無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10273日

 先月22日に、車で一時間ほど走ってイオンモールに行ってきた。正確に言うとイオンモールはおまけで、途中にあるグラッチャーノというイタリア料理のレストランで、評判のニンジンドレッシングを買うのが目的だった。去年女房の友達から初めて貰ったんだが、サラダにかけて食べてみると、その絶妙の味に驚かされた。わざわざ一時間、車に乗って買いに来るのも大変なので、ネットで販売しないのかと聞いてみたところ、店で手作りしているため数が少なく、ネットで売って大量に注文がきたら対応できない。店まで買いに来てくださいと言われた。2か月に一度くらいは買い出しに出かけることになりそうだ。

 わしは個人的にはイオンは信用してないので、特に食料品のPBは安くても買わないようにしている。それでもイオンモールに行けば、いろいろなものを売っていて、それはそれで楽しいし、一時間ほどのドライブも丁度いいい刺激になる。これまでイオングループの店舗では現金で払っていたんだが、いろいろ聞いてみると、イオンカードやポイントカードを持っていると結構ポイントが付くらしい。まあ、わしが知らなかっただけなんだろう。

 家に帰って、早速ネットで検索してみて驚いた。とにかくわかりにくい。「WAON POINT」「電子マネーワオンポイント」と「ときめきポイント」、「WAON POINT CARD」「イオンカード」と「電子マネーWAONカード」。後から継ぎ足していったから、こんなことになったんだろうが、わざとわかりにくくしているとしか思えなかった。結局、全部理解するのに3日もかかってしまった。うちはイオングループの店舗で買い物をすることはあまりないので、たいした影響はないが、イオンをよく利用する人は、ポイントを旨く貯める方法を知っているかいないかで、一年たつと大きな差が出るだろうな。

 こんなことをやりながら、ふと思ったんだが、こうやって、3日かけてイオンポイントに精通したところで、寝ていた脳細胞が少しでも活性化したと思えば、それはそれで益はあったのかもしれないが、今のわしには何の使い道もない。しかし、使い道がないから無駄かと言えば決してそうではない。些細なことかもしれないが、これらのことを無駄だと思えば、明るい明日はやってこないと思っている。人が生まれてきたのには意味があり、その人生に無駄なことなど一つもないはずだ。つまらないことだと思っても、自分がやったこと、考えたことをすべて肯定的にとらえることができれば、死がそこまでやってきた時、死ぬことさえも有意義なものだと感じるようになるのかもしれない。そうありたいものだ。

あと10276日

 先日、うちの向いに住んでいた、Nさんが亡くなっていたということを知った。わしが中学生の頃に、遊び場になっていた空き地に、家を建てて引っ越してきた人だが、わしは16歳で家を出たので、ほとんど面識は無かった。享年85歳というから、わしより18歳ほど年上になるはずだ。Nさんは、勤め先を定年で辞めてから家に居るようなったので、それからは、顔を合わした時に挨拶をするくらいの付き合いはするようになった。声の大きな人で、悪さをした小学生や中学生を叱るNさんの声が、よく聞こえてきたものだ。

 何年か前に施設に入ったということは知っていたが、その後の事は全く分からなかった。最近、息子さんがよく帰ってきていたので、あまり良くないのかなあと、女房と話はしていたが、亡くなったら一度家に帰ってくるからわかるだろうと考えていた。ところが3日前に、女房が近所の奥さんから、Nさんは既に亡くなっているということを、聞いてきた。どうやら家に連れて帰ることなく、そのまま葬祭場に行ったようだ。あっさりしているなと驚いた。

 知った以上ほおっておけないので、次の日にお悔みに伺って話を聞くと、葬儀は家族葬で、内輪だけで済ませたそうだ。香典返しに入っていた、長男の喪主挨拶を読んでみると、長年トラックドライバーとして家族の生活を支えてくれたことへの感謝や、料理が好きで、自分たち夫婦が帰省した時には腕を振るってくれたことなど、親を思う気持ちが切々と伝わって来た。

 この50数年の間に、Nさんも結婚して、家庭を持ち、子供が生まれ、成長して独立し、また夫婦だけの生活に戻り、そして死んでいった。わしにとっては、いつの間にか時が流れ、いつの間にか亡くなっていたNさんだが、その間、おそらくNさんの家庭にも、多くの家庭と同じように、嬉しいことも悲しいことも、様々なもめ事もあったろうし、時には親子の衝突もあったに違いない。当たり前のことだが、それぞれの家にそれぞれの歴史があり、みんなそれを背負って生きているんだろう。

