無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10699日

 今度安倍総理真珠湾のアリゾナを訪れるらしいが、わしが真珠湾攻撃というものを知ったのは、たしか兄貴が貸本屋で借りて来た漫画だったような気がするな。あのフォード島が真ん中あり、その左側に戦艦がならんでいる有名な写真や、巻頭には小松崎茂の戦艦テネシーが燃えている絵なんかもあった。当時の論調は、日本軍は強かったということが強調されて、わしなんか血湧き肉踊ったな。だまし討ちとかなんとかケチを付け始めたのはもう少し年がたってからだ。昭和30年代なんかは戦争世代が社会の中心で、そのときの雰囲気をありのままに知っているから騙せなかったんだろうな。

 中学生くらいになると、自分でも戦記物をよく読むようになった。旺文社の中学時代1年生だったと思うが、毎号戦記物が連載され、ガ島沖海戦なんか面白くて発行が待ちどおしかったな。その当時の戦記物は陸戦海戦ともに戦争指導者や上級者の話を元にしたものが多かった。作戦全体を知る事ができた人達だな。国際的には戦後独立したアジアの国への賠償を行い、戦争に区切りをつけた時期でもあり、条約によりすべてをリセットした時期でもあった。

 わしが戦記物というか、本自体を読まなくなったのは宗教に関心を持つようになってからだったな。知識などがらくた同様だと考えるようになり、つまらん本を読んでも暇つぶしにもならないと、読書をやめた期間が10年位あったかな。再び戦記を読むようになったのは、30代前半くらい、昭和50年代後半くらいだったな。世の中の大東亜戦争に対する論調が変って来ているんではないかと感じるようになったことが原因だった。所謂左翼的な考え方や日本の軍隊や戦争の負の面を強調することにより、日本をおとしめる事を目的としたとしか思えないような内容の話が、マスコミでも普通に流されるようになっていた。それらの流れは、まるで戦争世代が社会の一線から引退するのを待っていた勢力があって、それが力を得てきたかのような印象を受けたな。

 これはもうだめかと思っていたが、それから30年経ち、インターネットの普及により、その流れに変化が起こりつつあるような気がしている。今では昔と違ってネット上で右から左まで、玉石混淆とはいえ、あらゆる情報を得る事が出来るようになった。戦記関連でも、無数のサイトが立ち上がり、本を買い集める必要も無くなった。もはや世の中を一方的な論調で統一する事は不可能になったと言えるだろう。自分たちが取捨選択した情報をたれ流す既存マスコミは、存在意義とその信用とを失って来ているからな。

 ただ1つ残念なことは、あの戦争を指導した軍人がほんの40年くらい前まで存命だったのに、会いに行って話を聞かなかったことだな。既にその人達の年になり、人生を無駄に過ごして来たということは、あとになってしみじみ感じることなのかもしれんな。