無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10540日

 満員電車で、女性に痴漢だと言われて、否定しながら逃げた人が、電車にひかれて亡くなっていた。ほんとうに痴漢だったかどうか、本人が亡くなった以上誰にもわからなくなってしまった。わしも若い時10年程東京にいたので、朝夕の満員電車は経験しているが、男女がごちゃ混ぜに、ぎゅうぎゅう詰め込まれているんだから、予期せず女性の体にあたることは普通にあった。今回の件もニュースで聞いた限りでは、腰のあたりに違和感を感じたとか言っていたが、わしの覚えているような満員電車だったら、動けないんだから、腰に当たることもあるだろう。本人が亡くなられた以上、本当に痴漢だったかどうかきちんと捜査して、結論を出してほしいと思うのは、わしだけではないだろう。

 というのも、実はわしも総武線でひやっとしたことがあった。その電車は満員ではなかったんだが、秋葉原駅で急ブレーキがかかった。わしはつり革につかまってなかったので、かなり強く前につんのめって飛ばされた拍子に、無意識に何かを掴んでしまった。すぐにそれが女性のふともものあたりだと気が付いたので、手を離そうとしたら、急にブレーキがゆるんで少し加速したので、今度は後ろに倒れそうになり、もう一度掴んでしまった。その女性はつり革につかまっていたので難はのがれたんだが、わしのほうをすごい形相で睨みつけていた。こいつ何か勘違いしているなと思ったので、睨み返して、後は無視していたらそのまま次の駅で降りていった。

 わしは痴漢のニュースを聞く度にいつもこの件を思い出す。急ブレーキという原因はあったにしても、あの時痴漢だと大声で叫ばれていたら、逃げる事は出来なかっただろう。現行犯逮捕で秋葉原駅事務所から警察に直行となり、犯罪者にされていたに違いない。勤め先もクビになったかもしれないし、そうなれば今の生活も無かったわけだ。当時はそれほど思わなかったが、1人の女性の思い込みだけで、一生を棒に振るかもしれなかったと、時がたつにつれて怖くなってきた。

 今ではわしは、東京に行ってもラッシュ時は避けるし、混んで来ると必ず両手でつり革を持つようにしている。朝夕には男女それぞれ専用車両を走らすことが、女性のためにもなると思うんだが、電鉄会社はなんでやらないんだろうかな。わしは32歳のときに不満はあったが、親のいうことを聞いて、田舎に帰ってきた。おかげて満員の通勤電車ともおさらばできたんだが、こんなニュースを見る度に、たまには親のいうことを聞いておいてよかったなと、感謝することもある。

あと10541日

 かれこれ60年近く前の話だが、うちの近くに結構名の知れたM鮮魚店という魚屋があった。店舗も持っているが、仲買い人でもあったようだ。大通りに面しているので当時は人通りも多く、朝の時間帯には、新鮮な魚を買い求めにくる客でごった返していた。今のようにスーパーマーケットも無い時代なので、おふくろも時々魚を買いに行っていたんだが、ある日面白い話を聞いて来た。当時どこの商店でも、お客さんに渡す商品を新聞紙に包むことが多く、紙も貴重な時代だから、新聞紙という物は生活の中でけっこう重宝されていた。

 おふくろが聞いてきたのは、そのM鮮魚店で包装用の新聞紙を買い取ってくれるという話だった。新聞紙をそのままではなくて、1/4にカットした状態の物を持って行ったら、一枚幾らだったか、キロ幾らだったか忘れたが、結構良い値で買い取ってくれるということで、大学生なんかがよく持ち込んでいたらしい。当時わしは文具屋でみた、300円の世界地図が欲しかったんだが、なかなかおふくろは買ってくれなかった。これは幅1mくらいの大きさで、部屋に貼れば立派なインテリアになる代物だった。

 おふくろは、わしにそのアルバイトして、自分で世界地図を買う事を提案して来た。丁度夏休みだったので、わしもやる気になって、その日から包丁で新聞紙を切る作業が始まった。一週間くらい続けたような気がする。そして最後に出来上がったものを、おふくろがきれいに縛ってくれて、それを22インチの子供自転車の荷台にくくりつけてくれた。わしは重たくてふらふらしながら、意気揚々とM鮮魚店に向かった。

