無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9444日 コロナの日常

とうとう知り合いの勤務先からもコロナ患者がでてしまった。勤務先ではなく家庭で感染したということらしいが、何日も職場に来ていたのだからクラスターが発生していてもおかしくない状態だ。

私自身は普段は家からほとんど出ないので、武漢ウイルスのこともあまり気にすることもないが、こんなことがあると、じわじわと近づいてきているようであまりいい気はしない。

安倍総理が今月中にはアビガンを認可すると言っていたので、来月からは感染初期にどこの病院でも処方してもらえるようになれば、それほど恐れることはないのかもしれない。

13歳まで小児喘息で苦しんだ経験者からすれば、肺炎でだけは死にたくない。生きながら呼吸が困難になるというこの苦痛は、経験したものでなければわからないだろう。

死者が少ないとか、ほとんどの人は重症化しないとか、軽く見てパチンコなんかに出かけている馬鹿がいるが、武漢ウィルスという名前の通り、一番詳しいであろうあのチャイナが、大慌てで1000万もの人口の武漢を閉鎖した事実をみれば、とてもそんな甘いウィルスとは思えない。

日本ではテレビをつければ朝から晩までコロナコロナで、所謂ひな壇芸人電波芸者、自称専門家が煽りまくっている。テレビがコロナ以前は何をやっていたのかすら忘れてしまった。結局は必要ないことを電波を使って流していたということか。

やれ政府が悪い~、安倍が悪い~、西村が悪い~、アベノマスクが~、ハッシュタグが~、世界に笑われている~、

こんなことばっかりずーっとやっているわけだ。

別に政府がやっていることが全部正しいとは思わないが、結果をみたら結構うまくやっていると思っている。

先日は、先頭にたって武漢ウィルス対策に奔走している、いそがしい人を国会に呼び出したくせに、説明を聞こうともしなかった野党国会議員が謝罪していた。

本当に知りたいことがあるのなら、その質問内容をきちんと通告しておいて、短時間でまとまった答えをしてもらうように考えるのがあたりまえだろうが、この人たちにとっては、質問するということだけが目的だから、答えなんかどうでもよかったんだろう。

みんな暢気なものだが、今回の武漢ウィルスが、エボラ出血熱のようなものだったとしたらどうなっていただろう。人がばたばた死んでいく中で、憲法に緊急事態条項がないから都市のロックダウンもできない、個人の権利を制限することもできない、などと悠長なことを言っていられただろうか。混乱に乗じてテロ行為や海外からの侵略もあるかもしれない。

ウィルス蔓延状態では日米安保条約も機能しないだろう。国は国民の安全を守る義務があるはずだが、その時に今の憲法で守れるのか。

今度の武漢ウィルスがいい機会だ。是非とも緊急事態条項に関する憲法改正国民投票を実施したらいい。国会議員は責任をもってその職務を果たしてもらいたい。

あと9460日 記憶とは

人の記憶とは曖昧なもので、前回のブログで書いたゆきちゃんについて、大きな間違いがあることがわかった。自分の親がいたら確認すればすぐにわかることだが、その親はもうすでにいない。親を亡くすということは本当に自分の過去をなくすことだと実感している。

先日、すでに独居老人として民生委員の見守り対象となっている、私より2歳年上のSちゃんを尋ねた時に、ゆきちゃんのことを聞いてみた。64年前の当時のことを知る人はほとんどいなくなったが、Sちゃんはよく覚えていた。

Sちゃんが言うには、ゆきちゃんはNさんの子供ではなく、Nさん宅に間借りしていたTさんの子供で、お父さんとお姉さんと3人で暮らしていた。お母さんはゆきちゃんが小さいとき亡くなっていた。ゆきちゃん自身は広島のほうにお嫁に行ったということらしい。

ゆきちゃんのお父さんのTさんが、Sちゃんのお父さんが経営していた工場に働きにきていた関係で、あの一家のことはよく覚えているので、記憶違いはないと断言していたから、間違いはないのかもしれない。

そういわれると、そうなんだろうと納得せざるを得ないが、それではあの着物姿で麦畑の横の道を歩いて、映画を見に行っていた人は誰だったのだろう。

それに、母親から聞いたとして記憶している、白血病で亡くなった子供とは一体誰のことだったのだろう。

ゆきちゃんが亡くなった時、近所のYちゃんが泣いていたという話も誰かから聞いて覚えているが、これも夢だったのだろうか。

映画館まで一緒について行ったK君にも確認してみようとは思うが、おそらくこんなことは忘れてしまっているだろう。

昔の記憶に関しては自信をもっていたんだが、その自信も一気に揺らいでしまった。

結局記憶と言うものは連続した一つの塊として独立して存在するものではなく、ジグソーパズルのような断片的なものの組み合わせで、過ぎていく時間の流れの中で自分が好む形に組み上げていくだけのものかもしれない。

