無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10689日

 わしが社会との接点を絞る事にことによって、何が変ったかというと、感情の起伏が少なくなったということかな。腹をたてることが少なくなり、穏やかな時間がすごせるようになったと言えるかもしれない。しかし、社会との接点を減らすといっても、通常の経済活動をしていれば不可能なことで、利益を出すとか、給料を得るとかしようと思えば、当然社会の中に飛び込んで行かなければならない。わしが年金生活を待ち望んでいた理由の1つはこれで、経済活動をする必要がないということだ。そこでは自分をあわせる対象は社会ではない。自分の中にある、人間としての普遍的な道義心、或は大いなる力に対する信頼というようなものこそが、自分を合わせる対象となる。これができれば人生最高の贅沢だとわしは思う。

 しかし、そうは言っても、無人島ではなく、町内に住んでいる以上避けて通れないものもある。例えば必ず回って来る組長とか町内会長なんかもその1つだ。祭りなんかの時に町内会長にでもなっていたら、それは忙しくなるだろう。いずれにしても順番がくれば、1日家にいるんだから当然引き受けるんだが、ものは考え様で、元気に人の世話をする機会を与えられるというのも、これはまた別な意味で恵まれた人生と言えるのかもしれんな。勿論、自分を合わせる対象さえ間違えなければという条件つきだが。