無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10597日

 午後1時半からのJさんの葬儀に従兄弟のMさん、Rさんと一緒に参列したが、途中の車の中で、幾ら包んだらいいのか悩んだという話で3人が一致した。つまりこういう事だ。わしも、Rさんも、Mさんも、自分の父親や母親の葬儀に、Jさんからもらったのと同じ額を包もうと考えていたが、よく考えると、わしらの父親母親はJさんにとって叔父叔母にあたるが、Jさんはわしらにとって従兄弟であり、叔父ではないということだ。叔父への香典と従兄弟への香典は同じではない。今後Jさんの遺族とのつきあいも、香典の額と同じくランクが下がって行き、だんだんと疎遠になっていくんだろうなという結論になった。

 わしは火葬場まで行って、その後の初七日法要まで残るつもりで初七日用のお包みも持って行ったんだが、結局葬儀が終わったらそのまま持って帰った。昭和36年に結婚したJさん夫婦は昔からよく知っている。わしなんかはまだ小学4年生だったが、その後いろいろかわいがってもらった。もしJさんが口をきけるなら、「○○ちゃんようきてくれたな、初七日法要までおってくれや。」と言ってくれたかもしれないが、誰にも誘われることはなかった。

 葬儀は残ったものがやるんだからそれは仕方が無いだろう。親族席にいても、Jさんの2人の弟まではよく知っているが、その子供になるとほとんど知らない。年寄りもたくさん座っていたが、誰も知らなかった。3人で「これでは、もうあの家に行く事もないかもしれんな。」と話した。次回会うとしたら、年の順だとJさんの奥さんの葬儀になるだろうが、そのときは連絡があるかどうか。こちらの法事関係でも、もう声をかけることはしないから、こうして一つの歴史がおわるということなんだろう。

 Jさんは、生まれたときからわしのおふくろがかわいがってきたので、わしの親父やおふくろとも非常に仲が良かった。また、Jさんの母親とわしのおふくろは、あと10659日に書いたように、戦後の苦しい時期を助け合って乗り越えた、いわば戦友みたいなものだったが、こんなことを知っている人はもう誰もいなくなってしまった。

 

あと10598日

 おふくろの甥にあたる、従兄弟のJさん葬儀が、このブログを始めて以来、最初の親類の葬儀になった。そのうちにわしの順番もやってくるが、それはこのブログの更新が無くなった時でもある。ブログは誰にも話してないので、わしが死んだらそれでおしまい、ゴミになってそのうち消されるだろう。昨夜、従兄弟のRさん、Mさんと3人でJさんの家に行く途中の車の中で、「じいさん、ばあさん、両親、おじさんおばさんと、みんな死んで行って、とうとう従兄弟の順番になってしまったなあ。」という話になった。Mさんが、今回亡くなったJさんと同い年なので、年齢順なら次は私だなと言っていたが、寿命だけはわからんからな。

 昭和49年の5月、わしが最初入ったD海運を退職して家にいた頃だと思うんだが、わしは自転車でJさんの家、つまりおふくろの実家に行ったことがあった。別に用事はなかったんだが、わしも暇だったんだろう。そこで一杯飲もうかという事になって、Jさんは近所に住んでいる2人の弟と、叔父叔母夫婦にも連絡して家に来てもらった。その時にJさんが、鴨居にある、ニューギニアで戦死した父親の写真を見上げて、「わしもとうとう親父の歳をこえたわい。」と言ったのを昨日の事のように思い出す。Jさんは当時37歳だから、昭和19年に戦死したお父さんは、もし生きていたら昭和49年には67歳になっていたはずだ。今思えば昭和49年は戦死して30年の節目の年だったんだな。

 今日午後6時からのお通夜の法要のあと、坊さんが、Jさんは会いたかったお父さんには会えただろうか、お母さんや飼っていた動物などにあえただろうか、おじいさんやおばあさんにもあえただろうか、会えていたらいいなあと私は思いたいと言っていたが、あの世界は下見が出来ないんだから、これは坊さんにも誰にもわからない。しかし、残された人は、死んだ人がそうあって欲しいとみんな思うだろう。もちろん先に死なれることはつらいけど、死んだらご先祖様みんなに会えると考えると、辛い気持ちも少しは紛れるんだろうな。

あと10599日

 今従兄弟が死んだと連絡があった。従兄弟の中で最年長の80歳になるが、ずっと病気がちではあった。おふくろが死んでからは、あまり行き来してないので知らなかったんだが、今年になって、おふくろと同じホスピスに入院していたようだ。以前舌ガンだと言っていたから、おそらくそれがどこかに転移したんだろう。戦前戦後の時代を知っている唯一の人だった。もっと話を聞きたいと思いながら、無為に過ごしてきた。残念だがしかたがない。状況がよくわからないので、これから家に行ってみることになった。わしより14歳上で、小さい頃からかわいがってもらった。いろいろ思い出は多いが、仕方が無いな。