自分にとって現実とはこの瞬間だけで、その現実も過去の中に組み込まれた瞬間に一つのピースとして漂っていく。そのピースを拾い集めてそれぞれがそれぞれの記憶を形成していくとすれば、ゆきちゃんのことも、Sちゃんと私とでは違ったピースを使用していたということになるのだろう。

昔の記憶をたどる時、蘇った記憶は自分の中では現実になる。確かにあの時ゆきちゃんと映画に行ったし、ゆきちゃんは薄幸の人で、若くして亡くなった。母親からも聞いたし、近所の人からも聞いたことがある。だが、それらもすべて、漂う1つのピースにすぎなかったということだろうか。

あと9475日 ゆきちゃんの思い出

70も近くなり、先も見えてきたような気もしている。とは言え、ここまで元気で生きてきたのだからもう少し生きて、死ぬ時まで元気でいたいと思うのも人情だろう。そんなことを考えているといつも思い出すのが、若くして白血病で亡くなった近所の「ゆきちゃん」のことだ。

Nさんの娘さんで、私より5歳か6歳か年上だったような気がしている。思い出すのはいつも同じ場シーンだ。

Nさんの家には時々遊びに行っていたので、ゆきちゃんはよく知っていたが、病気だということは知らなかった。小学校の1年生か2年生の頃のことだからそれも無理はないだろう。

あれはおそらく昭和34年の春先のことだと思う。私とK君と二人でうちの前で遊んでいた。K君とは「あと10705日」に出てきた、一緒に少年探偵団ごっこをしていた子供だ。

家の前は田んぼで、二毛作の麦が植えられていた。その向こうがNさん宅だった。ふと顔をあげると麦の穂の向こうに、着物を着たゆきちゃんがこちらにやってくるのが見えた。K君と二人で見ていると、それに気が付いたゆきちゃんが優しく微笑んでくれた。

「ゆきちゃん、どこに行きよるん?」私が聞くと、「映画を見に行きよるんよ。」ゆきちゃんは立ち止まった。K君が「僕らもついて行ってかまん?」と聞くと「ええよ、一緒に行こ。」と優しく手招きしてくれた。

当時あった本町劇場まではゆっくり歩いて20分くらいかかったと思うが、入場料も持ってないし、私はゆきちゃんと一緒に歩きたかっただけで、映画を見たいという気はなかった。

途中何を話したかほとんど覚えてないが、入場者に紛れてこっそり入ってみようというと、よからぬ相談をK君としていたのは覚えている。当然ゆきちゃんもそんな話は聞いていたはずだ。

映画館に着くと、ゆきちゃんは入場券を買って入口の当たりに並んだので、私たち二人もその後ろに並んだ。当時の映画館はいつも満員だった。そしてゆきちゃんに続いて、もぎりのカウンターの下をくぐるように館内にもぐりこんだ。してやったりと二人は満足した。と記憶はここ途切れている。

しかし、今から思えばそんなにうまくいくとは思えないし、ゆきちゃんがそんな悪事を許すはずもない。きっとゆきちゃんが子供2人分を出してくれたんだろう。一緒に行こうと誘ってくれたときから、そのつもりだったのだと思う。

後年母に聞いた話では、その頃にはゆきちゃはもう学校にも行けなかったので、具合が良いときに慰めに映画を見に行っていたらしい。

それからしばらくしてゆきちゃんは亡くなった。

ゆきちゃんとの記憶はこれだけだが、今でもあの時の笑顔が忘れられない。

それにしても、Aさんといい、ゆきちゃんといい、あの頃の近所のおねえちゃんは、なんであんなに優しかったんだろう。

あと9489日 レビューは素晴らしい

この間、朝掃除の合間にワイドショーを見ていたら、コメンテーターの発言に驚かされた。そのBさん曰く「コロナで外国では国民の権利を制限するような政策がとられていますが、唯一日本だけはこれができないんですよ。なぜかというと、日本は太平洋戦争中、国家総動員で国民の権利を侵害し、多大の損害を与えたんです。だから日本だけはそういうことができないようになっているんです。」

このようなことをしゃべっていた。戦争中は日本に限らず、どこの国も国家総動員で国民の権利を侵害したが、それでも日本以外の国には、コロナで実施された国家非常事態に関する規定が存在している。日本だけができないという説明にはなっていない。

おそらくこの人の頭の中には、日本人が一方的に凶暴性を発揮して、平和を愛する世界中の人々を相手に大暴れをしたというファンタジーが沸き上がっていたんだろうが、公共の電波を使用しているんだから、もう少し頭の中を整理して発言してほしいものだ。

さて、今年に入ってから全編を通して見た寅さんシリーズ49作だが、その中の21作に木の実ナナがでていた、「寅次郎わが道をゆく」というのがあった。作品的にはあまり話題にならないようだが、個人的にはこれは懐かしかった。