 たしか300円以上あったはずだ。初めて自分で稼いだ金をポケットにいれて、その足で世界地図を買いにいった。その地図を壁に貼付けて、赤い線で引かれた航路帯を眺めながら、以前本で読んだ、最初ディアズによって嵐の岬と名付けられた、喜望峰の場所を探したりした。そして、千島列島と台湾朝鮮半島満洲を赤で塗りつぶしたんだが、これは周りの大人には結構うけた。十数年前まで大日本帝国の支配が及んだ地域なんだから、当時の大人にとっては懐かしい塗り分けだったんだろう。その地図も、今の家を建て替えるときに全部処分してしまったようだ。

あと10542日

 地図というものを最初に意識したのは、兄貴が小学校2年生の時に、電電公社の写生大会で佳作に選ばれて、賞状と記念のメダルをもらったときだった。幼稚園で一緒だった近所のK君とわしが、家の前の側溝のわきに座って話していたら、兄貴がメダルを持って来て見せてくれた。その時に表の模様が日本列島だと話してくれたんだが、わしらには、日本列島といっても何の事だかわからなかった。今の幼稚園児は生活の中で受け取る情報量も多いから、当然知っていると思うが、60年前の幼稚園児には、日本という国の形が理解できなかったということだ。

 この時兄貴は、わしは大きくなったら絵描きになると言うとったな。この時はみんなからすごいと言われて、その気になっていたんだろう。確かに零戦や軍艦を描いたり、戦争漫画を描いたりするのは上手かったが、中学生ぐらいになると、美術や美術教師なんかを小馬鹿にするようになり、真面目に描かなくなってしまった。それでも、高校生になってもノートや教科書の端に描いていた戦争漫画はなかなかの出来映えで、うまいなと思っていたら、とうとう漫画の中身の方が本職になって、海上自衛隊パイロットになってしまった。

 兄貴が賞状とメダルをもらったことは親父もうれしかっようで、すぐに白い額縁を買って来て、みんなで部屋に飾ったの覚えている。このときの賞状とメダルは親父の遺品の中に残されていたので、兄貴に持って帰るかときいたら、いらんと言うとったな。確かに家に持って帰っても、結局ゴミになるだけなので、その選択は正しいんだが、当時の親父やおふくろの喜び様をよく覚えているわしなんかには、物に執着しないのも程々にせいよと、ちょっと不満だったな。

 ところで地図といえば、所謂国連、正しくは連合国だが、この旗について今でも覚えていることがある。わしは小さい頃、この旗に書かれてある地図が、クモの巣にしかみえなかった。幼稚園の時、多分運動会の前だったんだろう。わしは運動場に張られている万国旗の中に、そのクモの巣みたいな変った旗があるのに気が付いたので、松原先生に、どこの国の旗か聞いた事がある。先生はしばらく考えて、世界全部の国を表している旗だと教えてくれた。日本という国の概念すらおぼつかない、幼稚園児に聞かれても、説明に困っただろうが、当時我が国が国連に加盟して1年目だから、まだまだ一般的ではなかった時代に、なかなかうまいこと教えてくれたなと、今でも感心している。この松原先生も、ご健在なら80歳を過ぎているだろうと思うが、お元気だろうかと時々思い出す事がある。

あと10543日

 わしは酒も煙草も、親に隠れて17歳位から時々やっていたので、実は自分の子供等がそんな事にならないか、密かに心配していたところ、長女長男は問題なかったが、二男が煙草所持で警察に補導されてしまった。法律で禁止されているんだから、そんなものを持ち歩くという事自体、社会をなめていたということなんだろう。警察から、最近は個人情報保護の観点から、学校から聞かれない限り、学校の方に連絡する事はないと言われた。つまりこちらから学校に申告しなければ、停学になることはないということらしい。しかし、わし等夫婦は補導とはいえ、法律を犯して警察にやっかいになったんだから、自分で責任を果たすことを勧めた。

 翌日二男は自分から申し出て、一週間の停学になったが、他の一緒に補導された仲間は誰も停学にならなかった。一見、正直者が馬鹿をみるという結果にもみえるが、じつはそうではない。この件があってから、二男の態度に変化がでてきた。学校の事や友達のことなどを話すようになったし、友達を家に連れてくるようになった。実際に会ってみると、みんな明るい、礼儀正しい子等で、わしらはそれだけで安心した。両親が学校に呼ばれて、校長に謝罪するのをみて、何か感じたのかもしれんな。