あと10600日

 あと10600日になってしまったが、果たして何歳まで命が続くのか楽しみだ。生きると言っても寝たきりになって生きるのでは嬉しくはない。自分の事は自分でできるという状態で生きることが、有意義な人生の基本だと考えている。わしのおふくろは83歳の時、肺がんで死を宣告されて精神的にまいってしまったが、最後まで、血液検査の結果はわしよりよかった。もう少し積極的に生きようとすれば、また違ったのかもしれない。しかし当時はわしも含め、周りのみんなが動転してしまって、適切な援助をすることができなかった。死を前にした人に、いったい何を語れば良かったのか、今だにわからない。直らない事はわかっているんだから直るとも言えない。本人がしんどいと言っているのに、検査結果は異常なしだから問題ないとも言えない。死んだら神の国に行けるなどと、行った事も無いのに無責任な事は言えない。来年の今頃はいないと決まっている人に何を語りかけたらいいのか、自分に正直であればあるほど悩み多い日々だった。

 わしはまだ時間があると、自分で勝手に思っているだけで、本当はそんなに残されてないのかもしれない。とりあえず、見渡せる範囲に死の影は見えないというだけだ。そこの角を曲がったら、それが突然現れるかもしれない。おふくろにはそれが突然現れたが、親父は最後まで死ぬとは思っていなかったと思う。わしは女房と一緒に、2人を最期まで看続けたんだが、生に執着しながらあっけなく死んで行ったおふくろと、その後10年の期間を生きながら、あまり楽しめなかった親父と、2人の死に様をみて、死ぬ事もたいへんだと改めて感じた。おふくろの最期の瞬間には立ち会えなかったが、親父の最期の瞬間には立ち会えた。親父は満足して、理解して死んで行ったと信じている。

 既に親は見送り、いよいよ次はわしの順番になっているので、自分の死に様をいろいろ描いてはいるが、こればかりは思う通りにならない。1人で生活を完結できるなら、10600日も無駄にはならないだろう。しかし、子供に迷惑をかけるようなら、ほどほどに死んでやるのが子供のためだろう。幾ら考えても何の結論もでないことはわかっている。つべこべ言わず『今日を生きる』気持ちで、死ぬまでその日その日を完結させ、積み上げていくしかないんだろうな。

あと10601日

 娘と孫が、ショッピングモールに用事があって出て来るというので、わしらも出かける事にした。現地で合流して5人で昼食を食べたんだが、子供の成長の早さには驚かされる。今年の4月から幼稚園に行くので、それに慣れるために設けられた、週一回月曜日だけのクラスに4〜5回通っただけで、すっかりお姉ちゃんになっていた。わしなんかのように、既に成長が止まり、片手でぶら下がっただけで肋骨が痛くなったり、腰痛でボウリングもできなくなったり、若いときできていたことが、どんどん出来なくなってきているじじいから見ると、うらやましい限りだな。

 わしは若い時から、ボウリングは決してうまくはないんだが、仲間内の大会ではいつも上位に食い込んでいた。フォームもでたらめで、まっすぐ投げるだけしかできないが、それだけで悪い時でも120〜130点で140〜160点くらいはでることもあった。子供等と行っても今まで一度も負けたことはなかった。ボウリングだけは子供には負けない自信があったんだが、この間、長男家族と一緒に行って、その自信は打ち砕かれた。通常腰が痛いので、腰高で投げざるを得ない。これではコースが安定しないので、100点もでなかった。65にして初めて子供に負けたことは、ちょっと悔しいが、老化と思って諦めるしか無いんだろうな。

 昭和48年4月〜6月、航海訓練所練習船青雲丸の実習航海で、国内を回っていたとき、同じグループだった9人は、晴海沖〜小樽〜境港〜長崎〜博多〜広島〜神戸と入港する度に、全員で揃ってボウリング大会をやった。みんなで金を出し合って景品を用意して、結構盛り上がっていたが、わしはいつも2位だった。1人200アップするうまい奴がいて、優勝はいつもそのH君だった。広島でやったときにわしは人生最高点198点をだしたんだが、それでも勝てなかった。H君は成績番付でも横綱、ボウリング番付でも横綱だったが、悪い事に船酔い番付でも堂々たる東の横綱で、航海の度に青い顔をしていた。それで結局船を諦めて、陸の会社に就職したな。

