無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9174日 S伯父の軍歴

母方の伯父にあたるSさんは、亡くなってからかれこれ30年にはなるだろう。海軍を志願して海兵団で教育をうけ、最後は海軍兵曹長として終戦を迎えた。大東亜戦争では3回重油の海を泳いだが奇跡的に生き残った。しかも命令がなくては部署を離れることができない機関科である。

若い頃、断片的にはいろいろ話を聞かせてもらったが、当時はこちらの知識不足もあって、あいまいな部分が多い。もっといろいろ話を聞いておけばよかったと後悔している。

あれは、確か昭和49年の5月か6月頃のことだった。ニューヨークでアメリカのタンカーに乗船ということで、パスポートを外務省に取りに行ったり、ビザ取得のためアメリカ大使館に行ったりして、東京へ行く機会が多かった。別に深く考えたことはなかったが、アメリカ国内で乗船して仕事をするのだから、就労ビザでも必要だったのかもしれない。

その時に何回か伯父の家に泊めてもらった。そして、伯父と従兄のFさんと3人で中山競馬場に行ったり、房総半島を車で一回りしたり楽しく遊ばせてもらった。叔父も海軍の船乗りだったので、夕食時には当時の話を聞かせてもらった。

実は伯父が私と同じ機関科だったということをその時初めて知った。その時に聞いた話の多くは忘れてしまったが、特務艇母艦千代田に乗っていたということと、軍艦は直流だったということだけはなぜかはっきりと覚えている。

伯父は機関科で釜焚きはしんどい、電気なら楽だろうと上官に頼んで電気の学校に行かせてもらったと笑いながら話してくれた。

千代田といえばのちに空母に改装されてレイテ沖海戦の時、おとり艦隊としてエンガノ岬沖で沈んだ空母千代田だから、今ならそこから話は縦横に広がっていくことだろうが、当時は残念ながら特務艇母艦千代田といわれてもピンとこなかった。

敵前上陸後、兵隊が周囲の様子がおかしいというので、この辺りは友軍しかいないはずだから軍艦旗と振ってやれと言って振らせたところ、突然機銃掃射されて危なかったことや、大東亜戦争開戦数日前にパラオからマニラへ向かう輸送船が爆撃されたが不発弾だったので助かったときのこと、原爆投下直後に広島の宇品港に上陸したときのこと、日付や何時何分頃という時間まで覚えていたのには驚かされた。

伯父はこちらの質問にはその類まれな記憶力で詳しく答えてくれてはずだから、私の記憶があいまいだということは、やはりこちらの知識不足でたいした質問ができなかったということだろう。

去年、それらの断片的な記憶を繋げようと千葉にいる従兄のFさんを訪ねて伯父の軍歴を見せてもらおうと思っていたのだが、武漢発コロナのおかげで行けなくなってしまった。それを見ると断片的な記憶が繋がっていくかもしれない。今年中に行けるようになればいいのだが。

その前に、3親等以内でなければできないそうだから、従兄のFさんが厚労省に父親の軍歴照会をして、資料を取り寄せているかどうか確認しとかないといかんな。