 ミンコフスキー著「生きられる時間」に「人が一個の単位、一人の人間になるのは、決して生まれることによってではなく、死ぬことによってである。道に標尺を立てるときには、杭を一本一本最後の杭まで立てていくが、ここでは最後の杭だけが大切なのであり、それが立てられたときに、他のすべての杭が魔法によるかのように、地面から起き上がり端から端まで、道全体に標尺が立てられるのである。」と書かれてある。死ぬことは本人にとっても、周りの人たちにとっても大変なことだ。

あと10281日

 この間の西部邁氏の自殺以来、自殺についていろいろ考えることが多くなった。別にわしが自殺したいというのではなく、どのような心境になれば死が許容できるようになるのか、その過程に興味があるということだ。多摩川の冷たい水の中に飛び込むという行為が、死に直結するということは、普通の判断力があればわかることだが、それでも後ろから背中を押すものは、死を恐れないもう一人の自分なのだろうか。

 わしは両親の死にゆく様を見て、死への準備ができれば、死ぬことは恐ろしいものではないということに気が付いた。というよりも、死期がくればおのずと準備が整ってくると言ったほうがいいのかもしれない。しかし自殺というものは、本当の死期が来る前に、そして死の準備ができる前に、死を強制的に納得させるさせるだけの、強い意志というのか、或いは狂気と呼ぶべきなのか、ある種の感情の高ぶりに支配されるということなんだろう。

 おそらく先に希望が感じられる人は自殺することは無いだろう。わしは、先に希望を持ちながら自死することは自殺の範疇には入らないと思っている。自分が死ぬことで何かが変わるかもしれない、自分が死ぬことで誰かの役に立つかもしれない、これらの感情が死を選ぶ動機になっていたとしたら、それは自殺ではないと思う。この例は、大東亜戦争末期の特攻隊員、堺事件の土佐藩士、湊川の楠正成、三島由紀夫、歴史上あげれば枚挙にいとまがない。

 ネットで検索してみると西部さんの死は、自裁死として好意的に受け取られているようで、ちょっと驚いている。わしみたいに、著作の一冊も読んでない者が、とやかく述べる資格はないのかもしれないが、知りえた範囲では、わしの中では単なる自殺の範疇に含まれるのではないかと感じている。

 最近、長生きすることへの不安や恐れは、歳と共に増幅されてくるのではないかと思うようになった。若い頃は、生命が何時まででも続くように錯覚しがちだが、歳をとると、ちょっと走ると膝が痛い、ぶら下がると肩が痛い、不整脈、物忘れ、昨日できたことが今日できない、こんなフィジカルな小さな不安が積もり積もって、だんだん生きる気力を失わせるのではないのだろうか。そして生に対する不安が死の恐怖を凌駕するときに自殺に至るのかもしれない。しかし...................................

 「内宮の分魂(幸魂・奇魂)と産土様の分魂(荒魂・和魂)が赤ちゃんの体内に入って初めて人間として完成するわけです。」「自殺は一番の大罪です。神様がお分けくださった命です。神に無断で処分することは許されません。」

 これらは相曾誠治著「サニワと大祓詞の神髄」にでてくる自殺に関する著者の言葉だが、この言葉を素直に感じることができれば、せっかくいただいた四魂を粗末にすることなく、毎日悩みや不安を抱えながらも、たとえ生き恥をさらしても、お迎えが来るまで頑張ろうと思えるようになるのではないだろうか。こういう話をすると、つまらんたわごとだと、即刻拒否反応を起こす人達もいるが、いずれにしても死ねばわかるんだから、相手にする必要もない。

自殺は決して立派なことではない。

 

あと10285日

 今月21日に、西部邁氏が自ら多摩川に飛び込んで亡くなった。その後多くの人が、予感がしていたと話したり、書いたりしているので、その通りになったということだろう。西部さんに関しては、時々テレビで話しているのを聞いたことがあるくらいで、本を読んだこともないし、何をしていた人かも詳しくは知らない。記憶として残っているのは、おそらく東大を辞職した頃の事だと思うが、テレビで秀明大学教授と紹介されているのを見て、はて、秀明大学とは初耳だが、一体どこにあるのかなと思ったことくらいだ。

 その後も時々テレビで見たことはあるが、わしが興味を持ったのは、話の中身よりもその語り方にあった。手振りや表情の変化を交えて、ゆっくりと絞り出すように、それでいて楽しそうに話すその独特な話法は、決して立て板に水ではないが、聞いている者を引き付ける何かがあった。それは生まれ持った才能かと思っていたが、先ほどウィキペディアを読んでいて、そうでは無いのではないかと気が付いた。

