無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10795日

 昨夜読み始めた佐藤愛子の私の遺言を午前2時頃読み終えたが、なんか重苦しい本だな。相曾誠治氏のことがでているということなので、どんなことを書いているのか気になったのと、今度電子書籍になって発売されたので読んでみようかという気になったんだが、確かにさすが佐藤愛子作だけあって読んでいておもしろいことはおもしろいな。

 今朝、こんな内容の本には興味はないだろうと思って、女房にiPadで見せてやったら、なんとすでに持っていて、自分は若い時から佐藤愛子のファンだと言っとったな。そんなことは結婚して32年になるが、初めて聞いたことで、持っているんならわざわざ買う必要も無かったんだな。

 それはいいとして、様々な怪異現象に長年にわたって悩まされた内容は凄まじいもので、お気の毒としかいいようがないが、見えないものが見えるとか、聞こえない音が聞こえるなどという特異な感覚を持っている人たちは、本当に大変なんだろうなと思うよ。人は誰でも自分の尺度で物事を見ようとするから、それにあわないものは拒絶する傾向があり、例えばUFOなんかも一緒で、見た事無い人は絶対認めないな。じつはわしは東京の銀座でUFOを見た事があるんだが、誰に話してもそんなことあるわけないと笑われた。しかし8個のUFOが、雲の間を整然と縦1列から2列に瞬間移動しながら飛び去っていったのは事実だからな。

 世の中には霊感が強いなんていうことを売り物にしている人たちがいるようだが、わしはそんなことは御免こうむりたいね。人が死ぬのがわかるという人もいるらしいし、中には前世がわかると言う人もいるそうだが、わしは今はそんなことは知りたくもないね。「人は誰でもこれを見たいと念じ続ければ、遅かれ早かれそれを見る事ができる。」と確かヴィヴェカーナンダの講演集に書かれてあったような気がするが、実際そのとおりで、自分を高めていくことと、特異な感覚を手に入れることとは何の関係も無いとわしは思う。わしは現実の世界の片隅で、欲ばらず、あるがままを受け入れながら、死ぬまで少しずつ精進して行くことができたらそれで満足だな。その過程でもし受け入れ準備ができたら、それが理解できるようになることもあるだろう。そうでないと本末転倒だと思うがな。