無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10512日

「高原の駅よさようなら」とか昔の歌をユーチューブで聞いていると、バックに映画の画面が流れていて、そちらを見るのもまた楽しい。古い映画には当然のことだが、蒸気機関車がよく出て来る。この蒸気機関車というやつは、乗るのは嫌だが、走っている姿を横から見るのいいもんだ。若い頃、廃止されていく蒸気機関車を追いかけて、全国を回り写真を撮るのが趣味だという男がいた。最後の北海道では、吹雪の中で死にそうになったことがあったらしい。高校生のときからバイトで金を貯めて、撮影に行っていたと話していたが、すごい執念だと感心したものだった。

 無くなって初めて良さがわかるものというのがあるが、この蒸気機関車は将にそれではないだろうか。白い蒸気と煙突からは黒い煙を吐きながら、シュッシュッと声をあげながら力強く走る姿を見た時、たとえそれが映像であっても、がんばれよと声をかけたくなるのは、知らないうちに生き物のように感じているんだろう。缶の火を焚いて蒸気を起こし、火力を調整して蒸気圧を一定保ちながら走るのは、かなりなテクニックが必要になる。しかも単独で完結しているところが、他から電力をもらう電気機関車とは全く違う。運転士ではなくて機関士と呼ばれる所以だろう。

 蒸気機関車の熱効率は10%以下だったらしいから、発生した熱のほとんどを捨てている。恐らくベテラン機関士で10%、ひょっとしたら新米機関士なら5%以下じゃなかったのかな。しかも、発電所や船舶と違って、あのコンパクトな車体では効率をあげる対策には限界があったことだろう。それが満員の客車や貨車を引っ張って日本全国を走っていたんだからたいしたものだ。

 先に書いたように、乗るのは大変だった。煤で服が汚れるし、トンネルの入るとそれは悲惨だった。昭和38年に小学校の修学旅行で阿蘇に行ったとき、まだやまなみハイウェイが出来る前で、大分から内牧(うちのまき)まで豊肥本線を使ったが、煙の匂いで生まれて初めての乗り物酔いを経験した。特に、最後の外輪山を抜けるトンネルでは、窓を閉めてない奴がいたようで、隣が霞んで見えるほど煙が充満して、わしの他にも3人程酔ったやつがいた。昔、トンネルで殉職した機関士がいたらしいから、本職でも大変だったんだろう。

 結局効率も悪いし、使い勝手も悪いので消えて行ったんだろうが、無くなると懐かしくなるものだ。蒸気機関車だけでなく、映像の中で、たらい、洗濯板、下駄、白熱電球ちゃぶ台等、消えていったものを見ると、あんなことがあった、こんなことがあったと、自分のたどってきた歴史を思い出させてくれる。若い頃、或は子供の頃、貧しかった頃の生活が、その当時に一緒に生きていた人と共に生き生きと蘇ってきて嬉しくなる。これもユーチューブを見る楽しみの1つだと言える。