 それによると、氏は18歳までひどい吃音だったらしい。これが本当だとすると、わしが聞いた西部氏の話し方は、東大入学後、それを克服する過程で身につけた話法だったのかもしれない。これほど完璧に直すには血のにじむような努力が必要だっただろう。わしの友人の奥さんも、子供の時、吃音を治すために東大に通ったことがあったと聞いたことがあるから、東大には専門家がいたのかもしれんな。

 わしも子供の頃はなんともなかったんだが、歳をとるにつれて時々どもるようになってきた。家では気にかけないが、外へ出ると気を付けている。今から思えば、どもらないように気を付けて話していると、何となく西部さんの話し方に似てくるような気もしている。頭の中で考えて、きちんとまとめてから口を開くこと。激しい討論には加わらないこと。優先的に発言する場があるときのみ、ゆっくり話すこと。これらのことを常に気にかけていなくてはならない。ほんと、ペラペラしゃべる人がうらやましい。

 女房の父親は完ぺきな吃音者で、かなり苦労をしたと本人から聞いたことがあった。県職員になった頃、上司から電話はとらなくてもいいと言われたこともあったらしい。上司は会話に苦労している部下のことを思って、何気なく言ったんだろうが、かなり傷ついたようだった。西部さんのように克服することができたらどれだけ楽だっただろう。吃音さえ無ければ、知事になっただろうという人もいるくらい優れた人ではあった。西部さんが、もし吃音を克服していたのなら、最後に、吃音を治す方法として自身の経験を出版してもらいたかった。

 

あと10290日

 昨日、雇用保険申請で停止されていた、待期期間3か月分の年金の振り込み通知が届いた。いろいろ面倒だったが、これでやっとこの問題は解決して過去のことになった。専門家が間違えるということは、本人の勉強不足もあるんだろうが、制度自体が複雑すぎるのかもしれない。やはり何事も人任せにせずに、自分でやるという姿勢が大切だと実感した。

 一昨日から犬の花子がびっこを引くようになった。午前中に風呂場で体を洗ってやっただけで特別なことはしてないが、午後になって左前足の様子がおかしいことに気が付いた。花子は今までに2回、後ろ足が立たなくなったことがあったので、どうなることかと心配したが、左前足に力は入らずとも、びっこを引きながらもトイレには行けるのでその点は楽だった。

 昨日の朝になっても治らないので、小太郎の歯槽膿漏の治療後貰った、痛み止めの薬が残っていたのを飲まして、様子をみることにした。花子は何でもよく食べるので、ドッグフードに混ぜれば、すぐに食べるだろうと安易に考えていたが、なんと、ドッグフードだけをより分けて食べて、薬の粉はほとんど残されていた。舌だけで器用にできるもんだと、これには感心した。残った薬を少しの水で溶かして、それにふりかけをまぶしてやると、大好きなふりかけの誘惑には勝てなかったようで、いやいやながらでも、時間はかかったが食べてしまった。

 昨日が痛みのピークだったようで、窓際の陽だまりで、左足を舐めながら外を眺めていた。それでも人が外を通る度に、窓に飛びついて吠えるといういつもの癖は改められず、安静にしておればいいのにと思うんだが、本能の前には痛みなんかどこかのすっ飛んでしまうんだろう。吠え終わるとまたびっこを引きながら、窓際の定位置に座り込んでしまうんだから、これではなかなか良くならないはずだ。

 昨日の薬が効いたのか、今朝起きるとだいぶ良くなっているようだった。昼頃になって、もう一度だけ薬を飲まそうと思って、昨日と同じ要領でやってみたが、今回は全く見向きもしなかった。犬の学習能力侮るべからずというところだが、ちょうど炒めた牛肉があったので、それに混ぜてやるとすぐに食べてしまったから、肉が旨いという記憶には勝てなかったようだ。

 犬はものが言えないだけに、文句も言わず、じっと我慢しているのを見ているのは辛いもので、良くなってほっとしている。人間と同じで、死ぬまで元気でいてほしいと願わずにはいられない。

あと10295日

 一昨年の11月に、白山ひめ神社と敦賀気比神宮に参拝して以来、参拝旅は休んでいる。女房には、ボケ防止にもなるし、どこかに出かけてきたらいいのにと言われているが、当初予定していた神社は全部回ってしまったということもあって、なかなか思いつかない。行くとすれば九州の宗像大社霧島神宮高千穂峡あたりを考えている。しかし、これを短期間でに回ろうとすると、JRとバスを乗り継いで行くのは無理で、やはり車で行くしか選択肢はないんだろうな。

