先日、女房の父親の実家がある、瀬戸内のN島に墓参りに行ってきた。最後に行ったのは、もう20年近く前になるから、ふた昔も前のことになってしまった。うちの子供らが小さかった頃、夏休みに海水浴に連れて行ってやったが、その子供等も今日8月13日に末っ子が30歳になった。時のたつのはほんとうに早いものだ。
その実家のあとを取っていた叔父のNさんが亡くなったのが先月だった。残念なことに武漢肺炎の影響で女房も葬儀に行けなかった。今の時期に亡くなる人は気の毒だ。このNさんはちょっとアクの強いところもあったが、寝たきりの両親を下の世話をしながら自宅で最後まで看取った立派な人だった。言うのは簡単だが、なかなかできないことだ。
Nさんとはあまり話したことはなかったが、今でも印象に残っているのが、山の上のスイカ畑にスイカを取りに行ったときに、眼下に輝く海を指さして、「あそこを戦艦大和が通ったのを見たことがある。」と話してくれたことだ。どうやら、その海峡を抜けて連合艦隊が柱島に向かったらしい。
連合艦隊の泊地が柱島にあったことは知っていたが、迂闊にもそのルートに関しては全く考えたこともなかった。
その時Nさんが指をさしていたのはクダコ水道と呼ばれる場所で、海保の資料によると吃水10.4m幅38.9mの大和が通過するには幅も水深も十分にある。
「クダコ水道は、安芸灘南部、中島と怒和島の間にあり、最狭部の中央にあるクダコ島により東・西二つの水道に分かれ、 いずれも幅約0.6海里で、最大水深154mの水道です。この水道は釣島水道とともに安芸灘~伊予灘に通じる主要な 航路の一つです。東側の水道では、大潮期の平均流速は4.6ノット、西側の水道では、大潮期の最強流速は6.5ノットに達することがあります」
また、情島と津和地島のあいだにある諸島水道を利用したと書かれてある資料もあるようだ。たしかに伊予灘に出るには、諸島水道が最短距離になるが、Nさんが実際に見たと言っていたのだから、クダコ水道も利用していたことは間違いないだろう。
N島の人口も最盛期の五分の一になり、今では過疎の島になってしまった。戦後のミカン生産で渦巻いていたあの熱気はどこへ行ってしまったのだろう。
子供のころのN少年が、クダコ水道に浮かぶ戦艦大和を見て血沸き肉躍らせた海岸も、テトラポッドで埋め尽くされて人影はなかった。