この間の西部邁氏の自殺以来、自殺についていろいろ考えることが多くなった。別にわしが自殺したいというのではなく、どのような心境になれば死が許容できるようになるのか、その過程に興味があるということだ。多摩川の冷たい水の中に飛び込むという行為が、死に直結するということは、普通の判断力があればわかることだが、それでも後ろから背中を押すものは、死を恐れないもう一人の自分なのだろうか。
わしは両親の死にゆく様を見て、死への準備ができれば、死ぬことは恐ろしいものではないということに気が付いた。というよりも、死期がくればおのずと準備が整ってくると言ったほうがいいのかもしれない。しかし自殺というものは、本当の死期が来る前に、そして死の準備ができる前に、死を強制的に納得させるさせるだけの、強い意志というのか、或いは狂気と呼ぶべきなのか、ある種の感情の高ぶりに支配されるということなんだろう。
おそらく先に希望が感じられる人は自殺することは無いだろう。わしは、先に希望を持ちながら自死することは自殺の範疇には入らないと思っている。自分が死ぬことで何かが変わるかもしれない、自分が死ぬことで誰かの役に立つかもしれない、これらの感情が死を選ぶ動機になっていたとしたら、それは自殺ではないと思う。この例は、大東亜戦争末期の特攻隊員、堺事件の土佐藩士、湊川の楠正成、三島由紀夫、歴史上あげれば枚挙にいとまがない。
ネットで検索してみると西部さんの死は、自裁死として好意的に受け取られているようで、ちょっと驚いている。わしみたいに、著作の一冊も読んでない者が、とやかく述べる資格はないのかもしれないが、知りえた範囲では、わしの中では単なる自殺の範疇に含まれるのではないかと感じている。
最近、長生きすることへの不安や恐れは、歳と共に増幅されてくるのではないかと思うようになった。若い頃は、生命が何時まででも続くように錯覚しがちだが、歳をとると、ちょっと走ると膝が痛い、ぶら下がると肩が痛い、不整脈、物忘れ、昨日できたことが今日できない、こんなフィジカルな小さな不安が積もり積もって、だんだん生きる気力を失わせるのではないのだろうか。そして生に対する不安が死の恐怖を凌駕するときに自殺に至るのかもしれない。しかし...................................
「内宮の分魂(幸魂・奇魂)と産土様の分魂(荒魂・和魂)が赤ちゃんの体内に入って初めて人間として完成するわけです。」「自殺は一番の大罪です。神様がお分けくださった命です。神に無断で処分することは許されません。」
これらは相曾誠治著「サニワと大祓詞の神髄」にでてくる自殺に関する著者の言葉だが、この言葉を素直に感じることができれば、せっかくいただいた四魂を粗末にすることなく、毎日悩みや不安を抱えながらも、たとえ生き恥をさらしても、お迎えが来るまで頑張ろうと思えるようになるのではないだろうか。こういう話をすると、つまらんたわごとだと、即刻拒否反応を起こす人達もいるが、いずれにしても死ねばわかるんだから、相手にする必要もない。
自殺は決して立派なことではない。