 停学中は学校で謝罪文を書かされたらしいが、他の件で停学になった生徒も何人か同席していたらしい。その中の1人に自転車部の生徒がいて、二男はその生徒にいたく同情していた。その生徒はただ自転車が好きで、将来プロになりたいという希望があったので、ときどき競輪場に見に行っていた。勿論車券を買う事は無い。ただ自転車が好きで見ていただけで、補導されて停学とはひどすぎるだろうと、自分の停学は仕方が無いが、この生徒の停学はひどすぎると文句をいっていたな。

 二男の場合は、もともと真面目な性格で、高校の指導体制も充実していて、停学が良い方向に働いたといえるだろうが、一生を棒に振った人も見て来ている。法律で決められている以上、守らないといけないこととはいえ、考えてみれば煙草を吸ったとか吸わないとか、あと3年もすればどうでも良い事になる。ほんとうに些細なことだ。子供は禁止されているから粋がって吸うという面もある。なぜ高校生はだめなのだろうか。健康に悪いというなら20歳過ぎても同じ事だ。法律で禁止するなら、年齢ではなく喫煙自体を禁止にするべきだろう。高校生が煙草の一服で一生を棒に振るなんていうことは馬鹿げている。

あと10544日

 わしは船乗りの経験は長くはないが、かえって短い期間だったからこそ、受けた印象がマンネリ化せずに、記憶に残っているといえるのかもしれんな。パイロットの件にしても、何十年も乗っていれば、いちいち覚えていないだろう。当時、新米機関士で、見たり聞いたりすること全てが珍しかったし、その後、ほとんど新米のままで船乗りをやめたから、当時の事が強く記憶に残っているんだろうな。

 

 『昔から商船のブリッジに椅子はない。当直は立って行うものである。ところがどの船に行っても一脚だけ椅子を置いている。これはパイロット用で、パイロットは座ってもいいことになっているらしい。ブリッジ左舷側に陣取り椅子に座って前方をにらんでいる、私が初めて真近に見るインド人は、頭にターバンを巻き、立派なあごひげをはやした、期待に違わぬまさにインド人のイメージそのものであった。

 白いターバン、黒い髭、褐色の肌、白い制服、ぴくりとも動かないその姿は彫刻のようでもあった。その彫りの深い横顔は哲学的で、この人は何かものすごいことを考えているに違いないと思わずにはいられなかった。実際にはインド人がみんな宗教的、哲学的であるはずもなく、この人も別にたいしたことを考えているわけではないのだろう。ひょっとしたら、晩飯のことでも考えていたのかもしれない。しかし外見から受ける第一印象というのは恐いもので、その横顔に比べると私を含め、まわりにいた日本人がいかにもしまりのない顔に見えた。

 これを山尾さんに言うと、両手で自分の顔をごしごしをこすりながら「しまりがないか。これはしょうがないぞ。なあ。」と言いながら近藤さんの方を見てにやりと笑った。そして何を思ったか突然パイロットの側に歩み寄った。パイロットが何事かと振り向いた時、彼に向かって最敬礼をした後、「あんたは偉い。」と叫んだのである。これにはブリッジにいた全員が一瞬呆気にとらた。暫くしてどこかでクスクスと押し殺したような笑い声が聞こえたかと思うと、ブリッジ全体が大きな笑いの渦に巻き込まれた。当のインド人パイロットは、いったい何が起こったのかと、きょとんとしている。「山尾君、からかうのはそれくらいにしとけよ。へそ曲げられたらこまるからなあ。」笑いもおさまった頃、園田船長が言った。

 いつのまにか真っ赤な夕陽が地平線に沈もうとしていた。赤く染まった水面に何隻かの船がシルエットのように浮かび上がっている。仮泊地に近づいたという吉田一等航海士の声を聞いて、私たち二人は大急ぎでエンジンルームへ降りていった。』

f:id:tysat1103:20170512165344j:plain

あと10545日

 昨日の続きで、カルカッタへ向けてのわしの最初の航海の様子だが、わしもインドは行ってみたい国だったので、期待していた。 

『機関室内にあるコントロールルームには当直の宮崎二等機関士と操機手の前田さん、河川航海ということで機関室の責任者である山尾一等機関士も入っていた。私が先ほど近藤さんから聞いたインド人パイロットのことを話すと、「話にはよく聞くが、実際お目に掛かったことはないなあ。近藤さんから電話があったら俺も一緒に見に行くよ。」と山尾一等機関士が興味を示した。通常、機関科の者がパイロットと顔を合わすことはない。三〇分ほどすると、けたたましいブザー音と共にテレグラフがスタンバイエンジンを指示した。通常航海の状態からエンジン回転数を変える準備をせよという合図である。それに続いてスローエンジン、デッドスローエンジンと立て続けにテレグラフが動いた。そろそろパイロットが併走する小舟から本船のタラップに飛び移る準備をしている頃である。「さあ、お偉いパイロット様のご乗船だ。」宮崎二等機関士が、メインエンジンの操縦ハンドルを操作しながら、近藤さんの声色をまねておどけた調子で言った。その見事な物まねに大爆笑がおこった。五分ほどして通常の航海に戻ったころ、近藤さんからの電話が鳴った。

