない。

 2匹の犬と一緒に、相槌をうったり、間違いを指摘したりしながら楽しく見ているが、それらを見ていていつも思うのは、昔は空が広かったなあということだ。40年代の光景はわしもリアルタイムで見ていたはずだが、この50年の変化に驚かされる。急激な変化はすぐに気が付くが、ゆっくりとした変化は記憶に残らないということだろうか。ああいう光景は、もう映画の中でしか見ることはできないんだろうな。

あと10180日

 2月に離婚した二男が、親として当然のことだとは思うが、子供には会いたいと言っている。成長には関わりたいし、忘れてほしくないという気持ちはわかるが、少し間をおいたほうが良いのではないかと、わしは思っている。ここで思い出すのが親父のことだ。昭和23年に、親父は子供二人を残して養子先を離縁された。親父の葬儀後、相続のため調べた戸籍謄本によると、昭和18年に養子縁組して二人の男子をもうけている。

 わしはその二人の子供がどうなったのか、親父が死ぬまで全く知らなかったんだが、おふくろが亡くなった2005年前後に、一度だけ親父に、その子供らをどう思っているのか聞いたことがある。その時、親父は少し考えてから「子供がかわいいという感情は、血がつながっているから当然湧いてくるというものではない。それに加えて、いろんなことを経験しながら、一緒に過ごした年月によって形作られた家族のつながりが必要なんだ。」というような意味のことを話した。

 しかし、本当のところ、どうだったのか、今でも時々考えることがある。案外、ずっとおふくろに遠慮していただけだったのかもしれない。親父が最後の正月を家過ごしたのち施設に帰る時、どうしても現金を持っておきたいというので、30万円ほど渡したことがあった。施設にいる間は現金なんか必要ないし、盗まれてもいけないから、持たない方がいいと言っても、どうしても持って行くと言って聞かなかった。それから2週間後、親父が亡くなったあと、部屋にはその30万円は無かった。

 施設の人に聞くと、その頃、息子だという人がたびたび来ていたらしいから、おそらくあげたんだろうとわしらは納得した。残してきた子供だとはいえ、親として何かしてやりたいという気持ちは、常に持っていたのかもしれない。叔父や叔母から聞いた限りでは、親父も、養子に行った先の親や親せきには恨みはあっても、子供にはなんの恨みもなかったはずだ。家を出るとき、当時の連れ合いに、一緒に家を出ようと誘ったが、連れ合いは家を選んだということだった。

 この人からは一度だけ電話があった。わしが出ると「○○さんと同じ声じゃね。○○さんと話とるようじゃね。」と懐かしそうにしゃべっていた。その後再婚しなかったらしいから、話を聞きながら、あの時に、親父と一緒に家を出た方が、この人は幸せになれたのではないだろうかと考えてしまった。まあそうなれば、わしはこの世に生まれてなかったんだが。

 親父は、おふくろが亡くなったこともあって、少なくとも最後の数年は、残してきた二人の子供のことが気になっていたことは間違いない。親父は親父なりに真剣に向き合っていたんだろう。或いは、過ぎ去った時間を、少しでも取り戻したかったのかもしれない。そうすることで、気持ちが楽になったのなら、それはそれで良かったのではないかと思っている。

 これで終わればいい話なんだが、この人たちは、法律通り、残った財産の半分を要求して持っていくと、その後、法事にも墓参りにも、やってくることはなかった。わしは本当は、この人たちとも長く付き合っていきたかったんだが、向こうにはそういう気持ちはなく、ただ遺産相続だけが目的だったようだ。親が思うほど、残してきた子供は親を思ってないのかもしれない。

あと10185日

 先月26日の夜に家を出て、その晩は久しぶりにフェリーの2等で寝たが、昔とは違って、ガラガラだった。このフェリーは東予港から大阪南港へ行く船で、昔、瀬戸内海の女王と呼ばれた、関西汽船の別府航路の客船とは別のものだ。今の人に話しても、なかなか信じてもらえないが、戦後30年代40年代辺りまで、四国から関西方面に行くのは客船を利用することが多かった。夕方松山を出て、翌朝8時くらいに大阪天保山に着く船で、船内は、たいてい人であふれていた。

 客室に入りきれない人が、甲板に寝たり、或いはボーイさんと呼ばれた部員に金を500円ほど握らせて、食堂のテーブルで簡易ベッドを作ってもらって、そこに寝たりしていたくらいだから、乗船定員は守られてなかったんだろう。この方式も当時は必要悪だったのかもしれないが、批判もされていたようで、客船がフェリーに代わった頃にはなくなっていた。

 そういえば、甲子園に出場する生徒は今ではバスで出かけるが、わしらが子供の頃は、道路事情も悪かったので船を利用していた。松山商業が出るときの写真を覚えているが、浮き桟橋からあふれそうな人々が、五色のテープで見送り、桟橋に面した右舷側だけに乗客が集まったため、1000トンの客船が右に傾いていた。それはすごい熱気だったんだろう。蛍の光、五色のテープ、銅鑼の音は別れの定番だったが、海が汚れるといわれて禁止になったのは何時の頃だったのかな。