昭和55年頃から昭和57年に浅草国際劇場が幕を閉じるまで、20歳代から30歳にかけてSKDに通ったことがあった。SKDの東京踊りに、初めて男1人で入るにはかなりな勇気もいった。それでも思い切って見たレビューには本当に感動し、病みつきになってしまった。

一部とはいえ、まさか寅さんの映画であの国際劇場のレビューが見られるとは想像もしてなかった。アトミックガールズ、エイトピーチェス、藤川洋子、千羽ちどりなど、40年も前の世界に引き込まれてしまった。あの豪華な舞台はもう二度と見ることができない。残念なことだ。

そこで当時のパンフレットがあったことを思い出して、この2か月ほど、あちこち家の中を探し回った。そして昨日とうとう発見した。毎回買っていたわけではないので、全部は揃ってない。今から思えば、少々の金を惜しまずに全部買っておけばよかったと後悔している。

レビュー通いも最初は1人だったが、そのうちに職場に同好の士が現れて2人になり3人になり、遂には上司のMさんの耳に入って、ぜひ連れて行ってほしいと頼まれるようになった。Mさんは海軍経理学校出身で、終戦を戦艦長門で迎えたという経歴からか、興味はあったが、女性の踊りを一人で見に行くことには抵抗があったようだ。

私としては、Mさんが一緒に行くときは入場料を払ってくれたので大歓迎だった。

帰りに一杯飲んで「あの色気はたまらんな。」と大笑いしていた、普段とは違うMさんを見るのも楽しかった。あの当時50歳代後半だったから、さすがにもう亡くなられているかもしれない。

この映画の最初の部分に、日傘の女としてちらっと出ていた藤川洋子さんもきれいで、この部分だけ何回も見てしまった。着物を着て歩くだけで絵になるというのもすごいことだと思う。この21作だけはもう一度見てみたい。

あと9498日 コロナ騒動でわかったこと

今回の武漢から広がった新型コロナウィルスは、戦後75年の歴史が孕んできた様々な矛盾点を明らかにしてしまったようだ。多くの人たちが見てはならないものを見てしまい、聞いてはならないことを聞いてしまったのかもしれない。

日本にはなぜか国際連合信仰があり、そこに莫大な額の分担金を支払ってきた。そもそも国際連合などと呼んでいるのは日本だけで、本当は連合国だということは、中学生でもわかることだ。

日本では、国連がこう言っているということが、政治やマスコミの世界で錦の御旗の役割をしてきた。情報統制を通じて、国連の無謬性を疑ってはならないという世論作りがなされてきたことは間違いない。

国連の無謬性とはとりもなおさずWW2戦勝国の無謬性であり、東京裁判の無謬性でもある。これも日本弱体化を目的としたWGIPの一環だろう。日本国民は見事にはめられて、表立って国連を批判する政治家もマスコミもみたことがない。こうして、戦後利得者による予定調和の世界は平穏に過ぎていったはずだ。

恥ずかしいはなしだが、じつは私自身も日本ユニセフに募金をしていた時期があった。あのアグネス・チャン日本ユニセフだ。戦後教育で洗脳されて、国連無謬性を信じていたんだろう。おかしいと気が付いたのは東京の一等地に自社ビルを建てたことを知ったときだった。

それ以来寄付お願いの封書が来たらそのまま破って捨てるようになったが、子供達にまで寄付を勧めていたのだから、とんだ罪作りな親だったとおおいに反省している。

そんな国連だが、今度のコロナ騒動で自ら馬鹿をさらけ出してくれている。黙っていたらばれないのに、ネット社会はほんとうに愉快だ。

ひとりのエチオピア人にcovid19と呼べと言われても、やっぱりそれはチャイナウィルスだろう。トランプ大統領もそう呼んでいるし。それとも武漢肺炎か。

ひとりのポルトガル人にチャイナに感謝しろといわれても、チャイナウィルスを世界に広めてくれてありがとうと感謝するのかな。

世界中がリアルタイムで情報を共有する時代に、何を言っていることやら。

国連だけではない。なんとEUも高邁な理想をいとも簡単に捨てて、国境を閉じてしまった。困ったときこそ助け合わないといかんだろうに。

調子のいいときはうまいこと言っていても、未曽有の災害がおきて、苦境に陥ったときにこそその真価が問われるのは人間も社会も一緒だ。

今回のコロナウィルスで分かったことは、結局最後に頼れるのは自分の住んでいる国しかないということなのかもしれない。国境を固め、製造工場を国内に帰し、国内で生産し、少々高くてもメイドイン日本を買う。内需を喚起し国内で金を回す。そしてブロック経済へ。TPP結んどいて良かった。