 私と山尾さんはエンジンルームを出てブリッジへ向かった。一度甲板へ出てガンジス川の景色を眺めてから、外階段を通って行くことにした。陽は既に西に傾きかけていたが、遥か彼方に陸地らしきものが見えた。川幅はいったい何キロあるのだろう。これはどう見てもこれは川ではなく海だと思った。引き戸越しにブリッジの中を覗くと船長、一等航海士、当直航海士、近藤さん、他に4~5名がいてブリッジの中は満員の状態だった。しばらく覗いていると近藤さんと眼があった。彼はにこっと笑って手招きをした。「失礼します。」私は大きな声で挨拶をして中へ入った。「どうしたの珍しい。」双眼鏡を覗いていた一等航海士の吉田さんが振り返った。「インド人のパイロットが偉そうだというんで、どんなものか見に来たんだよ。」山尾さんがブリッジ中に響きわたるような大声で言った。「聞こえますよ。」私は驚いて山尾さんの顔をのぞき込んだ。「なあに、いいんだよ。奴等は日本語がわからないから。ねえ船長。」見ると園田船長も笑いをこらえながらうなずいている。』

f:id:tysat1103:20170511171005j:plain

明日に続く

あと10546日

 朝の掃除をしながら、ユーチューブで昔の歌番組などの映像を見ていると、時々NHK紅白歌合戦がでてくることがあるが、この間、わしにとって一番思いで深い、昭和48年の映像が流れていたので思わず見入ってしまった。わしはそれほど熱心に紅白を見ていた方ではないが、昭和48年のだけは思い出に残っている。あれは、昭和49年の1月だったと思うが、カルカッタキングジョージドックに接岸後、船内に次の様な掲示がでた。『カルカッタの領事館で、昨年の紅白歌合戦の映画を上映するので、希望者は申し出る事。バスの送迎あり。』内地で正月を迎えることができない船乗りに、日本政府が紅白歌合戦を見せて、正月気分を味わわせてくれるという粋な計らいだった。誰かがこうやってわしらのことを気にかけていてくれるということが、ほんとうに嬉しかった。バスはM丸のいたキングジョージドックだけでなくキダポールドックも回って、数十人の日本人船員を拾って領事館へ向かった。

 わしの乗船していたM丸は、大晦日、正月頃はカルカッタへ向けて航海を続けていた。其の時の航海の様子などを少し小説風に紹介する事にする。長いので3回ぐらいに分けることにした。

  『荷役を終えた本船は、午後二時にバングラデシュの港町チッタゴンカルカッタへ向けて出航した。一時間ほど川を下りベンガル湾へ出ると速力をあげ、航海速度一四~五ノットで北東に針路をとった。出航スタンバイから解放され甲板に出ると、ちょうどブリッジから降りてきたばかりの操舵手(クオーターマスター)の近藤さんに出会った。私に気が付いた近藤さんは「カルカッタへは、ガンジス川の支流を6時間ほど遡らなければならないので、途中で日没になるよ。」と、特徴のある、落語家のような語り口で話しかけてきた。「その時はどうするんですか。」「アンカー降ろして日の出を待つんだよ。」六〇〇〇トンの貨物船がアンカー降ろして日の出を待つという川がどんなものか、私には想像もできなかった。「あと二時間もしたらインド人のパイロット(水先案内人)が乗ってくるからね。インド人のパイロットは、みんな自分が世界一偉いと思っているから横柄だよ。そうだ、パイロットが乗船して暫くしたらエンジンルームに電話してあげるから、どんなものかブリッジに見に来るといいよ。」そう言うと、近藤さんはまたブリッジへ上がっていった。乾期の空はどこまでも青く、水平線のあたりにわずかに雲がかかっていた。そしてベンガル湾の、緑色の大きくゆるやかなうねりが船体を包み、ゆりかごに乗っているような心地よさを覚えた』

f:id:tysat1103:20160915211743j:plain

明日に続く