あと10602日

 毎日他人と関わらずに過ごしていると、気が楽なのは事実だ。わしはもともと人と話したり、一緒に何かをやるのはあまり得意な方ではなかったので、若い時から、1人でいることにそれほど苦痛は感じなかった。若い時ような焦りもないし、こうあるべきだなどと自分を追い込む事も無い。いたって平穏な日々が続いているんだが、これで良いのかなと思う事もある。ただ自由になる金は少ないので、そこら当たりはちょっと厳しい面もあるが、出歩かなければ金を使う事もない。ただ、近いうちに参拝旅に出たいと思っているので、久し振りの大きな出費になりそうだ。

 わしは60過ぎて、青春18切符で旅に出るようになったが、旅行中、必要な事以外、ほとんど人と話す事は無い。娘の嫁ぎ先の両親に、何時間も電車に乗って何をしているのか聞かれたことがあった。ぼーっと景色を眺めているだけだと答えると、「それだけだと退屈しませんか。」と言うので、電車に乗るのは単なる移動手段ではないので、景色を眺めていることは決して退屈ではない、というようなことを答えといたんだが、理解はしてもらえなかったようだ。

 わしは1人でいることが好きで、1人でいることに何の抵抗も無いと信じて来た。ところが、確か産経新聞だったと思うが、あの蛭子能収さんが、最初の奥さんを亡くしたときのことを書いていた。『自分は1人が好きで、1人になっても大丈夫だと自他ともに認めていた。しかし、そう言えたのは、本当は自分は1人ではなく、女房がいたからだと気が付いた。実際に女房を亡くしてしまうと、襲って来る孤独感に耐えられなかった。』ざっとこんな感じだったかな。これを読んで、偉そうに言っても、わしも女房の存在に甘えているところがあるんじゃないかと、ちょっと思い当たることもあった。動けるうちにたまには外に出て、人と交わっておくことも必要なのかもしれんな。人と交われば、平穏な心を乱されることもあるだろうが、それも刺激になり、脳の活性化に役立つこともあるのかな。

あと10603日

 前に住んでいた家は、土地が65坪程あり、新築したときに小さな庭を造るスペースがあった。しかしわしは庭には興味が無かったので、花でも植えればいいだろうと気楽に考えていたんだが、親父は木を植えたかったようだ。そのためには真砂土を1トンほど入れる必要があり、その作業をわしにやれというんだが、1トンがどれほどの量か見当もつかない。しかし、これをやらないと話が前に進まないので、とりあえず了解しておいた。

 それから一週間後の土曜日に、仕事から帰ると、車庫の中から前の道路の真ん中あたりまで山の様に積まれた真砂土をみて言葉を失った。とにかく道路に積まれた分だけでも早く片付けないと邪魔になるので、スコップと猫車で夜中近くまでかかって敷地内に運び込んだ。翌日は早朝から夕方までかかって残り全部片付けたが、当時34歳で若かったからできたんだろう。それでもしばらくはひどい筋肉痛に泣かされた。

  ちょうどその頃、親父が定年前に勤めていた、林業関連の県の施設が移転する事になり、そこに植わっていた木を貰えることになった。自分でおがして、自分で運ぶことが条件なんだが、ありがたいことに、親父の知人が全部まとめて運んでくれることになった。そこで、日曜日に親父と2人で現場に行って、ほしい木に印を付けて回った。ウバメガシ約10本、棒樫約15本、錦木1本、野村楓1本、いろは紅葉1本、アメリカはなみずき3本、等かなりの量になった。特に、アメリカはなみずきは、親父が種から育てたもので、思い入れがあったようだ。

 植えるのも一苦労だった。特に棒樫は大人2人でやっと運べるくらいまで成長していたので、女房の弟にも来てもらって、3人で穴を掘って二日がかりで植えてしまった。その後の手入れも剪定、消毒とたいへんで、この家から今の家に引っ越すことになり、庭とさよならできるときはほんとうにうれしかった。そんな訳で、つい最近まで、わしにとって庭とは苦痛でしかなかった。

 ところが最近ちょっと変って来た。1日家にいると、今まで注意して見た事が無かった庭の椿に、いろんな違った花が咲いている事に気が付いた。一本一本それぞれ種類が違っていて、咲く時期も違うし、大きさも色も形も全部違っていた。家を建て替える時に、60鉢ほどあった椿を人にあげたり、処分したりして、気に入ったものだけを残したと言っていたが、このことだったのかと改めて気が付いた。わしが長年ほったらかしていたので、弱ったのもある。だが今ならまだ間に合うかもしれない。庭木の勉強をして、戻せるものなら親父が元気だったころの全盛期の庭に戻してみるかと考えるようになった。