ブロック経済には当然安全保障も含まれる。TPP締約国同士の相互防衛が必要になる。TPPの中心は日本なので日本が軍事力を高めるよう要求が出てくる。そして憲法改正あるいは現憲法廃棄。さて、どうなるか。

歴史は繰り返すというが、世界は100年前に回帰しているようだ。

あと9510日 憧れのAさん

去年の11月から、頼まれて民生児童委員をしている。3年任期で75歳定年らしいから、任期途中でやめなければ3期9年できることになっている。4年前に94歳で亡くなった父親もやっていたので、その頃の知り合いもいたりして話が弾むこともある。

この地域も年寄りが大半をしめるようになり、60代だと若手ということでいろんな役を頼まれる。町内会長は3月で任期が終わるのでほっとしていたら、今度は公民館分館の分館長を頼まれた。

分館活動に関わって2年しかたってないので、長年やっている人がいるのだからその人に頼んでくれるように言ったんだが、それでも頼むと言われて結局引き受けてしまった。誰かがやらなければ先へ進まないのだから、それはそれで仕方がないのかもしれない。

確かに役をすることは多少の負担は増えるが、逆に得るものもある。町内会長の2年間や民生委員活動で、子供の頃一緒に遊んでいたが、大人になってからは途絶えていた人たちとも半世紀ぶりに交流を持つようになった。

また、民生委員になって独居老人宅を訪ねているが、その中には子供の頃から知っている人もいて、時々会って昔の話をするのが楽しみでもある。

その中の1人の、

10歳年上のAさんという人は、私が幼稚園から小学校の頃に近所の県立高校に通っていた。うちの前を通って毎朝通学していたのでよく覚えている。この人がそれは上品できれいな人だった。兄に言わせると鄙には希な美人らしい。

私も、こんなきれいな姉ちゃんがいたらよかったのにと、憧れの目でみていたが、所詮はなたれ小僧の妄想で、10歳の年の差はとてつもなく大きかった。

Aさんは大学卒業後すぐ結婚してよそへ行ってしまった。結婚したと聞いた時は、ちょっとがっかりもした。

その後、ご主人と死別して35年くらい前に帰って来たらしいが、顔を合わす機会は無かった。

今では月2回ほど,、安否確認にAさん宅を訪ねている。まともに口をきくのは生まれて初めてだった。年はとっても今でもきれいで上品な話し方をする人だった。

子供の頃を知っている人に会うと、昔のように、○○ちゃんと呼びそうになるけど、立派なおとなになった人を、ちゃん付けで呼ぶのは失礼かなと思って呼べないと言っていたが、是非とも○○ちゃんと呼んでもらいたいものだ。

Aさんは私の子供の頃の時代風景を知っていて、ある時期の共通の記憶を持っている数少ない人の1人であり、昔ばなしも面白い。また、子ども心に憧れの人でもあった。少しでも元気に長生きして楽しい話を聞かせてもらいたい。

あと9521日 寅さん

2月25日に「男はつらいよ」49作全部見終わった。契約しているdTVで、男はつらいよ全作品を公開しているのに気が付いたのが1月半ば、それから毎日1作から2作を延々と見続けた。

第1作「男はつらいよ」を映画館でみたのが1969年8月、17歳の時のことだったから、もう半世紀も前のことだ。渥美清出演の最後の作品が、1995年12月の「寅次郎紅の花」なので、26年間で描かれた世界をたった1か月で通り過ぎたということになる。そこには、一年一作あるいは2作を27年かけてみたのとはまた違う、新しい世界をみたような気がしている。

寅さんもおいちゃんもおばちゃんも、さくらもひろしも、たこ社長もみんな駆け足で年をとっていく。満男なんかたった半月で小学生から社会人になってしまった。寅さんの恋愛という設定も段々と浮き上がってくる。早送りフィルムのような世界の中では、そのような変化が増幅されてくるようだ。

1990年あたりからは寅さんに以前のような活力が感じられなくなり、46作「寅次郎の縁談」、47作「拝啓寅次郎様」48作「寅次郎紅の花」では痛々しくて見ていられなかった。表情も乏しく、立っているのがやっとというような感じで、心なしか話のテンポが周囲とずれることもあった。また、体がきつかったんだろう、最後は首のマフラーを巻いて、背広に袖を通していた。この映画をここまで引っ張ることはなかったんじゃないかと思わずにはいられなかった。

今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役として渥美清にオファーしたこともあったらしい。寅さんのイメージを守るために断ったらしいが、悪党の渥美清もみたかったような気がする。2代目おいちゃん役の松村達夫はが5作で降りているのは、マンネリ化を避けたいということもあったからなんだろうか。

いくら会社にとってのドル箱とはいえ、25作「ハイビスカスの花」あたりでハッピーエンドで終わらせといたほうがよかったのではないかというのが、駆け足で見終わった後の感想だ。