無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10530日

 小さい頃から、親父の実家に行くとヤギがいて、時々その乳を飲ませてくれた。生臭くて、お世辞にもうまいとはいえなかったが、昔は牛乳の代用に使っていたようだ。実家でやぎを飼い始めたのは終戦後だった。なぜヤギを飼い始めたのか、そこには終戦後の殺伐とした時代に、妹を思う兄の優しさがにじみ出るようなエピソードがあった。わしはこの話をおふくろから聞いたが、当事者は既にみんな亡くなっているので、このことを知っている者は、他にはいないだろう。

 親父とおふくろが結婚したのは昭和23年で、親父は再婚だった。あと10771日にも書いたように、おふくろの長兄は戦死したが、次兄は海軍から生きて帰ってきた。次兄は海兵団にはいり、兵隊から兵曹長にまでなった人で、頭もよかったし、明るく朗らかで、わしらも好きだった。復員して帰って来た後に、当時まだ健在だった父親から、一番良い田を分けて貰ったのに、百姓はやらんと言って全部売って金に換えたことや、安定した会社の就職試験に受かったのに、海の仕事がしたいと言って、他の人に譲ってあげたこと、繁華街で路上の飲食店をやって儲けていたこと等、この伯父の戦後のエピソードはいろいろ聞かされているが、この伯父を悪く言う人は誰もいなかった。おふくろなんかも、困ったことをしてくれたと、笑いながら話してくれたものだった。

 結婚当初、親父は体が弱く病気がちだった。おふくろからその話を聞いて、伯父も心配していたようだ。栄養をつけるために、毎日牛乳でも飲めればいいんだろうが、戦後の食糧難の時代にそれは無理だ。それでは、その代わりにヤギの乳がいいんじゃないだろうかと思いついたらしい。牛は難しいが、ヤギならなんとかなる。伯父はすぐにつてをたどってヤギを購入した。そしてそのヤギを引いて親父の実家までやって来た。直線距離にして約16キロ、わしはこの話を聞いたとき、写真で見た、兵隊の服を来た伯父が、ヤギを引いて田舎道を歩いている姿を想像して、思わず笑ってしまった。

 実際には一緒に貨車に乗ってもよりの駅まで来て、そこから1kmほどを歩いてきたらしいが、突然、兄がヤギを連れてやって来たんで、みんなびっくりしたそうな。「○○さんに、毎日やぎの乳を飲まして、栄養をつけてあげてくれ。」と言って置いて帰ったが、おふくろは、兄の心遣いが本当に嬉しかったみたいだった。

 まあ、これで親父がヤギの乳を飲んで元気になったのなら、ありがたい話で終わるんだが、残念ながら、親父は若い頃から食べ物の好き嫌いが激しかったので、結局ヤギの乳はあまり飲まなかったようだ。口に合わなかったんだろう。