 中学2年の時、初めて1人で大阪の叔父叔母の家に遊びに行ったのも、この客船だった。その叔母は既に施設に入り、叔父はかなり弱っている。今度の旅でも一泊させてもらったが、一昨年の10月に泊めてもらった時は、戦争中クラ地峡に行った時の事や、寮に住んで旧制中学に通ったことなんかを、結構長い時間話してくれたが、今回は纏まった会話は出来なかった。わしの名前も時々間違っていたから、誰と話しているのかわからなくなっていたのかもしれない。

 歳をとるとは、こういうことなんだろうが、わかってはいても、目の前でそれを感じるのはつらいものだ。従妹はずっと側で見ているから、変化をそれほど感じてないようだったが、ほぼ1年半ぶりに会ったわしはその変化に驚かされた。しかし、わし自身もこの連休中に子供らと話していて、後ろ姿に老化を感じると言われたから、人から見たらかなりきているのかもしれんな。

 つい先ほど、公民館の人から電話があって、グランドゴルフをやらないかと誘われた。ああいうものは年寄りがやるもんだと思っていたら、いつの間にか自分もその中に入っていたのかと、びっくりした。そうは言っても今年で67だから、周りからみたら、わしがグランドゴルフをやっても何の違和感もないんだろうが、少し考えたふりをした後に、今回はお断りしておいた。

 

あと10196日

 わしは今まで66年生きて来て、この日本という国が嫌いになったことは一度もない。若い頃、日本人が面倒くさいと思ったことはあったが、それとて、風習やしきたりで面倒くさいこともあるなあと思ったくらいで、別に日本人をやめたいと思ったわけではない。確かに若い頃には、外国に移住してみたいという気持ちもあった。それが外国航路の船乗りになりたいと思った原因の一つでもあった。しかし、貨物船やタンカーで14の国を回ってはみたが、逆に外国に対するあこがれはだんだん萎んでいった。

 要するに、日本や日本人の良さが再確認できたということだ。犯罪が少なく、夜道も自由に歩けて、職業選択の自由、行動の自由、思想や言論の自由が、単なるうたい文句ではなく現実に保証されているという国は、世界をみてもそれほど多くはない。これは素晴らしいことだ。それもこれも、国家という骨組みがきちんとしているからこそ、可能となっているので、自由といっても何事にも限度がある。国家の骨組みを揺るがすほどに振れ過ぎた振り子は、また逆の方向に振れるだろう。行き過ぎた自由というのは、近い将来修正されてくるに違いない。その時が、戦後日本人が、自由には責任が伴うということを初めて思い知らされる時かもしれない。

 今日も朝起きると女房は既に仕事に出ていた。おもむろに起き上がり、ソファに寝ている犬の横に座って、また今日も一日が始まる。この生活も今日で755日になった。この生活が、明日も明後日も続くだろうことを疑うことは無い。このように、普段は当然のように明日がきて、また当然のように明後日がくると思っているが、実はこの平穏には、何の根拠もないということに、ふと気づくことがある。

 特に東日本大震災のときは、あたふたするだけで、頼りにならない政府の対応に、治安は本当に大丈夫なのか、生まれて初めて心配になった。そもそも20万人しかいない自衛隊のうち15万人を災害支援に動員すれば、一体誰がこの日本を守るつもりだったのか。旧帝国陸海軍のように予備役、後備役を備えていない自衛隊には後がない。事実、チャイナやロシアの航空機や艦船が不自然な動きをしていたから、この時ほど日米同盟のありがたさを感じたことは無かった。

 「誰がやっても同じだ、それなら一度やらせてみよう」「コンクリートから人へ」「埋蔵金がある」「自民党にお灸をすえる」マスコミが流し続けたプロパガンダだ。あやうく日本という国が沈没するところだった。政治は誰がやっても同じではないし、でっかいお灸をすえられたのは国民だった。これも55年体制日米安保のおかげで、平和や安全に関して無頓着でいられた国民への警鐘になったはずだ。

 以前新聞で読んだことがあるが、インドの国防大臣の部屋には、被爆した広島の写真が飾られている。それを見ることによって、インドは絶対に悲惨な核攻撃を受けないという決意を新たにしていると説明されていた。そして大臣は、地球上で唯一、核攻撃を受けた日本だけが核武装の権利があると話したそうだ。

 キューバ危機は、のど元に核ミサイルを突き付けられたアメリカと、ソ連の争いだったが、地図で見たらわかるように、北朝鮮と東京の距離や、チャイナの核基地があるといわれている場所と東京の距離は、どう見てもキューバとワシントンよりも短い。その時ケネディは核戦争も辞さないと決意したといわれているが、指呼の距離に核ミサイルを配備されても、自ら解決することはできないこの日本は、本当に大丈夫なのか。戦後生まれのわしらの世代は、与えられた平和にただ乗りしているように思えてならない。

 さて、26日の夜からフェリーで伊勢神宮参拝の旅に出ることになった。27日参拝、その晩は、堺の92歳になる叔父の家に泊めてもらう。また、戦争中運河建設の調査で、タイのクラ地峡に行った時の話をきかせてもらえるだろう。28日から5月2日まで二男の家に居て、2日に二男の車で一緒に家に帰る予定になっている。雨は降らないようだから、楽しい旅になるだろう。