 そんなことをいろいろ考えていると、女房に無料の一日バス旅行が当たった、というはがきが舞い込んできた。福山草戸稲荷参拝と岡山の湯郷温泉入浴がセットで、本人は無料、同伴者5000円という好条件だったが、早朝6時にJR駅前を出て、帰ってくるのが午後8時という日程は、引きこもりじじいに二の足を踏ませるには十分だった。結局女房に勧められて参加することになったが、結論からいうと、まあそれなりに良かったかなと思う。

 この手の旅行に必ず付いてくるのが、~の見学とか、~の販売とか、旅とタイアップした催し物で、今回はムートンの工場見学が一時間以上も組み込まれていた。ムートンが高いものだということは知っていたが、卸価格で、シーツが40万とか50万とかいう値札が付いているのを見てびっくりした。カーペットでも20万とか30万とかで、最初は丸の数を一つ間違えているのではないかと思ったくらいだ。

 もっと驚いたのが、店の人が本気で売ろうとしていたことだった。そもそも、夫婦で5000円の団体旅行に来るような層の人達が、即決できるような金額ではないだろうに。それとも、次から次へと団体が来ていたから、中には買う人もいるのかもしれんな。そこから1時間半ほどで湯郷温泉に着いた。ここは楽しみにしていたんだが、入浴時間は正味50分ほどしかなくてがっかりだった。こんなことなら、ムートンの時間を削ってでも、せめて1時間半はとって欲しかった。しかし営業的にはそうもいかんのだろう。

 まあ、値段なりの旅行だと思えば不満はないとはいえ、とにかく疲れた。バスの走行中はほとんど寝ていたので、どこをどう走ったのか全くわからないが、それでも旅ができるというのが、団体バス旅行の醍醐味といえばいえるのかもしれない。後ろの席で騒いでいた中年のおばちゃんグループが、また一緒に行く約束をしていたから、これはこれで需要はあるようだ。わしはもういいかな。

あと10303日

 仕事を辞めてしまうと、人生がつまらなくなるということの原因の一つに、人から評価されることがなくなるということがあるのかもしれない。去年の3月で仕事を辞めた、同い年のTさんからの年賀状に、農業、歴史、アマチュア無線等、いろんなことがやりたいこととして挙げられていた。ここは夫婦で年金があるので、金の心配はないとしても、どうやら仕事を辞めて収入が無くなった後も、嫁さんの家事労働に寄生しつづける生活をするつもりでいるようだ。

 世の中いろんな人がいるもので、Tさんなんかは、わしとは全く逆の性格で、機を見るに敏といえばいいのか、いろんなところに顔を出すのが好きで、交際範囲も広くて役に立つ人ではあった。頭の回転も速かったし、話も上手だったが、それと同時に、人からの評価を非常に気にしていた。そもそも、自ら人の中に入っていくのが好きな人で、評価されることが嫌いという人は少ないだろう。Tさんも、もちろん良い評価を得たくてやっていたんだろう。お陰で、それなりに人よりも出世して、給料もよかったから、目標達成というところかな。

 Tさんは、家に引きこもって、他者からの評価を受けることなく、嫁さんからの評価だけで生きていくことは困難だろうと思っていたから、あのTodoList満載の年賀状を見た時、やっぱりなと、思わず笑ってしまった。一生勉強することは大切だが、若い時と違ってゴールが見えてきた今、何をやるかという選択は、非常に重要だと思っている。最近学び直すとか言って、知識を求めて大学に入学する人達もいるようだが、おそらくTさんのように、人に関心をもってもらわないと、有意義な人生が送れない人達なんだろう。

 わしは逆に、年金生活になって、人からの評価を受ける機会もなく、つまらない知識の集積からも解放されたということに、一番の喜びを感じている。66年間詰まった知識を開放して忘れてしまいたいとさえ思っているのに、今更新しいガラクタを詰め込むことなど考えられない。こんなことを言うと、誰かに「あの伊能忠敬を見てみろ。50を過ぎて隠居してからあれだけのことをやり遂げたのだから、できないことはない。」と反論されたことがあった。

 「歴史上何人もいないような偉人を取り上げて、お前もできるなどと無責任なことは若い人に向けて言ってくれ。60も過ぎれば、身の程を知るということも大切なことだろう。」と答えておいた。しかし、たとえ毎日が死ぬための準備だとしても、それだけで緊張感を持って毎日を過ごせるわけではない。いくら求めても、正解は誰にもわからないし、闇夜の海を航海するようなものだ。これをやればうまくいくという指標もない。しかも、そこでは知識は何の役にもたたない。

 欲を言ってもしようがない。ああ今日も良い一日だったと信じて寝ることができれば、それ以上の幸せはないはずだ。